カストゥロの若君
春が少しずつ濃くなり、夏の気配もほのかに感じられる季節、地中海に面するサグントゥムは快適な日が続く。好天下の広場では市が開かれ、多くの人々が店の軒先を行き交っている。それらの喧騒と一線を画す、広場に面する石造りの商館の一室で、今ちょうど大きな商いが一つ成立した。
商談の当事者は、ここサグントゥムを拠点とするギリシア商人と、イベリア半島切っての銀の産地、カストゥロからの商隊である。せっかくの太陽を避けているのは、別段やましい取引というわけでない。取り扱うのが大量の銀となれば、安全を期してのことであった。
サグントゥムは、地中海世界の交易で活躍するギリシア人が遠く本国を離れ、この地に拠点を据えてから発展した都市である。他民族の商人も活動しているが、ギリシア系が大きく幅を利かしている。それはひとえにギリシア人が互いに協力し合っているから、ではない。同じ民族同士でも激しい競争原理で商売の鎬を削っているからこそ、であった。
この取引で大量の銀を手に入れた商人は、交易の地域が競合する別のギリシア商人との得意先の奪い合いに先んずるため、まとまった資金を必要としていた。それを提供できるのはこの辺りではカストゥロしかない。
無事取引が終わり、帰り支度をしているカストゥロの商隊に、ギリシア商人から待ったが掛かった。カストゥロ側のリーダーはまだ若い男である。小柄で細身の若者はキビキビと率先して商談の片付けを行っていたが、渡した銀の品質に文句でもあるのかと、手を止め、声を掛けてきたギリシア商人に険しい視線を向けた。
「いやいや、そういう意味ではありません。とても粒がそろった銀を用意いただき、感謝しています」
カストゥロのリーダーは、無言で頷き、少しだけ厳めしさを緩めた表情で先を促した。
「我々はこれから半島中央部、ケルト族の都市を巡ります。彼らの勢力圏に入れば、ある程度安心なのですが、この街を出てしばらくは治安があまりよくない道が続くのをご存じかと」
なんとなく相手の意図することは伝わってきたが、カストゥロの若者は相変らず愛想のない表情で黙したままだ。部族長の末っ子は、成人してまだ数年という年齢にも関わらず、早くも商隊を率いて各地に銀を運ぶ役目を任されていた。童顔でやや華奢な体つきのため、年齢よりさらに若く、いや幼く見えてしまう。そのことが商談の際に不利にならないよう、つまり、相手から見下されまいと常に気を張っているうちに、不愛想が板についてしまった。
「銀をここまで無事に運べるその力をしばらく貸してもらえませんか」
予想通りの相談事だったが、かすかに首を傾げ、思案の風である。
「おそらく、二日ほどお付き合いいただければ、あとは我々だけでも安全だと思います。もちろん、ただでとは言いません」
「若、付き合う必要はないですよ」
お目付け役と思しき、年嵩のメンバーが後ろから口を挟んだ。カストゥロの商隊は、リーダーを筆頭に若いメンバーで構成されているが、何人かのベテランが交じっている。しかし、ギリシア側から提示された交換条件を確認した「若」と呼ばれた男は、即断して傭兵役を引き受けた。
(責任は俺がとる)
そう言葉に出さないが、リーダーの強い意志は他のメンバーにもすぐに伝わった。先ほど口を挟んだ男も肩をすくめ、やれやれという表情をしている。
部族長の息子とはいえ、商隊の責任者となった当初は、この若君もまだ仲間の信頼を得られず、自分の意見を引っ込めることもたびたびであった。その都度、普段寡黙な彼が商隊の仲間に、自分がそうしたかった理由を丁寧に説明し、皆が反対する訳もちゃんと理解していることを丁寧に伝えた。そんな積み重ねによりリーダーへの信頼感とその考え方への理解度が少しずつ高まっていった。
今回であれば、早く故郷に帰りたい者、余分な危険を避けたい者、他部族のギリシア人などと一緒に旅をしたくない者がいることは分かっていた。それでも、敢えて引き受けた理由は、大口の取引先であるギリシア商人に恩を売れること、あまり馴染みのない土地を巡る機会、他の商隊の運搬、護衛のやり方を学べること。そして、それらが部族長から自分たちに期待されていること。この若君はただ銀を運び、それを取引することだけに満足しておらず、自分も商隊のメンバーも貪欲に経験を積むことが部族のこれからに役立つと信じていた。
兄弟の中では一番体が小さく、さらに無口とくれば、存在感は薄くなるものだが、その素直さと向上心の強さで部族長である父から特に愛されていた。可愛い子には旅をさせろとばかりに、最初は護衛の一員として商隊に付いて旅をし、二年ほどで護衛の責任者となった。それは部族長一族の血縁によるお飾り的立場ではなく、実力による抜擢であった。剣術や乗馬には自信があり、兄たちにも譲らない。とはいえ、単なる腕自慢というわけではなく、小さな取引から徐々に任された交渉役を着実にこなしていき、最近ではいよいよ大きな取引も任されるようになっていた。
さて、初めての傭兵業をいかに務めるか。
「盗賊とは戦わずに勝つべし」
自らも銀の輸送隊を率いた部族長である父の教えである。つまりは、この荷物を襲うのは危険、無理だと盗賊に思わせることが一番重要であり、隙を見せないことが肝要となる。すべてを仕切れる自分の商隊であれば、襲われない自信があるが、旅の道連れとなるこのギリシア商人たちはどうであろうか。とはいえ、今回は自分たちの荷物を運ぶのではなく、久しぶりに護衛に専念できる。襲われてもよほどの相手でない限り荷物を守り抜く自信はあった。
傭兵契約の前金の支払いが終わるとすぐに、ギリシア人の商隊はサグントゥムの西門を慌ただしくくぐり抜け、イベリア半島中央部に通じる街道へと滑り出した。日の高いうちに少しでも距離を稼ぐつもりであろう。しばらくは見通しのよい道を進むので、後から商隊を護衛する形で、カストゥロの八騎がその殿を進む。残りの運搬担当の者たちには銀と交換した品々とともに安全なサグントゥムで待つよう指示していた。
左手に小高い丘がいくつも連なる狭い平野を北西に向かって街道が貫いている。行き来する人馬や荷車によって踏み固められたその道を重い荷を引く十両の牛車がゆったりと進む。まだサグントゥムの街からそれほど離れていないとはいえ、この丘の上から盗賊が襲ってくることもある。カストゥロの若君は警戒を緩めず、商隊の進み具合、街道の前方、丘のある左手へと順に意識を配っていく。やや上り道に差し掛かり、慣れない銀の輸送で牛の歩みはさらにゆっくり、というより鈍くなった。
(俺が盗賊なら、今襲い掛かるかな)
カストゥロの若君は丘の稜線を舐めるように警戒した。
「なにか来るぞ」
商隊の列の各所から声が上がった。
(やはり来たか)
しかし、丘の上に人影は見当たらない。何人かが街道の先を指差している。
(ここで正面から襲ってくるのか)
意外な思いでその方角に視線を移すと、確かに一頭の馬がかなりのスピードで駆けてくる。
先頭を行くギリシア商人は商隊の進みを止め、殿にいるカストゥロの若君を呼び寄せた。若君がギリシア商人の横に馬を寄せた直後、
「助けてくれ」
疾駆する馬の背にしがみつく乗り手が叫び声を上げた。ギリシア語である。叫び終えると、上体を再び馬のたてがみにうずめた。具合が悪いのか、怪我でもしているのか。カストゥロの若君が単騎で集団から飛び出した。街道を駆けてくる馬とすれ違うと、向きを変え、しばらく並走した。馬や乗り手の状況を確認してから馬を寄せ、その手綱を掴み、緩やかに馬を止めた。馬上の男は皮の鎧を身に付けている。その背中に一文字の傷が付いていた。傷の深さは分からない。肩にやさしく触れると、男は馬の首に体を預けたまま、自分を気遣ってくれている相手に顔だけを向けた。
「商隊が、この先の森で、襲われている。助けてくれ」
軽装ながら武装しているこの男はその商隊の護衛の一員かもしれない。若君は馬上のまま手負いの男を乗せた馬の手綱を引きつつ、街道の途中で停止している商隊に戻った。先頭で待ち構えていたギリシア商人に事情を説明し、次いで自分の仲間たちに声をかけた。
「助けに行く」
襲われたのが自分たちでなかったことに安堵していたギリシア商人は、臨時の傭兵隊長の発言に驚き、自分たちはどうすればよいかと不安気な表情を向ける。
「サグントゥムに一度戻るのがよいでしょう。この怪我人の面倒をよろしく」
若君はそう言い残すと、カストゥロの騎馬隊を引き連れ、再び商隊から離れていった。それを見送ったギリシア人の商隊は、そそくさと牛車の向きを変え、下り坂の加速を利用し、足早にサグントゥムの街へ戻り始めた。
救助に向かった一行が一時ほど駆けると、街道が鬱蒼と茂る森に吸い込まれていた。カストゥロの若君は速度を落とし、森に入る手前で一度馬を停めると、しばらく様子を窺った。森から争う声や助けを求める声は聞こえてこない。
「臨戦態勢で進む」
若君の指示にカストゥロのメンバーは素早く各自の得物を片手に構えた。皆得意な武器が異なり、槍、剣、こん棒とそれぞれの個性が傭兵感を醸し出している。全員の、とはいえわずか八名の騎馬隊であるが、準備が整ったのを確認し、若君は森の中に馬を入れた。
一行がさして進まぬうちに、鉄製の鎧と兜で武装した騎馬が一騎、辺りを警戒しながらこちらに駆けて来るのが見えた。向こうもこちらに気付いたようだが、単騎で八騎の騎馬と遭遇してもまるでひるむ様子がない。
「お前たちは何者だ」
その騎士が問うてきた。カストゥロの若君とは同世代の若者に見えるが、その堂々とした物腰は、相当な地位の人物に違いない。その言葉はケルト語であった。今日はケルト語の通訳ができるメンバーはいない。取引相手にはケルト族もいるので、若君はある程度その言葉を理解できた。自分が答えるしかない。
「おとこ、にげてきた。そのなかま、たすけにきた」
片言のケルト語で答えると、
「お前たちもギリシア商人の傭兵か」
その騎士がさらに問いを重ねる。
「こちらに女が逃げてこなかったか」
「おとこだけ、うまで。おんな、いない。おまえ、たすけにきたのか」
ケルトの騎士はカストゥロの若君の問いには答えず、
「途中で脇に逃げ込んだか」
そうつぶやくと、左右の茂みに気を配りながら、もと来た道を引き返していく。カストゥロの一団も彼に付いて行くと、前方に荷が崩れた荷車とその周りに座りこんだ人々の姿が、さらにその周囲に、目の前の騎士と同じ完全武装の騎士が三騎、槍の穂先を内側の人々に向けつつ、囲んでいるのが目に入った。
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