【米寿侍・田原総一朗がゆく!】 連作時代物series

嵯峨嶋 掌

第一話 居座り善右衛門

米寿侍、困惑せり

 奇行の多さで知られる、三十路みそじを越えても嫁の口がかからないその男の名は、善右衛門ぜんえもんといった。

 いみなは別にあるが、だれもが“善さん”と呼ぶ。

 ほとんど屋敷うちからは出ない。

 ……親の代に藩から与えられた屋敷で、陣屋じんや(城の代わりの藩庁舎)から離れた新町しんまちにある。善右衛門の親は、藩の勘定かんじょうかた吟味役をつとめていたのだが、藩財政立て直しに貢献した褒美に、一代限りの栄典として与えられた屋敷である。

 寺社の総門と見紛みまがうばかり見事なまでの飾りりをほどこしたそれを見上げて、

「ほうぉ……」

と、感歎の吐息を洩らした総一朗そういちろうは、

「贅沢なもんだな」

と、皮肉たっぷりな笑みをややけ気味の頬をたたえた。

「ですが……」

と、すかさず総一朗をともなってきた若侍が、

「……素晴らしいのはこの門だけのようです。米寿べいじゅさん……いや、田原さんは初めてのおとのいでございますか」

と、すばやく話題を転じてみせた。

「ああ」

 田原総一朗が頷いた。

 おのれの渾名あだなが……〈米寿侍べいじゅざむらい〉〈論客侍〉などと公然と囁かれていることは、総一朗は知っている。まだ三十路には数年待たねばならない青年総一朗そういちろうに、米寿べいじゅの二字が冠せられたのには理由があった。論敵を八十八人、見事に打ちたおしてきたからである。

 ……論戦に破れた者には、藩内唯一の智慧ちえ者をはじめ、京から招いた高名の儒者や僧籍の者もいた。藩公の血脈につながる御連枝ごれんし衆が相手でも忖度そんたくすることなくやり込める。藩財政立て直しの政策には重臣おとならが頭をひねって叩き出した案にことごとく異議を唱えたことで、それがかえって藩公の目にまり筆小姓ふでこしょう行人掛こうじんがかりに取り立てられた。要するに、あまりにも小煩こうるさいものだから、内政には深く関わらさせず、国境くにざかいの土地所有のめ事であるとか、家中かちゅうの者と他藩士との間の私的ないさかいの仲裁であるとか、そういった誰もが嫌がり、同時に成果を出しにくい難題を、総一朗に押し付けたのである。

 行人こうじん……とは、古代大陸(中国)では外交官的な重要な職掌しょくしょうであったが、総一朗に与えられた権限はそれに比するほどの大きなものではなかった。

 ……とはいえ、この米寿侍べいじゅざむらい、田原総一朗は、中老ちゅうろう永沼ながぬま太兵衛たへえから命じられた難問解決のため、善右衛門の家をおとのうたのだった。




 屋敷には、小此木おこのぎ善右衛門がいるはずである。藩からの立ち退き要請を断り続けて善右衛門は居座り続けているはずである。

「あの……見てきます……」 

 ささっと若侍が門をくぐって駆けて行った。元服げんぷくしてもないのだろう、その初々しさが総一朗にはまぶしかった。十五、六歳というところであろうか。

 永沼ながぬま中老の用人ようにんせがれか、あるいは永沼家の一族かもしれないと、総一朗は頬をゆるませた。自分の言動を事細かく事後報告せよと厳命されているにちがいない。

 真吾しんご……と名乗ったはずである。

 その真吾が息せき切って立ち戻ると、

「お会いに……なられるそうです」 

と、囁くような低い声で言った。

「お、どうしたのだ? 何か小言こごとでも頂戴したのか?」

 小首を傾げた総一朗は、真吾の顔が青ざめているのを不審におもった。

「あ……いえ……」

 急に真吾は口ごもった。

 どうやらかれは何度かこの屋敷うちには足を踏み入れていたようである。そのことにようやく総一朗は気づいた。

「どうした? 叱りつけられたのか?」

「い、いえ、剣の勝負が……」

「は……?」

「はい。こうお伝え申せと……。口上のまま、申し上げます。『……口では寿どのには到底とうてい勝てぬゆえ、剣にてお相手つかまつる…』と……」


 ようやく善右衛門の伝言の主旨を理解した総一朗は、

「ひゃあほぉい」

と、頓狂な声を上げた。

 刀を抜くのは……じつに久方ぶりのことである。真吾が案内した先は、屋敷の中庭に面した板敷きの道場であった。

「ここは……?」

「はい。元々、藩の剣術修行場として建てられたものだそうです」

 それほど広くはないが、ざっと二十畳ほどの空間で、灯り取り窓が天井に沿うようにしつらえられている。

 小此木家の家人けにんだろう、数余の小者こものらが総一朗の姿をみるや否や、慌ただしく奥へ駆け込んでいった。総一朗の舌の餌食えじきにはなるまいとおそれたのだろう。

 それと入れ違いに現れた中肉中背の人物は、左手に大刀をささげ、いきなり怒鳴った。


「おお、おぬしが……米寿侍べいじゅざむらいかっぁ!」


 底圧そこあつの鋭い一声いっせいであった。

 刹那せつな、総一朗の体躯からだが震えた。

 善右衛門がじろりと総一朗を一瞥すると、

「なんだぁ……? 若いのう」

と、双眸ひとみが固まったようにまった。声には出さない一喝いっかつとはこのことであったろうか。

「や……!」

と、一足後退あとずさった総一朗は、

(やれやれ……)

と、胸裡むねのなかで悔いた。安請け合いしたものの、さすがに一筋縄ではいかない相手だと初めて感得かんとくしたのだ。

(ひゃあ、にらかつ……とはこのことだ)

 吐息をらすよりも早く、ごくんと総一朗は唾を呑み込んだ。

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