第10話 おもてなしの心

「君、名前はなんて言ったっけ?」

 急に声を掛けられて、陽人は飛び上りそうになる。

「あ、はい、牧瀬陽人まきせはるとです」

「じゃあ、君はマッキー……いや、なんかマッキーペンみたいで変だね。『はるくん』でいいね」

 早速、陽人にもあだ名がついた。


「では、はるくん。質問です! 君は一つ百五十円のパンに、どれだけの人の手がかけられているか考えながら食べたことはあるかな? あるいは、百五十円のうち、コストと儲けはそれぞれいくらかなんて考えながら食べたことは?」

「え! な、無いです」

「そうだよね! それが普通だ。我々のような経営の立場にならなければ、そんなことはいちいち考えないよね。安くておいしい物が買えれば、それで十分だからね」

 兵藤は続けた。

「安い物を提供するには大量生産、マニュアル化、自動化が必要になってしまうんだよ。そうなるとどうなるかな?」

「えっと?」

 陽人がまごまごしていると、秋本が助け船を出してくれた。


「個性とか、手作りの良さが失われてしまうと言いたいんだろう」

「そうなんだよ。もちろん、大量に安い物を生産して、より多くの人に提供することはとても大切なことだし、社会を豊かにしていくために絶対に必要なことなんだよ」

 兵藤の表情は、さっきまでの軽いおじさんではなく、企業のトップとしての顔になっている。

「でもさ、それだけじゃ味気なくなっちゃってね。時には手間暇かけて作って、それを大切にしてくれる人に食べて欲しいなと思ったりするんだよね」

「あ、その気持ちわかります!」

 陽人は、滝川が丁寧に修理してくれたオルゴールの事を思い出して、思わずそう言った。兵藤が嬉しそうに笑う。

「この大理石の作業台で試行錯誤して、偶然が作り出すを作る。それは、今この時にしか作れない一点もの。唯一無二の存在さ!」

 兵藤はパンをこねるしぐさをした。大切そうに手の中にできあがったであろうパンを想像して見つめる。

「まあ、僕が作るのはパンだから、最後は食べて無くなっちゃうけどね」

 そう言って、ハハハっと笑った。


 熱い語りが一段落したところで、今日の目的を果たすべく、それぞれの打ち合わせが始まった。陽人はやることが無かったので、滝川にくっついて動いていく。


 丘の上の喫茶店は交通の便が悪いので、どこまでの集客力があるのかと内心思っていたが、店の前の道はそのままハイキングコースに繋がっていることがわかった。

 菜の花や桜並木、紅葉狩りなど、四季折々に楽しめるらしい。

 

「週末は人がいっぱい来そうですね」

 陽人がこそっと滝川に囁くと、耳ざとくそれを聞いていた広報担当の藤本京香ふじもときょうかが話に入ってきた。

「社長の道楽のせいで、私たち社員は大変なんですよ」

「そ、そうなんですか」

 大変といいながらも、藤本の目は笑っていた。むしろ楽しんでいるように見える。三十代半ばと思われる落ち着いた女性で、この人に任せておけば全て順調にいきそうと思わせてくれる安心感があった。


「もうけを考えないと言う、社長のとんでも発言はまあいいんですけどね。実はお客様が多過ぎると困るんです」

「え! それって、どういうことですか?」

「ここは店舗も可能な地域区分なんですけど、実際に周りは住宅地ですよね。しかも、道幅はやっと二台がすれ違えるくらいに狭い道。お店の駐車場も数が限られています。だから、一気にたくさんのお客様が押しかけてしまったら、住民の方たちに多大な迷惑をかけてしまうと思うんです。どうしたら、それをうまく緩和させて、一日辺り、時間ごとの集客を均等にできるかが、大切なポイントなんですよ」

「なるほど」

 陽人と滝川は顔を見合わせた。


「住民の方々にはご挨拶済みですし、予約制にしようと考えているんですけれど」

 藤本はそこで一旦言葉を切った。曇りの無い瞳に迷いが浮かぶ。

「喫茶店って、予約して行っても楽しいんでしょうか?」

 陽人と滝川がもう一度顔を見合わせた。

 

「喫茶店って、もっと縛られない感覚とか、偶然の出会いみたいなのがあった方が素敵だと思うんですよ。例えば散歩の途中に雰囲気の良いお店を見つけて、ふらっと入ってお気に入りになる……みたいな。気分に合わせて居たいだけいられるのも醍醐味の一つだと思うし。だから、予約してスケジュール通りに動くのは、ちょっと違うのかなって。お客様のサプライズを半減させてしまいそうで悩んでいるんです」

 

 営業上の避けられない制約があっても、最大限のもてなしを大切にしたい。そんな心意粋が伝わってきたが、今まで本格的な喫茶店には縁の無かった陽人には何と答えたら良いのかわからなかった。

 戸惑った表情に気づいた藤本、慌てたように話を変える。


「ごめんなさい。急にこんな愚痴のようなこと言われても困るわよね。忘れてください」

 恥ずかしそうに笑って立ち去ろうとする藤本に、やっぱり何か言ってあげたいと陽人は口を開く。


「旅行は宿を決めたり乗り物の予約をしたりして行っても楽しいから、きっと大丈夫だと思います。ここには綺麗な景色も、落ち着ける空間も、美味しい料理も揃ってるから、きっとスペシャルな時間になるはずです」


 藤本の瞳がきらりと輝いた。


「そうしたら、明日もがんばろうって思えると思います」

「明日もがんばろうって思える……素敵な言葉ですね。うん、いいわ。そのコンセプト。牧瀬さん、ありがとうございます。あなたの言葉に元気をもらえました」

 藤本はそう言って丁寧に頭を下げた。


「い、いえ。そんな。良かったです」

 照れて赤くなる陽人。藤本はとびきりの笑顔でもう一度礼を言うと、嬉しそうに兵藤の元へと歩いて行った。


 横で一言も言葉を発さずに聞いていた滝川がぼそりと言う。

「お前はいつも誰かのためなんだな」

「え、そんなこと無いですよ。ただ思ったことを言っただけで」

 そんな陽人を見る滝川の目が、また柔らかくなる。


「兵藤さん、ちょっといいですか?」

 藤本と話し終えた兵藤に声を掛けると、庭へと誘った。

「庭の草取りなんですけど、この陽人がボランティアでやってくれているんです」

 

 陽人が暇に任せて、コツコツと手入れしている庭はまだ途中だったが、杉浦夫妻が住んでいた頃のような状態に戻りつつあった。

「おおー、綺麗になってる。はるくん、ありがとう!」

 見回して嬉しそうな顔になった兵藤。陽人の手を取って、ブンブン振りながら礼を言う。

「君は『もてなし』と言う言葉の意味を知っているようだね。どうだい、ここがオープンしたら、うちで一緒に働かないかい?」

 思いもよらない申し出に、陽人は一瞬とまどった。


 え! ここで働く!


 それはとても魅力的な話に思えた。

 今までの経験も生かせる上、兵藤と言うアグレッシブな人と仕事ができることは、何よりも発見の多い楽しい人生になりそうだ。

 でも……。

「ありがとうございます! 今求職中なのは確かなんですけど、すみません。もう少し、自分のやりたいこととか、考えてみたくて」

 折角滝川にもらった猶予。手放したくないと思った。

 

「そうか。まあ、ここがオープンするのも、まだまだ先だから、考えといて」

 兵藤はそう言うと、海へ視線を向けた。

「ここからの海の眺めは最高だね」

 夕暮れが近づいて、海に赤みが差し始めている。


「引き続き庭の手入れをお願いできるかな? 食事券のお礼くらいはするからさ」

「はい! ありがとうございます。がんばります!」

 兵藤は眩しそうに陽人を見ると、「じゃ、よろしく!」と言って部屋へ戻って行った。


「滝川さん、ありがとうございます」

「別に」

 気遣いに感謝すると、滝川は無表情を装った。

 俺のことを兵藤さんへ伝えてくれて、滝川さんの方がずっとに動く人なのにな。

 陽人はそう思いながら、そのまま並んで海を眺めていた。 

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