第20話 滝川の過去 ― 傷 ―

 次の日、珍しく滝川は仕事を休んだ。陽人はるとがこの家に来て、初めての事だった。

 朝から一階の作業場に籠っていたが、物音は何もしない。心配になった陽人は、昼食を届けると言う口実をつけて、思い切って覗きに行ってみた。


 音をたてないように気を付けながら扉を開けると、立てた片膝を抱え込むようにして座り込んでいる滝川がいた。目線の先には、昨夜届けられた机。


 陽人はしばらく逡巡していたが、ようやく意を決して声をかけた。

「滝川さん、お昼持ってきました」

「あ、ああ、陽人、悪かったな」

 ようやく気付いた滝川が、ダルそうに陽人の方へ顔を向けた。


「この机、大切な人のなんですよね」

「そうか……茜に聞いたんだな」

「はい……」

「陽人、昼めしは?」

「あ、食べてきました。滝川さんも食べてください」

 陽人が持って行ったおにぎりに手を伸ばしながらも、いつもの力が無い。

「心配させて悪かったな」

「いえいえ、物音しないから、お昼持っていってもいいかなって思って」

 陽人は努めて何でもない様子で、明るい笑顔を湛えて答えた。


 その真っすぐな眼差しに、ようの瞳が重なった。


 滝川の心の扉がカチリと開く。


 陽人って、なんか陽と似てるな。

 どんな話でも、こいつになら話してもいいかって思えてくるから不思議だ……。


「陽人には、話しておいたほうがいいかもしれないな。よかったら、聞いてくれないか」

 

 滝川はそう言って視線を逸らすと、ぽつりぽつりと過去を語り始めた―――



 滝川は、生まれた時は都築葵つづきあおいだった。

 父親はサラリーマン、母親は近所のスーパーでパートタイマーをしている、ごく平凡な家庭。

 だが、あおいが幼稚園に入園した頃から、父親が酒を飲んで暴れるようになった。元々、酒の弱いタイプだったのだが、仕事の付き合いなどで無理やり飲まされ溺れるようになっていく。

 ストレスの捌け口は母親への暴力。それはだんだんエスカレートしていった。

 そんな父親が怖くて、葵はなるべく近づかないようにしていたのだが……。


 その日父親へ水を持っていったのは、たまたまだった。

 いや、違う。良い考えが浮かんだと思ったからだ。

 母親を助けてあげたいと、無意識にそう願っていたのだろう。

 酒では無くて水を持って行ってあげれば、父さんは暴れないで済むはず……子ども心にそう思ったのだ。

 ところが、その考えは裏目に出た。父親は酒で無いことに気づくと、コップを投げつけた。 

 そして、

「このクソガキ!」

 と叫びながら、葵に向かってきた。


 ぶたれる!

 そう思った時、ぎゅっと温かいものに包まれた。

 だが、次の瞬間、その温かいものは衝撃で大きく揺れた。

 何度も何度も揺れながら、それでも必死に全身で葵を抱きかかえ続けた。

 それは母親の秀子だった。父親に背中を殴られ、蹴られ……それでも葵を守りたい一心で耐えていたのだ。


 葵の目から涙がこぼれた。


 母さん!

 

 葵は自分のしたことのせいで、母親が殴られていることに気づくと、更にショックを受けた。


 母さん、ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい……


 心の中で何度も何度も謝る。



 そして、深く、深く、深く……  

 傷ついた。



 父さん、もうやめてよ!

 やめて!

 やめてくれよ!

 

 声のない叫びをあげる。



「やめろ!」

 

 その時、低い声が部屋に響いた。

 葵の心の叫びをすくい取ってくれたような静かな怒りを秘めた声。

 続いて葵の目に、善三じいさんに腕を捩じり上げられている父親の姿が、スローモーションのように映り込んできた。


 秀子の腕に見つけた痣から、もしやと思い確かめに来たところだったのだ。

「やめろ!」

 もう一度、低い静かな声でそう言うと、父親の腕をさらにきつく締めあげた。

 善三じいさんは大工だったので、普段から鍛えている。身長は高いが細い葵の父親は、アッと言う間に抑え込まれた。



「二人は連れて行く。少し、頭を冷やせ」

 じいさんはそう言うと、母親と葵を連れて帰った。

 その後、両親は離婚して、母親は実家へ戻り、葵は都築葵つづきあおいから、滝川葵たきがわあおいとなったのだった。



 しばらくして、父親はアルコール依存症を改善する施設に入院した。

 葵は思わず叫んだ。

「あんな奴、病院に入ったって、治るわけないよ!」

 でも、善三じいさんは静かに言った。

「お前の父親は、乱暴者でも、悪い奴でも無いんだ。ただ、ちょっと疲れ切ってしまっただけなんだよ」


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