俳諧の極意(ニ)

 突然の攻撃に総一朗は横倒しになりつつ、相手のつばを左手でつかむと、そのまま、若俳諧師の股ぐらに脚をすべり込ませ、頭で相手の股ぐらを突き、たじろいた一瞬に、すでに総一朗は立ち上がっていた。

 かれの手には奪った大刀がそのまま握られていた。


「この未熟者めがっ!」


 怒鳴ったのは……雨太夫である。

 若俳諧師はその場に平服した。

「あいや、しばらく」

 叫んだのは、総一朗であった。

 すかさず奪い取ったばかりの大刀の刃を自分に向けたまま両腕で捧げた。

 無言のまま、若俳諧師が受け取った。

 と、総一朗は、居ずまいを正して雨太夫に向かい、正座を改め、丁寧に平服した。

「先ほどまでのご無礼のだんひらにご容赦ようしゃくださりませ」

「お……!」

 今のいままで身動みじろぎ一つしなかった雨太夫が、初めて感情をおもてに現した。

 総一朗は続ける……。

「……尾張徳川家、剣術指南役、柳生やぎゅう連也斎れんやさい様……とお見受けいたします」

「や……! そなた、気づいておったのか!」

「はっ、つい先程。女人が、近江八幡……と洩らしておりましたゆえ」

「ほ……さようか」


 雨太夫は興味深げに総一朗をみた。

 近江八幡……は、尾張藩の飛地とびちである。本領・本拠地とは遠隔にある領地のことを、飛地と呼ぶ。琵琶湖畔に群がる諸国は、尾張藩をはじめ、加賀藩前田家などの飛地も散在する。

 

「なるほど、その一言いちげんだけで、こちらのまことの正体を見抜いたと申すのか?」

 長谷川雨太夫……いや、尾張柳生の祖、連也斎れんやさいは、しきりにうめいていた。

「そちらの名は……田原とか申しておったが……?」

「はい、田原総一朗と申します」

「ふうむ……おぬしは、何流をつかわれるのかな」

「いえ、大した修行はしておりませぬが、父からは奥山一刀流を学びました」

「ほ、これは奇遇じゃの。元を正せば、同じ流れじゃ」


 連也斎が言った。奥山一刀流は、奥山新陰流ともいった。流祖は、徳川家康の剣の師でもある奥山休賀斎きゅうがさいである。


「じゃが、先刻いまの刀取りの技は……珍しきもの」

「はい……いま、師岡もろおか一羽流いっぱりゅうを学んでおります。実践で使うのは初めてのことでした……」


 照れながら、総一朗は額の汗をぬぐった。おそらくいま、日本一の剣の達人、といっていい連也斎を前に緊張しないのがおかしいのだ。しかも、総一朗は初対面から慣れない芝居もどきの手を使った。思い返すと羞恥がよみがえってくる。


「はて、一羽流の道統どうとういだ者がいたとは聴いてはおらなんだが……」


 どうやら、連也斎の関心は他流派の動向にも及んでいたようである。手短てみじかに総一朗は、藩剣術道場の師範代に内定した山﨑茂平次(第二話「譲りの茂平次」参照)のことを告げ、習い始めたばかりだと言った。


「なるほど……神坂藩はなかなか武芸に熱心のようじゃ」

「いえ、そのようなことは……」

「わしは、わざわざ公儀隠密だと公言しながら、湖畔の諸藩をまわってきたが、まさか、尾張柳生だと見破られるとは思わなんだ。そなたの役位、職掌しょくしょうは……?」

「はい、筆小姓組行人こうじんかかりでございます」

「こうじん……?」

「は……なにやら古書によりますと、古代大陸では、他国との交渉、外交を担う“行人”という役職があったそうでございました」

「ほ、ますます、おもしろきことじゃ。永沼どのは、そのような事、ひとこともお話にはならなんだぞ。わしは……広く人材を求め、こうして旅をしておる。神坂に参ったのは、ある人物と会いたかったからじゃよ」

「お会いにはなられなかったのですか?」

「ふうむ、不在、と告げられてな、会うことは叶わなかった。おぬし、知っておろうかの? 米寿べいじゅさむらいとか呼ばれておる若者のことを?」

「ひゃ……!」


 思わず総一朗はまぶたをしばたいた。

 すると横から、真吾が大声を張り上げた。すこぶる自慢気な語調である。


「この田原様こそが、米寿侍さま……でございまする」


「おっ……!」と、連也斎が驚きつつも、じろりと総一朗を睨んだ。

 鋭いにらかつであった。

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