第25話 滝川の過去 ― 零れ落ちた光 ―

 ようとの恋は、ゆっくりとした静かな恋だった。

 でも、それはこれからがあると疑いもしなかったから。

 これからずっと一緒だと思っていたから。

 二人の気持ちさえ確かなら、ゆっくりと深めていく関係を楽しみに。

 それでいいと思っていた。


 まさか、こんな急に絶たれるなんて―――思ってもみなかった。


 陽が体調に異変を感じたのは、二年生の冬。ちょっとした貧血、鼻血、そんな小さな異変だった。病院で検査をすると急性白血病の診断。

 早期の発見と言われて、今では治る確率も高いと聞いて、前向きに治療に励んだ。

 陽はいつでも明るかった。少なくとも、葵や茜、良平の前では。

 けれど、抗がん剤の効き目が思わしくなく、副作用もきつくて、みるみる痩せ細っていった。

 最後の頼みの綱である骨髄移植も両親共に適合が叶わず。一人娘の陽にとっては厳しい結果となった。もちろん葵たち友人も調べてもらったが、そう簡単に適合者は見つからない。

 

 刻一刻と、陽の命のリミットが迫っていた。



 陽の母親が心労で倒れたので、今日は一人で見舞いに行って欲しい。茜からのそんな連絡を受けて、その日葵は一人で無菌室を訪れた。



 ガラスに隔てられた部屋の奥には、青白い顔で横たわる陽の姿が見えた。

 ふっくらとしたあの頃の面影は無く、微かに眉間に皺がより、苦しそうに口元が開いている。細い腕には点滴の針が刺さっていて、長いチューブの先は重量のある輸液に繋がっている。時々刺し直しているようで、青黒い内出血の跡が消えずに残ってしまっていて、見ているだけで痛そうだった。


 眠りを妨げても良いものかどうか、たっぷり十分は逡巡する。

 このまま、陽の寝顔を眺めているだけでもいいかな。そう思いつつも、やっぱり話したい気持ちが勝ってしまった。インターフォンをとって、小さな声をかけた。


「陽」

「あ」

 陽がうっすらと目を開けた。開いた口元から、声にならない掠れた音が漏れる。

 それからゆっくりとこちらを向いて、いきなり花開くように笑った。

「あおくんだ」

 でもその笑顔があまりにも透明で儚げで。

 葵は胸が押しつぶされそうになる。

「一人?」

「あ、ああ。今日はおばさんも茜もどうしても外せない用事があって」

 心配させないように嘘をつく。そんな葵の心遣いに気づいたように、陽の目に感謝が宿る。


「うふふ。夢が叶った」

「え?」

「たまにはあおくんと二人きりで過ごしたかったんだ」


 痩せてしまったため、もともと大きな瞳が更に大きく見える。それなのに真っ直ぐ葵に向けられたその双眸は、今までで一番くらいにキラキラと無邪気に輝いていて、葵は吸い込まれるようにガラスに近づいた。ゴツンと音がして、振動が全面に広がっていく。

 陽が楽しそうに声をあげた。

「あおくん、ドジだね」

 照れくさそうに額をさする葵を見て、陽がまた笑う。自動ベッドのボタンを押すと、ウィーンと静かなモーター音がして、陽が体ごと起き上がってきた。


「ちょっと、待っていてね」

 そう言ってベッドの柵へ手を伸ばすとグッと力を込めた。そろりと足を降ろす。骨ばった細い体がゆらゆらと揺れた。点滴スタンドを握り締めて、意を決したように立ち上がった。

「おい! 無理するなよ」

「大丈夫! あおくん来てくれたからご機嫌なの」

 点滴スタンドに寄りかかりながらゆっくりと、亀の歩みのように一歩ずつガラス窓へ近づいてくる。ほんの一メートル余りの距離が、永遠の道のりのように遠く思えた。


「気をつけろよ。焦らなくていいからな」

「もう、あおくん心配性なんだから」

 陽の瞳にきらめきが増した。きっと込み上げる涙を堪えているに違いない。駆け寄りたい衝動を必死で抑える。胸の奥がキリキリと痛んだ。

 

 息を切らせながら近づいてきた陽は、ほっとしたようにガラスに寄りかかった。先ほどの葵と同じように額を押し付ける。葵も慌てて屈んで視線を合わせた。

 

 お互いを目に焼き付けるように見つめ合う。

 その時、潤んだ陽の瞳が三日月に形を変えた。

 いつもの、太陽のような笑顔があふれ出た。


 ああ、この笑顔!


 葵はその笑顔を掬い取るように右手を伸ばしたが、冷たいガラスに阻まれた。そのままガラスに押し当てる。

 その手に合わせるように、陽も左手をガラスに添えてきた。


 分厚いガラス越し。それでも、お互いのぬくもりが伝わってくる気がする。

「あおくんの手、温かい……」

「そうかな」

「うん。手も、心も温かいんだ」

 葵は思わず赤くなる。

 

「あおくん、私、スッゴク幸せ」

「んなわけないだろう。苦しい思いしているくせに」

「ううん、幸せ。だって、私、今あおくん独り占めしてる」

「そんなの……これからだって、いつでも独り占めさせてやるよ」

「ほんと! やったー!」

 もう一度陽の笑顔が弾けた。


「でも、やっぱダメ!」

「え! なんで?」

「あおくんはあおくんだから。陽のモノでも、誰のモノでもないもん。だから、今だけでいいの。今だけで充分なんだ」

 今日だけは、照れも恥もかなぐり捨てて、ちゃんと言葉で伝えなければ……無口な葵が一世一代の勇気を振り絞ったのに、ダメだしされてちょっと落ち込む。そんな葵の表情を見て、また陽が太陽の笑顔を降り撒いた。

「ふふふ。あおくん、ありがとう。嬉しかったよ。だから、今日だけは特別に、陽もあおくんに独り占めさせてあげるよ。感謝したまえ。ははは!」

「今日だけか……けちだな」

「すねたあおくん、かわいいー」

 

 コロコロと表情を変える陽の笑い声が、インターフォンでは無くて、ガラスを通して伝わってくることが、葵は嬉しかった。こんなに近くで感じられたのは、いつぶりだろう……。


 陽がまたいたずらっ子のような顔で笑った後、急に真剣な眼差しに変えた。


「あおくん、これだけは絶対覚えておいてね」

「なんだよ? 俺は忘れっぽくねえよ。頭いいんだからな」

 ただならぬ決意を感じて、あえてはぐらかす。


 そんな、遺言みたいな言い方するなよ!


「うふふ。知ってる。でも、絶対忘れて欲しくないんだもん」

 そう言ってから、わざと芝居がかったような声で告げてきた。


「私はね、絶対死なないんだよ。だって、私は太陽の陽ちゃんだからね。太陽が死んだら、地球滅亡だよ。そんな事ありえないでしょ」

「……そうだな、お前は太陽だからな」

「後ね、陽は、あおくんが誰よりも優しいこと知ってる。あおくんが、陽のこと、すっごく大切に思ってくれているのも知ってるんだよ。だから、あおくんは、もう大丈夫だからね」


 何がどう大丈夫だって言うんだ! 

 陽がいなきゃ、俺は全然ダメなんだよ!


 心の中で悲鳴を上げたが、顔に出さないようにぶっきらぼうに言う。

「そうだよ。俺はお前が大切だ。それから……陽も俺のこと、大切に思ってくれていること、知ってる」

「うんうん。大切。陽はあおくんのことすっごく大切に思っているよ。大切だから、あおくんには、立ち止まらないで欲しい。真っすぐ前に進んで欲しいんだ」

「なんだよそれ? 俺は方向音痴じゃねえよ。方向音痴は陽のほうだろうが」


 陽の姿にもやがかかる。ぱちぱちと瞬きをして涙を逃すと、葵も伝えたい想いに正直になった。

「お前はそそっかしいからな。いつでもどこでも俺がお前と手を繋いでやる! 絶対離さないから安心しろ!」

「……ありがと」

 

 透き通るような微笑みが、力付きたように崩れ落ちた。


「陽! 陽!」

 狂ったような葵の大声に、看護師が慌てて入って来る。

「もう……あおくんは……大げさなん……だから。ちょっと、膝カックンしちゃった……だけだよ。インターフォン……壊れるかと……思ったよ」

 看護師に肩を貸してもらって、ベッドに戻って横になると、息も切れ切れになっている。それでも振り絞るように弱々しい太陽の光を向けてきた。

「手を離しても……大丈夫だよ。陽はね、いつでもあおくんの傍にいるんだから。あおくんのこと、ちゃんと見ているからね。迷子になんか……ならないよ」

 

 次の日から、陽の面会は家族だけになった。


 そして、陽は静かにこの世を去った―――

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