第11話 大切な思い出
水曜日の昼過ぎ、滝川と陽人は『清光園』の前にいた。
外出許可が下りた杉浦おばあさんを玄関で出迎える。
柔らかなニットブラウスにロングスカート、淡い紫のカーディガンを羽織り、うっすらとお化粧をした杉浦おばあさんは、嬉しそうに車椅子に座っていた。
「あなた、楽しみだわ」
久しぶりの夫との外出に声を弾ませているようだった。
滝川の軽トラでは車椅子のまま乗り降りできないので、施設の人が車で送ってくれることになっている。
体調を考えると、往復の時間も含めて二時間ぐらいが限度という事と、注意事項を確認してから、丘の上の家へと出発した。
本当なら、陽人がこの場にいる必要性は無かった。滝川も「来なくていいよ」と言っていたのだが、陽人は自ら願い出た。人手があったほうがいいだろうと思ったから。いや、本音は違う。単に見てみたかったのだ。
仲良し夫婦が二人の最愛の場所で過ごす一時を。ただただ心に記憶しておきたい。
そんなわがままな気持ち。
車の窓から懐かしいわが家への道筋が見えてくると、杉浦おばあさんは身を乗り出して眺めていた。
家の前に降り立つと感慨もひとしおな様子でゆっくりと見回す。陽人の手入れの甲斐もあって、新緑が美しかった。
「やっと来れたわ」と呟くと嬉しそうに滝川を見上げた。
「緑が綺麗」
「こいつが手入れしてくれたんだよ」
「そうだったんですね。ありがとうございました」
滝川が陽人の方へ視線を向けると、杉浦おばあさんも丁寧に礼を言ってきた。
でも、今日は
善三おじいさんのフリをしなくてもよさそうだなと、陽人はほっと胸をなで下ろした。
家の中へは、滝川が作っておいたスロープを使って車椅子ごと入ることができた。
作業途中ではあったが、基本的なレイアウトは変えていないので、杉浦おばあさんは懐かしそうに家の中を見回している。
「あら、私がお皿を割ってつけてしまった床の傷が無くなっているわ! 良かった」
いたずらっ子のように微笑んだ。次から次へと視線を移しては色々な表情が浮かんでいく。家での様々な出来事を思い出しているようだった。
「ああ、今日も海が穏やかね」
部屋の中央に立つ大黒柱越しに、青い海が煌めいている。嬉しそうに声をあげると、しばらく静かに見つめ続けていた。
滝川が窓を少し開けた。春の温かな風に乗って檜の香がふわっと鼻孔をくすぐる。その香りを堪能するように大きく息を吸うと、大黒柱の傍に連れて行って欲しいと頼んできた。
「そうそう、この柱」
大黒柱に手を添えて、何回も何回も愛おしそうに撫でる。
「この大黒柱、あなたがどうしても剥き出しの形にしたいと拘って、そうしたら善三さんが、だったら檜がいいとおっしゃって。でも、こんなに太い木を手に入れるのは難しくて、善三さんがあちこち駆けずり回ってようやく見つけて下さったのよね」
それは滝川も初めて知る、善三のエピソードだった。
「私もこの柱好きでしたの。お部屋の真ん中にあるから、最初はちょっと邪魔かしらと思ったんですけど、家事をしながら、何度もこの柱の傍を通りながら海を眺めていいたら、とっても落ち着いた気持ちになれて。なぜかしら? 檜の香りが良いから、森にいる気分と海にいる気分と、どっちも感じられるからかしらねえ。あなたはこのことを分かっていたから、剥き出しの形にこだわっていたのでしょう」
「ああ、そうだよ」
即座に滝川が応じる。目線を合わせるように車椅子の横に膝をついた。
今日も滝川さん、優しいな。
陽人は滝川の穏やかな眼差しに脱帽する。
だが、それと同時に、滝川が誰かとおばあさんを重ねているのではないかという、唐突な思いつきにドキリとした。
誰と重ねているんだろう?
死んだおじいさんと重ねているのかな?
それとも他の誰か、大切な人……。
「そう言えば、一度、セミが間違って家の中に入って来たことがありましたね。あの時は善三さんもいらしていて、あなたと二人で追いかけて。セミも慌てているようで、部屋の中をブンブン飛び回っていたけれど、ようやくこの大黒柱に止まって、そしたら急に大きな声で鳴き始めて」
杉浦おばあさんはふふふっと可愛く笑って口に手を当てた。
「鳴き声が家中響き渡って大変でしたね」
思い出したように耳を塞ぐ仕草もする。
「でも、善三さんが後ろからそーっと近づいて、パッて素手で捕まえてしまって。びっくりしましたよね」
今度は心から面白そうに笑った。
「あなたったら、善三さんに『お前は忍者みたいに気配を消せるのか』って。そうしたら善三さんが、まさかっておっしゃって。俺は木になっただけだって。この檜の呼吸に合わせただけだっておっしゃって。ふふふ……後で善三さんらしいわねってお話しましたよね」
滝川が驚いたように杉浦おばあさんの顔を見つめた。その視線に合わせることなく、滝川の知らない善三じいさんのことを次々と話していく。
「善三さん、時々家の点検に来てださっていたわね。まるでお家のかかりつけ医みたいで。その時はその縁側であなたと二人で話しながらお菓子を食べていらしたわ。お酒も強いけれど、あなたと同じで甘い物もお好きで。あら? あなたに合わせてくださっていただけかしら」
「いや、同じくらい甘党だったよ」
滝川は懐かしむようにそう言った。
「あら、そうでしたの。あなたお仲間がいて良かったじゃないですか」
杉浦おばあさんはまた、幸せそうに微笑んだ。
「お孫さんが生まれた時も嬉しそうでしたね。でっかい声で泣く男の子で、元気でいいっておっしゃっていたわね。あなたが、大工を継がせるのか? って聞いたら、そうなったら嬉しいけどなって」
「じいさんが、そんなことを……」
滝川の口から思わず零れ出た言葉。
「善三さん、すっごく嬉しそうでしたよね。あなた」
杉浦おばあさんはニコニコしながら、今度はしっかりと滝川の目を捉えた。
滝川は一瞬、おばあさんは全てを分かって話しているのではないかと思った。問いかけるように瞳を見つめ続ける。けれど杉浦おばあさんの表情からは、どちらとも読み取れなかった。
その後も、杉浦おばあさんは次々と色々な事を思い出しては語ってくれた。
まるで、この家で起こった事を全て滝川に伝えようとしているかのように……。
時間は瞬く間に過ぎて、帰りの時刻となる。
「色々思い出してくれて……ありがとう」
滝川は心の底から礼を言った。
「あなた、連れて来て下さってありがとう」
「もう少しで完成するから、そうしたら、また来よう」
だが、杉浦おばあさんはニコリとして首を横に振った。
「慌てなくても大丈夫ですわ。今日、いっぱい目に焼き付けておきましたから」
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