曇ったまま

 ずっとリピートしている歌手の曲は、今の自分とは真逆でがむしゃらに恋を紡いでいく。そんな曲をなんてことない表情で聞き流しているのが、最近の帰りの電車でのルーティーンだった。

 思えばいつから好きになったのだろう。確か友達から借りたCDを聴いた時、そのころの心境とぴったり合っていたように思ったからだろうか。その時期からはひたすらにその歌手の曲だけをリピートしていた気がする。そんな曲たちを、今となってはただ最低限の栄養を摂取するノルマのように漠然と聞き流すようになったのは、一体いつからだったのか。それは思い出せないでいた。

 今の僕に、彼らの淡く胸打つ恋愛ソングはあまりに不相応で、手に余るものだった。今の僕には、恋愛というものが一体何なのか、少しもわからなくなっていた。こんな二十を超して大人になりかけた時期にふと、恋というものが不鮮明なものに変わっていた。恋するとは何なのか、愛するとはどういうことか、今の僕には答えられない。

 ふと目をやると、座席に若いカップルが座っていた。そっと幸せをかみしめるように、手をつなぎ、一つのイヤホンを二人で分け合っている。その光景に、言い知れない胸の痛みを感じて、そっと目をそらす。僕にはまだ、その光景を思い出すほど強さはなかった。どうしても、まだ、アキを忘れておきたかった。

 二か月前に、アキとは別れた。びっくりするくらい、あっさりと。

 彼女は別れ際、どうしてこうなっちゃったんだろうね、と呟いていた。そんなことはこっちが聞きたい、なんて怒りに任せることができず、強がりにも似た思いとともに、なんでだろう、と返していた。

 どんな熱湯でもいずれは冷める。沸騰しつくした後に疲れ切ったようにその熱をどんどん放出し、やがて冷え切った水へと変わる。どんなに悲しい恋の物語も、そんな風に始まり終わっていくように思っていた。けれどそんなきれいな形に僕らの恋はならず、波のない中でパッと切り落とされた線のごとく、唐突に終わった。

 結局、僕とアキは何を紡いでいたのだろう。そんな問う価値すらないはずの問答に、僕は答えられないまま今年が終わろうとしていた。

 聞き慣れた駅の名前がアナウンスされ、僕はそっと席を立った。開かれた扉をくぐると、直後に寒風が首元を刺激して身震いをした。

「あっ」

 左のほうから、漏れ出した声が響く。優しい、女性の声。僕はイヤホン越しにでも聞こえたその鮮明な声に、どこか聞き覚えがあって、声の先に目を向けた。

「アキ……」

 目を丸くして、アキは僕を見つめていた。二か月ぶりにあった、まだ会いたくなかった彼女に僕はそっと、久しぶり、と告げた。

 その声ははかなげに響いて、曇り夜空に消えていった。


 暖色のライトに照らされたコーヒーから、湯気が漏れ出す。僕はその光景をぼんやりと眺めてから、ゆっくりと一口飲みこんだ。目の前に座る彼女も、同じように紅茶を飲む。

 なぜだか、僕にも彼女にも気まずい様子はなくて、当然の流れのようにそのまま喫茶店に足を運んでいた。

「アキってこっちの電車乗ってたっけ」

「定期を変えて、乗る電車変わったの。だから」

 変わらぬ表情のまま、彼女は言った。違和感しかないはずのこの空間に、不思議な安心感が流れる。

「まさか、こんなに早く会うなんて」

「本当よ」

「なんでだろう」

「さあ、なんでかな」

 すらすらと続く言葉のやり取りに、意味なんてなかった。和やかな店の音楽に歩調を合わせるように、僕たちは他愛のない話を展開しているだけだった。

「この前ね、新曲買ったんだ」

 唐突に語られた言葉に僕は理解が追い付いていなかったが、やがてそれがさっきまで聞いていた歌手の曲の話だと気づき、ああ、と声を漏らした。

「久しぶりの王道ラブソングだったよね」

「うん、素敵な曲だったわ」

 アキの顔がぱっと華やぐ。彼女はまだあの歌手の歌が好きなままなのだろう、まるで僕とは対照的に。

 付き合ったきっかけも、あの歌手の歌だった。ライブで偶然隣になり、年も近くお互い一人で来ていたから、自然と話し、気が付けば連絡先を交換して、ライブ以外でも会うようになっていた。

 僕と彼女の中の会話は、おのずと歌の話が多くなっていた。二人の出会いのきっかけともいえる歌たちに、僕らは以前よりも増した愛情を感じていたのだろう。

「何か……今日は浮かない顔ね」

「え、どうして」

 急な彼女の言葉に、僕は驚いていた。そんなにもつまらなそうな表情を出していたつもりも、そんな風に思っていたつもりもなかったのだが。

「前の君は、もっと楽しそうに話してくれたわ。特に曲のことになると」

「それは……きっと僕の熱が冷めたからかな」

 そういった途端、アキは、ああやっぱり、といった風な顔をして、そっと伏せた。

「どうしたの……?」

 僕の問いかけに、アキはゆっくりと顔を上げて、悲しそうな表情をして返した。

「私が別れたのは、きっとこれが理由よ」

「えっ」

 彼女の言葉がひどく響いて、僕の胸の鼓動の勢いが増す。

「どうしたの、急に」

「ほんと、急だよね」

 アキはくしゃっと笑った。その表情に、僕への未練などは少しも感じられない。

「私にも、答えが見つからなかったの。なんで君と別れるなんて言ったのか。まだ好きだったのに。なんでかなって。でも今唐突に、答えがはっきりとわかっちゃったの。私は、こうなることが怖かったんだって」

「こうなることって」

「今の、この状態よ」

 僕の理解できない様子に少しあきれながら、アキは話を続けていく。

「きっと私もわかっていたの。私たちを繋いでいた大部分が曲だったことに。別にそれが悪いとは思っていないけれど、でもやっぱり、それだけじゃ恋人って言えないじゃない。互いに恋を紡いでいく、互いに思いを深め合っていくことが、恋愛することでしょ。私たちは、そんなこと放り投げて、目の前の楽しい話題にだけに盛り上がって。思えばそんなの恋人じゃないって、今なら言えるよ」

 アキの目は、一直線に僕を見つめていた。わかった、と言ったら違うかもしれないが、少しだけ何かが知れたように思えた。それでも、僕は諦められない気持ちがあった。

「でも、ならあの日から変えていけば、変わっていけばよかったじゃないか。少しずつ、僕らが紡いでいけばよかったんじゃないか」

「私には……その自信がなかったのかもしれない」

「どういうことさ」

「私は、あなたと恋を紡いでいける自信が、なかったのかもしれないわ」


 それだけ言って、アキは去っていった。紅茶の代金を置き、私帰らなくちゃと言って、足早に去っていった。

 結局彼女と僕とは、すれ違ったままで、何も思いを重ねられないまま、出会い別れた。

 僕が曲たちへの熱を冷ましたのとともに、彼女もすっと何かから冷めていったのだろう。

 ふがいない姿のまま窓を眺めると、相変わらず曇った夜空が広がっていた。

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