第2話 一宿一飯の恩
お味噌汁のいい匂いがする。
陽人は急にお腹が空いて目を開けた。
ここは……そうだった。
昨日男の人に拾われて、家に連れてきてもらったんだった。
むっくりと起き上がると、そうっと隣の台所を覗き込む。
「起きたのか」
微かな気配にも関わらず、男はすぐに気づいて声を掛けてきた。
食卓には鮭とご飯とみそ汁が並べられていて、理想的な日本の朝の食卓の光景が広がっている。強面に似合わぬ繊細な心配りに驚いた。
「起きたなら一緒に食べろよ」
そう言って、陽人の分もよそってくれた。
挨拶をして身支度を整えてから席に着く。二日ぶりのまともな食事に涙腺も腹の虫も緩みそうになった。
「ありがとうございます! 俺、ここのところまともに食ってなくて。う、嬉しいです!」
「おう、そうか。じゃあ遠慮せず食えよ」
陽人が座るのを待っていてくれた男は、「いただきます」と軽く手を合わせてから食べ始めた。
陽人も「いただきます」と頭を下げて味噌汁を手に取った。かつお出汁のいい香りが鼻腔から脳内に広がる。一口含んで心が震えた。
ああ……こんなにおいしいお味噌汁初めてだ!
旨味と塩気が、じんわりと体に染み渡っていくのを感じる。細胞が生き返るような、満ちていくような癒しの力。
「こんなにおいしいお味噌汁初めてです!」
「そうか? 別に特別な作り方して無いぜ」
勢い込んで感謝を述べれば、男は不思議そうな顔になった。だが、嬉しそうに食べている陽人を見て、ちょっとだけ目の端を和ませた。
「名前まだ聞いて無かったな。俺は
「えっと、
「成人しているって言ってたから、二十一くらいか?」
「はい、そうです」
「何の仕事していたんだ?」
「レストランのウェイターです。東京のイタリアン料理店の」
「へー。ウェイターじゃ飯は作れないか」
「そ、そうですね。調理場は担当してなかったので。でも、簡単なまかない飯なら作れます」
「そっか。で、東京の奴がなんであんなところで寝てたんだ?」
「それは……東京だと色々物価が高いから、少し郊外に行こうと思って、小銭のある限りで切符を買ったんです」
「それが、ここだったと」
「はい……」
「ふーん」
滝川はお味噌汁を飲み終わると、徐に切り出した。
「俺はこれから仕事に行く。お前は『一宿一飯の恩』って言葉知ってるか? 一晩タダで泊めてやったんだ。お礼くらいはしてもいいだろう。俺が帰ってくるまでに、庭の草むしりをやっておいてくれ。昼頃に一回帰って来るからな。草むしりしたら風呂に入るといい。火事だけは出すなよ」
朝ご飯を食べ終わったら、荷物をまとめて出ていけと言われるとばかり思っていた陽人は、びっくりして聞き返す。
「え! 草むしり?」
「なんだ。不満か?」
「いえ、ただまだ出て行かなくていいのかなと思って……」
「礼も無しに出て行こうなんて、甘いんだよ。俺が帰って来るまでに済ませておけよ。十二時半くらいには帰って来るから」
滝川はそう言って食器を台所へ運ぶと、作業着に着替えて仕事に出かけて行った。
「鍵は一つしかないから、俺が帰って来るまで家を空けるんじゃ無いぞ」
土木関係の仕事なのかな?
それにしても、見ず知らずの俺に家と鍵を預けて行くなんて!
不用心な人なのか? 肝の据わった人なのか? どっちなんだ?
陽人はそう思いながらも台所の食器を片づけて、滝川に言われた庭の草むしりをするために下に降りて行った。
二階へ上がる階段の横から奥に行くと、雑草と枯草だらけだが確かに庭らしき空間があった。外塀の
とりあえず、端から抜いていくしかないな。
滝川が玄関のところに用意してくれた軍手と草取り道具を持っていき、黙々と作業を始めた。
軍手とかちゃんと用意して置いてくれて、滝川さんって見た目に似合わず気が付く人なんだな。
手を動かしながら滝川の事を考えた。
二十代後半で短髪長身色黒。眼光鋭く筋肉質なタイプ。作業着を着て出かけたし、どう考えてもガテン系の人だろう。
言葉遣いは抑揚が無くニコリともしないし、とっつき悪いから怖そうに見えるけれど、朝になって明るい光の中で見た彼は結構ハンサムでカッコ良かった。
ちょっと羨ましい気がする。童顔のせいで幼く見える自分とは真逆な
でも、悪い人では無さそうである。いや、むしろすごくいい人だった。
なんで俺のことを拾ってくれたのかは分からないけれど、いつまでも世話になれるわけじゃ無いからな。これからどうするか考えないと。
思考はまた己の行く末への不安に戻ってしまった。
風はまだ冷気に包まれていたが、四月上旬の日差しは思ったより力強く、じりじりと肌に食い込んでくる。うっすらと汗ばみながら、ひたすら体を動かしているのは気持ちが良かった。
草を抜いてゴミ袋に入れる。根を掘り出して土をならす。一つ抜いては一歩進む。その繰り返し。
だんだんと頭の中が空っぽになって、余計な考えが浮かばなくなってきた。
正直、助かったと思った。
悩みを抱えている時は、案外こんな単純作業が救いになるという事を、陽人はこの時初めて知ったのだった。
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