第9話 ラピスのオーナー

 いつもは滝川が一人で黙々と作業をしている仕事場に、今日は珍しく大勢の人が集まっていた。

 ブーランジェリー・ラピスのオーナーの兵藤圭介ひょうどうけいすけと広報担当の藤本京香ふじもときょうか、設計デザイナーの青木卓也あおきたくやと、秋本不動産社長の秋本恒夫あきもとつねお、そしてなぜか陽人も加わって総勢六人。改築工事の進捗状況を確認しに来たのだ。

 

 兵藤は、パン職人と言うよりは、テレビに出ている芸能人のような華やかな雰囲気を持つ人だった。実際、何度かテレビで紹介されたこともあり、身振り手振りを交えてよくしゃべった。

「やっぱり、カウンターを檜にしたのは正解だったな。いい香りだ」

 厨房が見えるカウンター席は、まるで寿司屋のカウンターのような感じで、低いガラス越しに対面形式で接客ができるようになっていた。ガラスの向こう側には、大理石の作業台が広く備え付けられていて、パン生地を打ったり、成型したりする様子が見えるようになっている。


「実演販売みたいで、面白いだろ!」

 兵藤は自分のアイデアに満足げである。

「この喫茶店は、僕にとっては原点回帰がテーマなのさ」

「原点回帰?」

 秋本が聞き返す。

「ああ。最近の僕はラピスの営業に忙しくてね、なかなか自分でパンを作る時間が無いからね。でも、もう一度ここで、自らの手でパンを作ってみたいのさ。パリに修行に行っていた時みたいにね」


 兵藤は若かりし頃、単身パリへ修行に行って本場の味を極めた経験があり、ブーランジェリー・ラピスを一流店へ押し上げた要因の一つでもあった。

「自分で作ると言うと、ここのお店は圭さんが直接営業するのかい?」

「毎日は無理だけど、できる限り来るつもりだよ。それで、恒ちゃんにちょっとお願いがあるんだよね」

 兵藤と秋本は歳が近い。今回のプロジェクトで初めて顔を合わせたのだが、あっと言う間に意気投合して飲み仲間となり、今ではお互いを『圭さん』『恒ちゃん』と呼び合うほどになっていた。

「なんだよ?」

「こっちにセカンドハウス欲しいんだよね。どこか紹介してよ」

「この町に引っ越してくるつもりかい?」

「まあね。この町、何気に便利だよな。東京と観光地の真ん中くらいでさ。高速のインターも近くにあるし、海の幸も上手い! 住み心地よさそうだよね」

「どこぞの不動産会社の宣伝文句と一緒のこと言うなよ」

 秋本が笑い出す。


「田舎と都会、自然と便利さがごっちゃになっていてさ。それを中途半端ってとらえる人もいるだろうけれど、僕はいいなと思ったんだよ。だから、将来的にここに住んでのんびり過ごすのもありかなってね。家族のいる恒ちゃんと違って僕は独身だからね、身軽なのさ」

「そんなに一気に散財して、会社は大丈夫なのかい?」

「このショップはね、ラピスの営業とは切り離したコンセプトショップって感じ。ラピスをもっと深く知ってもらうために作る、実験的なお店と言う位置づけなんだよね」

「要するに、君の道楽ね」

「ま、そうとも言うかな」

 秋本に突っ込まれても、どこ吹く風で兵藤は続ける。


「でも、今回のプロジェクトは開業資金が安く抑えられたからね。古き物を見事に再生させるタッキー君の腕があれば、材料費がほとんど掛からない。助かるよ」

「兵藤さん、そのって言う呼び方やめてください」

 滝川が憮然として抗議した。

 兵藤はみんなにあだ名を付けるくせがあるようだ。他にも、秋本社長のことは『恒ちゃん』、設計デザイナーの青木は『たっくん』、広報の藤本は『京香女史』と呼んでいた。

「いいじゃないか。アイドルみたいで」

「いや、だからそれが嫌なんですよ」

 言っても無駄と分かっているが、滝川はもう一度抗議する。


「滝川君の腕は、本当に大したものだと思います。でも、滝川君の腕だけでどうにかなる事でも無いんですよ。兵藤さん」

 そう言って話を戻したのは、設計デザイナーの青木卓也あおきたくやだった。

 青木は四十歳になったばかりだが、すでに独立して設計事務所を経営していた。木材を豊富に使ったデザインが得意で、兵藤とはテレビのプロフェッショナルを紹介する番組で共演して出会い、その縁で、今回一緒に仕事をすることになったのだ。


「元々この家は、とても良い木材を使って、丁寧に作られているんですよ。それから使っていた人も、綺麗に手入れをして住んでいた。だから今、滝川君の腕で再生できるわけで、元々チープに作られていたら、再生することなんてできないんです。滝川君のおじいさんの腕は、本当にすごいですよ」


「ありがとうございます!」

 祖父の事を褒められて、滝川の瞳がグッと輝きを増した。

「なるほど! 物を長く生かすためには、素材を大事に選ぶことが第一段階で、第二段階として、継続管理していく力が必要ってことだね。これは、経営にも生かせる名言だよ、たっくん!」

「兵藤さんに言われると、なんか胡散臭く聞こえるから困りますね。でもありがとうございます」

 青木は苦笑しながら礼を言った。


「そう言えば、みそ汁とパンを提供するって言っていたけれど、みそ汁なんて、圭さん作れるの?」

 秋本が不思議そうに尋ねると、

「ああ、それなら駅前のアーケード街にあった、小料理『さくら』のおばちゃんをスカウトしておいたから」

「え! いつの間に」

 秋本がびっくりして声を挙げた。

「おばちゃん、腰痛いからリタイアするって言って、お店閉めたんじゃなかったっけ?」

「ああ、だから、監修って立場さ。で、実際に作るのは、料理学校出たてのフレッシュな子を採用して、おばちゃんのレシピを完全に再現するための特訓をしてもらうんだ。いやーあそこのみそ汁はうまかったからな。生き返るって感じ。衝撃的だったよ」

 一杯の味噌汁で息を吹き返す感覚は、つい最近陽人も感じたことだった。なんとなく、兵藤の目指すお店のイメージが沸いてワクワクしてきた。


「もともと僕がパン作りにのめり込んだのは、長い歴史と伝統が詰まっている上に、ものすごく生活に密着しているからなんだよ」

 兵藤はみんなを見回した。

「みんな腹を満たすためにパンを作るんだけど、どうせならより美味しい物が食べたいよね。だから、昔から人々は色々工夫をし続けてきたんだよ。まるで、理科の実験みたいにさ。一生懸命研究したんだと思うよ。どの酵母がいいかとか、生地の配合、温度、焼き時間、何回も試行錯誤してね。一つのパンには、そんな古の人々の汗と涙の結晶が……いや、どっちも入っていたら食べたくないな。ま、要するに知恵の宝庫だってことさ」

 そう語る表情は熱を持ち、とても真剣だった。


「で、もちろん日本にも、生活に密着していて知恵が含まれている食べ物がたくさんあるよね。その一つが豆製品で、僕は味噌に決めたのさ。以前から和と洋のコラボをやってみたかったからね」

「君って人は、本当に面白いね」

 以前、滝川が兵藤について言ったのと同じ言葉を、秋本も口にした。

「そうかな。僕は自分が面白いと思うことをやっているだけだよ!」

 

 兵藤のエネルギーは、傍でそっと聞いているだけの陽人にも伝わってくる。

 周りの人をいつの間にか巻き込んで、なんでも楽しい気分にさせてしまう天性の魅力がある人なのだと納得した。


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