3話 圭太と映画
あれから寝たのは三時過ぎだった。
私は起きてから目覚めの悪い頭の痛みを押し込むように、水道からひねり出した透明な水を飲み込んだ。あんな日にお酒なんて飲むんじゃなかった。ぶっ壊れたようなあの日の私には、濃度関係なくお酒は受け付けなかったようだ。何とか痛みが治まったような錯覚をしながらも、もう一度布団に潜り込む。
あの日は、溺れていた。酒に、傷心に、先輩のくだらない話に、彼との思い出に……。
圭太は、最後まで優しかった。別れ際も、私には原因はない、ただお互いの距離が自然と離れてしまったことに問題があると。そんな風に、丁寧に、話してくれていた。
けれど、あの日私は気づいてしまった。
別れる理由。
先輩の言葉に、私はハッとした。理由。彼が一番固執していたもの。そして彼が、一番私たちの関係性に重視していたものであると。
彼の口癖は、「どうして?」だったことを。
圭太のことを好きになったのは、新入生製作で映画の撮影をしていた時の、最終日前の夜だった。
彼はその時から同期の中でもリーダーシップを取っており、周りもそれにつられて撮影にも熱心になっていた。私はそんな彼のことを、当初はよく思ってなかった。高校から映画をやっていたのは彼だけじゃなくて私だってそうだし、いきなりズカズカとリーダーシップを取る彼のことを、なんなら疎ましいとも思っていた。
そんな時の夜、彼が熱心に下準備を行う様子を目撃した。
「明日はラストのヒロインと主人公が巡り会うシーン、日が沈む直前、ここなら太陽と重なるし、いやでもアングルは……違うな」
独り言をボソボソ言いながら真剣に打ち込んでいる圭太に思わず目を奪われていると、そんな私の姿を見つけ彼は驚いた。
「どうしたの、こんな時間に」
「それは、こっちのセリフだけど」
「撮影のシミュレーションだよ。明日はラストシーンだし、最終日だから失敗も出来ないからね」
「なら、他のみんなも呼べば」
「それは違うよ。彼らは演者で、スタッフだ。カメラマンと監督の僕が、この仕事をすべきだと思う」
真剣な表情で、でも満足そうに彼は言っていた。私は彼のその顔をじっくり見ながら考えていた。なんでそこまでできるのか。なんで自分一人だけでそこまで成し遂げようとするのか。彼の全てが、不思議で仕方がないという思いが体を駆け巡っていた。
「どうして、そこまでできるの」
圭太の目を見て、真っ直ぐに、私は問いかけた。すると彼は、私のことを不思議そうに見つめながら、躊躇いのない表情で言った。
「みんなと映画を作れることが楽しいから、絶対に成功させたいから。それ以外に、理由なんている?」
私はその時の彼の目を見て、わかった。彼には敵わないと。そして、彼と同じようになりたい、頑張りたいと、訳もなく強く思った。
そして新入生製作の映画は大成功し、その日の飲み会の帰りに、私は告白した。
どうして、と困惑する彼に、私は言った。
「あなたのことが好きになった。理由なんている?」
私の告白を受け入れてくれ、圭太とはすぐに付き合い始めた。付き合い始めても、彼は何も変わらなかった。真剣で、真面目で、まっすぐな人だった。私はそんな圭太に対して何も違和感なく、ただそれが彼だと思って付き合っていた。だから、その時はわからなかったことが、確かにあった。
彼は、いつも明確な世界を追い求めていたのだと。
圭太と初めて水族館に行ったとき、私は黒と白のしま模様が透明な水槽を泳ぐ中をただ感じるままに見ていた。
「この魚、なんて名前なのかな」
圭太は、そんな私に対して、問いかけてた。私は柱にある説明を目で追いながら、魚の名前を答えると、彼は答えを得て納得したように水槽の中を見始めたのだ。
私は、魚の名前を気にしたことなんてなかった。それがわかったところで、見える世界が変わるわけでも、より深い世界へ探求したいわけでもなかった。この世界に浸れれば、それだけでよかったから。
しかし、きっと彼は違ったのだ。目の前の世界を探求し、追及し、理解したうえで接しようとしていたのだ。きっと彼は、今思えばそれほどに、真っ直ぐに知ることを求めていたのだ。
私は、圭太の雰囲気が好きだった。柔らかく、包み込むような緑、燃えるような赤、正反対のそれらが、混ざり合うように存在する彼そのものに、言い表しようのない魅力を感じていた。
「僕はさ、君がどこまでも追いかけてくれるような気がしたんだ」
私の誕生日の日に、予約してくれたレストランで、圭太はそう話した。お互い二十歳を迎えていたからと、彼は格好をつけて真っ赤なワインを頼んでいた。彼の瞳は、真剣そのものだった。
「新入生製作の時、僕は正直不安だったんだ。明確な正解がない中で、自分が引っ張らなきゃと焦っていた。でも君は、そんな僕についてきてくれた。夜中のシミュレーションにも付き合って、完成まで誰よりも一緒に。そんな君と、僕は走っていきたいと思えたんだ」
いつもよりも口調の早くなる圭太。いつの間にか彼の手元に注がれていたワインは、すっかり切れていた。
その日は、あの撮影の夜から、一年以上も経っていた。
彼のシミュレーションに頷きながら、手を貸して、一緒にラストシーンの構想をしたあの夜。確かに私たちは、一緒に追いかけていた。走っていた。
私は、思いをはせながら、呟いた。
「私も、圭太と一緒に追いかけたい」
私と圭太は、どこまでも映画でつながっていた。撮影の度に互いの息が合っていくことを確かに感じていた。混ざり合うように、しかし着実に、私と圭太は一緒に追うことが出来ていた。そう、思っていた。
私と圭太が喧嘩したのは、たった一回だった。
サークルを引退して一カ月ほどたった日だ。
「どうしてもう映画やめるんだよ」
「だって、仕事しながら撮るなんて難しいでしょ。私たち、プロ目指してるわけじゃないんだから、もういいじゃない」
「そんなことない、アマチュアでもどこかで活動してる人だっているし、映画は僕たちにとって大切なものだろ」
圭太は、今まで見たことないくらいに瞳を大きく開けて、今まで聞いたことないくらいの声を出していた。まるで、全てを賭けるように。
「なんで、そんな理由で映画やめられるんだよ」
思い出した記憶は、どうしようもなく私をみじめにさせていった。やはり、私は逃げていたのかもしれない、そう気づくたびに、心の奥底から衝撃が押し寄せて、むせかえり、もだえそうになる。
なんとなく暇で来てしまった大学に、圭太の面影を追いかけてしまう。大学にはもうほとんど人はいなく、静かな空気だけが流れている。
「先輩、どうしたんですか」
不意に聞こえてきた声に振り替えると、そこにはサークルの後輩の友樹がいた。小さめのビデオカメラを持ちながら、彼は走ってきた。
「ちょっと、暇だったから」
「そうなんですね。びっくりしましたよ、先輩いるなんて思わなかったから」
無邪気に笑いかけてくる友樹に、私は少しの違和感を覚えた。どこか、不自然に。
「どうか、した?」
「……実は、圭太先輩のことなんですけど」
友樹の顔は、どこか、怒っている。
「見ちゃったんです。圭太先輩が他大の女の人と撮影しながら、みなとみらいの海を歩いてるところ。しかも、手もつないでて。先輩と付き合ってるのに何で……」
やっぱり。
「大丈夫、圭太とは、もう別れているから」
「え、そうなんですか……」
圭太は言っていた。追いかけてくれると思ったと。それは、人生とか、そんなぼんやりとしたものではなかったのだ。
私たちは、どこまでも、映画でつながっていたんだ。
そのことだけが、彼の求めていた、理由であり答えなのだと、やっと、飲み込むことが出来た。
「先輩」
「ん?」
「……あの、何でもないです。元気出してくださいね」
友樹の笑顔が、輝いて見える。その時にはもうすでに、あれほどまでに執着していた圭太への未練は、すっかりと消えていた。
「ありがとう」
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