第21話 滝川の過去 ― 暗闇 ―

 善三じいさんの家で生活している時は、一階の作業場があおいの遊び場だった。

 じいさんが木を削ると、美しい木くずがいっぱいできる。

 まるで羽のようにふわふわで、均一な木くず。そして、つるつるに磨かれた木材たちを見て、葵は木の魅力に取りつかれた。

 じいさんも嬉しそうに色々教えてくれた。時々は、釘打ちの練習もさせてくれた。

 小学校にあがるとサッカーに夢中になったので、放課後は友達とサッカーをすることが多かったが、雨の日や休みの日は、変わらずじいさんの作業場に行って、飽きることなくじいさんの手元を見つめていた。


 小学校四年生の時、葵の母親は同じ職場の人と再婚した。

 その人はとても優しい人で、葵の本当の父親になろうと一生懸命声をかけてくれた。

 葵の父親に対する恐怖心は薄れ、葵もその人が好きになった。

 

 そして、滝川葵たきがわあおいは、柴田葵しばたあおいになって、じいさんの家から引っ越した。

 二年後には妹も生まれた。妹ができたことは、純粋に嬉しかった。

 母親は育児に追われるようになり、葵は学校とサッカーに明け暮れ、穏やかに月日は流れていった。


 中学生になると、葵はどんどん身長が伸びて、クラスで一番高くなっていた。運動もしていたから、腕力も体力も強くなった。

 

 が、それが、葵の心に不安を掻き立てた。


 元々、顔立ちが父親に似ている。

 鏡を見るたび、父親を思い出し、父親の暴力を思い出すようになった。

 俺も将来、あんな風に誰かを傷つけることになるかもしれない……そんな不安にさいなまれる。

 自分の中を流れる父親のを嫌悪した。


 今となっては、何でそんなことになったのか覚えていないが、小さなことで母親と口論になった。逃げようとする葵を引き留めようと母親が手を伸ばした瞬間、

「うるせえな!」

 そう言ってその手を払いのけた。

 そんなに力を入れたつもりは無かった。だが、母親の体がぐらりと揺らいだ。

 そして、見上げた母親の目に、ほんの一瞬、怯えの色がさしたのに気づいた。葵の父親に暴力を振るわれた時の恐怖が、反射的に蘇ってしまったのかもしれない。

 

 葵はハッとした。


 あの時と同じだ!

 で、母さんが傷つく。

 このままじゃ、今度は俺がこの家を壊してしまうかもしれないんだ!


 葵の中に、言いようのない恐怖が沸き起こった。

 とにかく、この場から逃げなければ……その思いから家を飛び出した。後ろで母親の呼ぶ声がしたが、振り返りもせず駆けだした。



 その日以降、葵は、なるべく家にいる時間を少なくした。一緒にいなければ傷つけることは無いはず。

 平日はサッカー部の練習に明け暮れ、休日も友達と遊ぶと言っては、朝早くから暗くなるまで出かけていた。


 おやじに似ている。顔も性格も。

 何か気に入らないことがあると、すぐカッとなるし、喧嘩っ早い。

 俺もきっと、将来酷い奴になる……。


 どす黒い感情が、追い払っても追い払っても追いかけてくる。

 何度も何度も葵の心を暗闇で覆いつくそうとした。


 なぜ、こんなにも不安になってしまうのか。

 それは、幼い日に刻まれた深い傷……で殴られていた母親の姿が、今も葵の目の奥に焼き付いたまま、心を抉り続けているから。

 だが、本人はそのことを自覚することさえ、無意識に封印しているようだった。


 思春期という、ただでさえ不安定な時期と重なって、得体の知れない不安はやがて、焦燥感、果ては絶望感となって葵に襲い掛かっていた。


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