第5話 名前から想像できること

 『滝川木工店』の一階は、木材置き場と作業場になっていて、住居部分はその二階と三階になっている。

 食堂や風呂のある二階の和室から、三階の滝川の隣の洋室へ移り、これからはそこが陽人の部屋となった。

 布団だけは新しいのを買うように言われて、夕方ホームセンターで必要な物を購入してきたところ。


 滝川が言っていた賃貸契約書は、知り合いの不動産会社の秋本社長に頼んである。

 部屋に荷物を入れて、滝川が風呂に入っている間、陽人は夕食当番に勤しんでいた。


あおい、開けなさい!」

 玄関の呼び鈴が鳴ると同時に、扉の向こうから女の人の声がした。昔ながらのこの家にインターフォンは無い。

 陽人が慌てて開けると同時に、若い女性が勢いよく入って来た。

「葵、男の子を拾ったってどういうことよ。あんた一人で子どもなんか育てられるわけないでしょ。何考えてんのさ」


 勢いよく捲し立てていたが、目の前の主がお目当ての人物では無くて、呆然と立ち尽くしている青年だと気づいて目を見開く。

「ごめんなさい。あなた誰?」

 だが名乗る間も無く、次の言葉が放たれた。

「もしかして、あなたが拾われた男の子? って、子供じゃないじゃん。脅かさないでよ、もう」

 怒ったようにそう言うと、そのまま勝手にずかずかと上がり込んできた。


「葵は?」

 再び聞かれて陽人は首を傾げる。

「そんなひとはいませんよ。あの、どちらさまですか?」

 おずおず尋ねると、女性は陽人の後ろを指さして叫んだ。

「いるじゃん!」

 そこにはタオルで髪を拭きながら渋い顔をしている滝川の姿が。

「え、滝川さん? そう言えば、俺、滝川さんの下の名前知らなかった」

 事実をポロリと零せば、察したとばかりに女性がニヤリとする。

「そうよ。滝川葵たきがわあおい。それがこいつの名前よ」

 氷点下の風が吹き抜けたように感じた。


 露骨に迷惑そうな顔をした滝川、「何しに来たんだよ」と凄む。そんなことは意に介さぬ様子で、女性は陽人を見つめながら尋ねた。

「もしかして、あんたが拾った男の子って、この人の事?」

「また秋本さんだな。あのおやじ、いっつも面白がって中途半端な事ばっかりお前に吹き込みやがって」

「さり気なーく私に様子を見に行くように仕向けたってこと。有難く思いなさい」

「誰が。それに拾ったんじゃねえ。部屋を貸すことにしたんだ。これから俺は大家だからな」

 憮然とした表情のままだが、声音に少し自慢気な色が混じる。


「へー、葵にしちゃ、いいこと思いついたじゃん」

「うっせえ。気やすく葵、葵言うな」

「だって昔からそう呼んでるんだから、今更変えられるわけないでしょ」

「人の世話焼いてる暇があったら、自分のことどうにかしろよ。ふらふらしてると良平に愛想つかされるぞ」

「ふん、良平はあんたと違って心が広いからね」

 早い会話の応酬についていけず、二人の顔を交互に見つめる陽人。きっとこの二人は長い付き合いで、なんだかんだ言いながらも仲がいいんだなと推測した。


 そこでふと、名前のことを思い出す。そう言えばなんで教えてくれなかったんだろう? 滝川さんの下の名前、あおいって言うんだ。

 その疑問に答えるかのように、絶妙なタイミングで女性が滝川を弄り始めた。


「そういえばさ、葵、なんでこの子に下の名前教えてないのよ。カッコつけちゃって、『滝川さん』とか呼ばせちゃってさ」

「別に、普通だろ。名字で呼び合うのは」

 そう言いつつも、滝川さんは俺のこと下の名前で呼んでいるよな。

 陽人はおかしくなってふっと笑った。


「ほら、彼も笑っちゃっているわよ。あ、そうか。実はまだ引きずってたんだ。小学生の頃に女の子の名前みたいってからかわれたことを」

あかね、お前」

 茜と呼ばれたその女性は、さっと身を翻して陽人の傍に来ると、まじまじと顔を見つめてきた。いきなりのことで、ドキマギしてしまう。


「ご挨拶が遅れてごめんなさいね。私は山下茜やましたあかね。茜お姉さんでいいわよ。あなたの名前は?」

「何が茜お姉さんだ。バカ茜で十分だ」

 滝川はそう吐き捨てると、『無視していい』と目で訴える。

「口が悪い大家で困るでしょ。我慢しないで何かあったら相談してね」


 二人の相反する視線に見つめられた陽人だったが、ここは自分の直感に従うことにする。丁寧に頭を下げた。

「あの、牧瀬陽人まきせはるとと言います。よろしくお願いします」 

「礼儀正しいいい子じゃん。葵とは、大違い」

 陽人にはにこやかに、滝川には皮肉めいた顔で返すと、茜は再び陽人をロックオンした。怒涛の追求を遮るように、滝川が慌てて口を挟む。

「陽人はいい奴だ。だから、お前が心配しなくても大丈夫だ」

 強引に陽人の肩をクルリと家の中へ向けると、シッシッと手を振った。

 

 口を開きかけた茜。案外素直に引き下がる。

「そうだね。安心したよ。陽人君、葵の事よろしくね。じゃぁね、葵」

 そう言い残すと、大人しく玄関を出て行った。


 ほっと息を吐き出した滝川、げんなりとした顔で玄関の鍵をかける。

 しばらくぼーっと扉を見つめていた陽人も、慌てて台所へと戻った。



「悪かったな。びっくりさせて」

 椅子に座って頬杖をついていた滝川。心から申し訳なさそうに詫びを言ってきた。

「いえ、全然大丈夫ですけど、もしかしてお二人は……」

 言い掛けた言葉に被せるように言い放つ。

「茜は小学校からの腐れ縁さ。たまにこうやって出没するから、気を付けろよ。絶対関らない方がいいからな」

「そうなんですか? 悪い人には見えなかったけれど」

「悪い奴じゃないが、うるさい奴だ。お節介焼きで直ぐに偉そうに説教してくる」


 それだけ気にかけているってことなんだろうなと思いつつも、今の陽人の関心は別のところにあった。


「滝川さんの下の名前、初めて知りました。あおいって言うんですね」

「……ああ」

 急にきまり悪そうな顔になった滝川。また頬杖をついて顔の半分を隠すと、窓の外に視線を移してしまった。黙っていたことを気にしているらしい。茜の指摘が図星かどうかはさておき、わざと言わなかったのは事実らしい。

 『なぜ?』という言葉は飲み込んだ。


「葵の花って、真っすぐに太陽に向かって咲くって聞いたことがあります。筋が通っていて、カッコいい花ですね」

 フォローするように言葉を継げば、今度は視線だけこちらに向けてきた。

「そうだな……ありがとな」

 もごもごと礼を言うと、また窓の外へと視線を戻す。

 あの長い指の向こうには、照れて戸惑う表情が隠されているはず。

 陽人は、そう確信していた。

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