2話 先輩とバー

 時間が解決してくれる。

 恋愛関係で悪いことが起こるといつも言われるのが、このセリフである。流れるような入道雲、髪を躍らせるように吹く風。そんな何もかも忘れさせてくれるような風景の中でさえ、私はまだ彼のあの枯れたような別れの声を思い出していた。

 先月見たばかりのタイタニックを思い出す。丁度船が沈み落ちるシーンで二人、船の先端で愛を育む。いやもうすでにあの時点で、彼らの愛は固く結ばれていた。彼らが出会ったのはタイタニックに入ってからで、数日にも満たないものである。それなのに彼らは一生涯ともいえる劇的な愛を確かめ合い、反して私と彼は一年もかけていたのにもかかわらず、もろく愛は崩れ去ってしまった。

 強く吹く風が私のことを否定しているような気がして、私は近くのバーに入った。三日も経っているのに、私の心は脆いままで、そんな自分の心がおかしくて、お酒で何もかも紛らわせたかったのかもしれない。

 まっすぐに下へと続いていた階段を下りて重い扉を開けると、薄暗い暖色が広がる店内に、シックな音楽が流れる、想像していたような雰囲気に満ちていた。バーカウンターの中でたたずみシェイカーを振っているバーテンダーが私に気づき、どうぞとアイコンタクトを図った。

 私は一番端の空いた席に目を付けて、そっと腰を下ろした。スプリングのきいた丸椅子が、私の体に振動を伝えた。薔薇色のドレスでおすすめのカクテルを飲みながらバーテンダーに「私振られたの」と愚痴をこぼす、なんてイメージとはかけ離れていて、私は大学生が手を出すにふさわしいローブランドのニットとジーパンに薄めのロングコートを身にまとい、いつもの居酒屋で頼むようにカシスオレンジを頼んでいた。

 店内を見渡すと、私以外に客はほとんどいなかった。奥のテーブル席にサラリーマンの男女がしっとりとお酒を酌み交わしているくらいで、後は人が見当たらない。私の座るカウンターの奥には男性のもののようなカバンとコートが置いてあって、客はそれくらいだろう。

 腕に巻き付けた小さな時計の針に目を向ける。まだ夜の六時で、一人で飲み明かすには早すぎる時間であるようにも思えたが、今日くらいは良いだろう。

 私はバーテンダーから差し出されたカシスオレンジを手に取って、ゆっくりと口に運ぶ。あわよくば、全てを忘れさせてくれることを望んで。

「あれ、こんなところでどうしたんだ」

 聞き覚えのある声に振り向くと、目の前にはスーツをぴっしりと着こなした男性が立っていた。

「先輩、久しぶりですね」

「おう、去年の追いコン以来か」

 そう言うと、先輩はさも当然のように私の横に席を移して座り込んだ。バーカウンターの奥に見えたカバンとコートを手繰り寄せて、先輩はバーテンダーに聞いたこともないような名前のカクテルを頼んでいた。身のこなしは社会を出たことで随分と変わったように思えたが、口振りや行動は以前の先輩のままで、少し安心できた。

「サークルの奴らは元気か」

「ええ。まあ、私も九月には引退したんですけど、伸び伸びやってますよ」

 私たちの所属していた映画研究会は九月の最終製作を最後に四年生が引退する。私は同期と一緒にコメディチックな恋愛映画を製作して、それなりの好評を得て引退をした。先輩たちはダークなサスペンス映画だったから、真逆の作品といっていい。

「そっか、良かったよ」

「はい、どうにかですが」

「……そういえば、圭太とはあれから順調か」

 背中にじっとりと、湿った汗が流れる。あの日の電話でも呼ばなかった名前が、脳裏を駆け巡っては、その顔を鮮明に映し出していく。圭太、彼の名前が鮮明に刻まれていく。やはり私は、彼を忘れることなどできなかった。

「実は、三日前に別れてしまって」

「えっ」

 先輩が動揺したような声で私に聞き返した。ひっそりと頷く私を横目に見て、事実を噛み締めていくように、そうか、と口にした。

「まさか、別れちまうとはな。少し驚いたよ。あんなに仲良かったのに」

「就活を機にちょっと疎遠になっちゃって。別に喧嘩したとかじゃないんですけど、なんかその」

 先輩は頷きながら、私の言葉に耳を傾けてくれた。静かな雰囲気の私たちの前に、先輩が頼んだカクテルが差し出される。

 先輩は学生の時にも、私の相談に親身に付き合ってくれていた。これも代表の務めみたいなもんだからな、と言いながら笑う先輩の顔は、恋愛相談に乗ることで誇っているようにも、本当に親身に向き合ってくれているようにも思えて、妙に不思議だった。

「お前ら、いつも一緒にいたもんな。圭太もああ見えて心配性というか寂しがり屋というか、そんな感じだからさ。耐えられなかったのかもな」

「そうなんでしょうか。そんなもんなんでしょうか」

「お前も、そうだったんじゃないか?」

 お前と言われたことにむっとしながら、私は先輩が一息ついてカクテルを飲み込む様子をじっと見つめた。真っ青に染まったカクテル。冷静な青色。

 圭太とは、正反対の色だ。

「なんでお前にそんなこと言われなきゃいけないんだ、なんて顔してるな」

「そんなことは、ないですよ」

「そうか」

「でも」

「でも?」

「私は圭太とは違ったのかなって」

 カシスオレンジを飲み込む。濁ったような薔薇色。圭太とも違うその色を、私は飲み込む。

圭太はもっと情熱的で、太陽のような人だ。

「そうかな、似たように俺には見えたけどな」

「違うと思います。同じだったらきっと、私はこんなに落ち込んでないはずです。彼と同じように、同じタイミングで、答えを出せていたはずです」

「答えって」

「私たちがなぜ別れたのか、私には未だにわからないんです。もう答えなんて、とっくに出ているはずなのに」

 私達は確かに別れた。あの日あの電話を切った瞬間に、私達の関係もさっぱりなくなったはず。

 なのに、そのことが遠い他人事のように思えてならなかった。

「付き合うってなんなんだろうな」

「そうですね……。でも先輩は、七海さんと仲良いじゃないですか」

「そうだったな」

「今は……違うんですか?」

 先輩は天井の照明をぼんやりと見つめながら、溜息をつく。

「俺も同じなんだよ」

「別れたってことですか?」

「いや、そっちじゃなくてな。答えが見つからないってところが」

 苦味を抑え込むような表情を浮かべる先輩に、私はうろたえる。七海さん。先輩の彼女で、副代表をしていたあの人。卒業するまで、二人はサークルの誰もが認めるような恋人同士だった。

「俺と七海が社会人になって、普通に生活して、土日にはご飯行ったり遊んだりして。俺も彼女も充実してる」

「なら、いいんじゃないですか?」

「でも最近、なんていうか、熱くなることがないんだ。昔みたいに燃え上がるような恋心で彼女に会いたいと思ったり、野生的に彼女とのセックスを渇望したりすることも。ただ会って側にいたいなんて、漠然とした感情しか」

「それも一つの形だと思うんですけど」

 私の言葉はまずかったのだろうか、先輩は悩みを解けないままカクテルをじっと眺めている。私も多分、先輩と同じだった。ただがむしゃらに彼に会いたいと思うことも、彼とのセックスを望むことも、思えばなくなっていただろう。

 それでも、私は彼への未練を捨てきれていないのは、何故なんだろう。

「理由が、なくなったってことかな」

「理由って」

「付き合う理由、かな。ただ漠然と会いたいって、好きって言えるのかなって。俺自体も、七海が好きだからとか七海としたいからとか、七海を望むっていうより、なんかこう理由なく会いたいって風に変わってるような気がして」

「理由なく会いたいって、それも一つの形のように思えるんですけど」

「そうだな。でも多分俺のは違う。きっと、七海がじゃなくて、彼女がってなってるんだと思う」

 今まで見たことのないような先輩の横顔だった。呆然と遠くを見つめている先に、今までの七海さんの面影を見つけ出しているようだった。

 一年前、先輩と話したことを思い出す。先輩は七海さんと付き合ってもう半年経った頃で、それでも先輩は変わらず七海さんを確かに愛していた。七海さんの喜んでいた時の話を嬉しそうにしていた。話すたびに、七海は、七海は、と口角が上がりながら語っていたのに、今は七海さんの名前を呟くたびに、表情に影ができる。

 きっと先輩にとって七海さんは、この一年を経て名前のない彼女という存在に成り代わってしまったのだ。

「それじゃあ、先輩達も別れるんですか」

 私の放った言葉に、先輩は肯定も否定もしない。

「何か、難しいですね」

「きっと別れる理由があれば、俺達も別れるんだろうけど。俺には彼女と別れる理由も見当たらない」

 先輩は七海さんの名前を呼ばなかった。

「付き合う理由も、別れる理由も、見当たらない。だから言葉に出せない。だから、俺は七海と別れられないんだと思う」

「別れたいって言えば」

「そうしたら、何で、ってなるだろ。七海が納得する理由も、それ以前に俺が別れたいと思う理由だってないのに、そんな無責任な発言は出来ない」

 別れるには理由がいる。好きなバンドの歌詞にもあったようなフレーズが耳の中を反復していく。圭太も、明確な理由を持って私に別れを切り出した。

 付き合うにも別れるにも理由がいる。言葉とは裏腹にどちらの理由も見出せていない先輩は、幸せである立場とは違い、ガチガチに固められてその場から抜け出せずに苦しんでいる。表情には見えないのに、どうしようもなく先輩の顔が黒く染まっているように見えた。

「お前に言うのもあれかもしれないけど」

「はい」

「圭太は、別れる理由を見つけたんだろうな」

 圭太の別れる理由。真っ赤な圭太の情熱がドス黒い血の赤に変わり、私の胸の内から溢れ出てきそうになる。先輩の凶器じみた言葉が、私をじわじわと追い込む。先輩は自分の問題で精一杯で、私の苦しみには気づいていない。理由を見つけた圭太、見つけられずにいる私。かつて恋人だった私達の間に今ある埋められない溝を眺めることでしか、今の私は自我を保てない。

 何で、私を置いてかないで。

「俺は、七海のどこを今好きなんだろうな」

 そんな理由、私に聞かないでほしい。

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