つぎはぎ
つぎはぎ
最初に彼女と一緒に帰ったのは、夕暮れ時の市民公園だった。お腹が空いたと片手にサンドイッチを握った彼女に歩調を合わせようと、僕は同じコンビニにぽつりと取り残された菓子パンを握っていた。
木曜の講義終わりだった。僕も彼女も、同じ講義をとっている。その帰り道に公園に行こうと誘ってきたのは、彼女のほうだった。
「なんで夜になるとこんなに肌寒くなるんだろう」
「秋は季節の変わり目だから、じゃない」
風になびく髪は茶色く染められていて、秋風に溶け込んでいた。寒い、といって彼女が体を摩る姿を横目で見る。白いカーディガンが夕方の日差しに照らされ、中のブラウスが透けて見えた。僕は遠くの流動雲に目をそらしながら、残りの菓子パンを一口で飲み込んだ。その姿を見ておーといい、彼女は一口大にまで減らされたサンドイッチを飲み込んだ。
「あーあ、彼氏もなんでこんな可愛い彼女を放って、友達と遊びに行っちゃうんだろうね」
「ああ、さっきの電話?」
「そうよ。ほんとに」
講義終わりに彼女は電話をかけていた。透き通った声の中に、微かな喜びがこもっているように感じた。遠目で聞いていた僕には詳しい会話の内容はわからなかった。けれど、彼女の表情が段階を経て暗くなっていったところを見ると、彼女にとって許しがたい出来事が僕のいないところで起こっているとわかった。そして僕は、彼女に呼ばれた。
「私って何なんだろうな」
「さあ、どうなんだろう」
「ちょっと、そこは慰めてくれるべきところじゃないの」
「そんなこと言われても。実際、僕にだって自分が何なのかなんてわからない。ましてや知り合って数か月の人のことなんて」
「まあ、そんなもんか」
実際、僕が自分が何なのかわからない。自分にとって、周りにとって、そして彼女にとって。彼女は僕のことをどう思っているのだろうか。気の合う友人? 付き合いの良い同級生? 彼女にとって、僕というものはどれほど重要な存在なのだろう。
背中を見せる彼女を、僕は鞄から取り出した一眼レフカメラで抜き取った。綺麗な後姿が、その小さな箱の中に保存されていく。
知り合って半年、僕は変わらず彼女のことを思い続けていた。その思いは、まだ伝えられていない。
五号館を抜けた奥の細道をたどると、桜並木が一望できる、誰もがこの大学に入学して間もない頃、サークルの勧誘交じりに上級生から聞かされる話だ。聞かせる立場となった僕は、その話を誰にするでもなく、一人その地に向かっていた。道端に足音のように取り残された桜の花びらが、道しるべのように桜並木へと誘導していく。首にぶら下げた小さな一眼レフを揺らしながら、緩やかな上り坂をゆっくりと歩いた。去年買ったばかりのはずのそれが、相当体に馴染んでいる。もう写真部に入って一年も経つことを、何気なく実感させていく。
大学に入って何かを始めなくてはと、妙に焦っていた。社会に出て仕事と未来に縛られるその前に、何か自分の歴史に爪痕を残したいと、一年前の僕は強く意識していた。何気ない日常のほんの一瞬にでも、そんな出来事は落ちていると、疑っていなかった。
実際この一年を振り返ってみても、そんな特別な出来事はなかった。ただ過ごしていけば、それだけで過ぎていく時間に、努力もしなかった僕が望むような何かは、落ちてはこなかった。写真部でも、同期とそれなりの仲を築き、友情も、それ以外も、大きな発展は起きていない。僕の日常は、退屈に満ちていた。
しばらくして満開の桜並木が顔を出した。去年見た時ほどの新鮮な驚きはないものの、やはり景色は見事なものだ。一面の桜が風に揺られ、鳥のように風に乗った花びらがゆらゆらと舞っている。僕は首にぶら下げた一眼レフを手に取り、広がる桜一面を切り取った。
再生画面に切り替え撮った写真を確認してみると、やけにブレブレだった。写真の技術すらも発展していないのかと傷つきかけたが、どうやらそうではないらしい。右端の隅に、ぼんやりと肌色の何かが写っていた。きっとそれが桜の木にぶつかったのだろう。
カメラを向けた先を、目を凝らして見てみる。背の低い女の子が、懸命にジャンプして何かを掴もうとしているのが見えた。
「なにしてるの」
駆け寄って話しかけると、彼女はジャンプをやめてこちらを見つめた。ヘアゴムでまとめられた長く茶色い髪が、ぴたっと停止する。桜色のシャツが、肘のあたりまで捲られている姿が、彼女の必死さを表しているようだった。
「あそこ」
指さす方を見つめると、木々に紛れて白い便箋が絡まっているのがわかった。あれが、という言葉にうなずく彼女を見て、僕はその便箋の方へと手を伸ばした。三十センチほど違う彼女にとっては高い所だが、僕にとっては軽くジャンプすれば届くほどの高さで、難なくその便箋は掴み取れた。僕はその便箋を一瞥した後、彼女へと渡した。
「ありがとう……みた?」
「うん……まあ」
「そう」
彼女はそういうと、照れくさそうに眼をそらして、ゆっくりとその場を離れていった。
恋に落ちる瞬間が、以外にもこんなものかと思うくらいに、何気ない一瞬だった。
彼女の照れた横顔が、小さな背中が、やけに恋しく感じた。
これが僕の大学生活で最初の恋だった。彼女の必死になって求めていたあの便箋の言葉同様に、僕には儚い思いがあふれていた。
『あなたのことが、好きです。』
流れゆくように恋に落ちて、人生の全てを相手に捧げる。そんな物語は世の中に溢れている。最近読み返した恋愛小説の帯、自分よりも大切な人がいた、永遠に続くと思っていた。そんな恋愛が、世の中には溢れているのだと錯覚していた。
桜の木の下で出会ったあの日、僕は名も知らない彼女に恋に落ちた。そして半ば、桜のようにその恋は舞い散ったのだ。
古びた部室棟の二階に上がると、すぐそばに写真部の部室がある。切れかけの蛍光灯にうっすらと照らされる看板は、先代たちの作った置き土産で、スイッチを押すとテレビの収録スタジオのオンエアの文字のように、うっすらと写真部の文字が光って見える。この明かりが着いている時は、部室に人がいるとわかるようになっている。
「お疲れ様です」
覇気のない挨拶と共に扉を開けると、先輩が二人、お疲れと同じように返した。軽くそちらに視線を向けると、見慣れない後姿が一つ、ひょっこりと座り込んでいた。茶色いロングヘアーが後ろでまとめられていて、ブラウスの上に着たニットの半分ほどまで垂れている。座っていてもわかる小さい背中が、見知らぬ部屋に怯えているように見えた。
「君は……新入生?」
「いいえ、二年生ですが、途中入部したいと……」
言葉も途中に、目の前の彼女は口を大きく開けて僕の方をじっと見つめだした。合わせ鏡のように、僕も同じような仕草をしていた。
新入生に見えた彼女は、あの日恋をした彼女だった。
「もしかして……知り合い?」
先輩の一人が、僕らのその反応を見て問いかけた。僕は遠慮がちに、一度会ったことがあるだけで、と付け加えた。
「じゃあせっかくだし、校内まわって写真撮ってきなよ。ほらその子、カメラ買ったばっかで慣れてないみたいだからさ」
「いやでも、そんないきなり……」
「いいから、二人ともいったいった」
半ば追い出されるように、僕らは部室を出た。掌に収まるほどのデジタルカメラを握りしめた彼女が、気まずそうに、よろしくお願いします、といった。
部室棟から歩いて五分ほどの場所に、下の街を一望できる場所がある。僕と彼女は言葉を交わさぬまま、そこまで歩いた。北風に背中を押されながら、会話のない二人の間に、風の唸る音が通り抜ける。
「私ね……」
「はい?」
「私、付き合ったの」
彼女は、それが当たり前のように、呟いた。
冷たい風が頬を伝った。僕はそのわかりきった事実を、呆然と受け止める。好きを伝えたあの手紙に、あの日彼女は必死になって手を伸ばしていた。それは彼女の、想いの表れだった。僕と彼女は、初めからどこまでも遠い。
「じゃあ、撮ってみようかな」
「そうですね」
「いいよ、敬語じゃなくて。同級生でしょ。あの先輩たちから聞いた」
「ああ、うん。じゃあ、撮ろうか」
頬を少し緩めると、彼女は街の方を向き、真剣な表情でカメラと向き合った。電源を入れたデジタルカメラから、レンズがひょっこりと顔を出す。彼女は画面をじっくりと見定めて、一思いに風景を切り取った。
「あはは、ちょっとぶれてる」
そういって見せてきた写真は、ピントが手前の木に合わさっていて、風景がぼやけていた。
「ああ、ほんとだ」
「デジカメなら私でも撮れるかなと思ったんだけど、結構難しいね」
「こういうのは慣れだよ。僕もきっと、最初はそんな感じだった」
「そうかな」
彼女は、照れくさそうに頭を掻く。茶色い髪が、少し乱れた。
彼女の隣で、僕は同じように風景を収める。僕が没頭するべきものは、今ここにある、そう信じて、シャッターを切る。僕のその姿を見て、彼女は感心するように見つめると、そっと一眼レフのディスプレイに目をやった。
「すごい、さすがだね」
「そんなことないよ」
「ううん、素敵な写真」
夕暮れに包まれた街並み、ビルの陰にひょっこりと隠れようとするように、日が沈んでいく。その風景は、僕にとってはありきたりすぎて、彼女にとっては、きっと新鮮すぎた。再生画面をうきうきと見つめている彼女は、おもちゃを手にした子供の様に、喜びの表情に満ちていた。胸にちくりと、何かが刺さるように、痛む。
「よし、もう一回」
彼女は再び真剣な表情に戻り、目の前の風景に気力を注ぐ。シャッターに置いた人差し指が小さく震えているが、目と表情は、力に満ち溢れている。
シャッター音の響く音と共に、風景が刻まれる。彼女はすぐに画面に目をやると、真剣な顔が、くしゃりと崩れた。
「ねえ、撮れたよ。綺麗な写真」
夕暮れの滲む光に、嬉しそうな彼女の横顔が照らされる。やけに眩しく感じて、僕は目を逸らしながら、良い写真だね、と答えた。
まるで世界が変わったかのようにはしゃぐ彼女の笑顔が、頭に強く焼き付く。
忘れようと、蓋をしようとしたのに。
僕は、彼女の笑顔を、忘れることが出来なかった。
蝉の声が果敢に鳴りやまなくなったこの季節に、彼女は相変わらずおきまりのブラウスを身につけたまま、額に伝う汗を拭い取っている。暑くないの、と聞くと、まだ教室が寒いよ、といって黄色く染まったブラウスをぱたぱたさせた。確かに、僕らのいる教室は、少し肌寒かった。
「そういえば、今回のコンクール、どうだった?」
「ああ、佳作止まりかな。結構良かったんだとは思うんだけど」
日暮れの交差点に、ヘッドライトを照らしたいくつもの車たちが往来する中を、歩道橋から見下ろして撮った写真。都会の険しさと一日の終わりの慌ただしさが、色濃く写せていた自信はあったが、それほど甘い世界でもなかったようだ。
「そういうそっちは」
「……優秀賞だった」
「まじか、すごいな」
彼女は照れ臭そうに、窓際の草木に目をやっていた。桜の花はすっかりと散り、新緑深い葉が木々を覆っている。彼女と出逢ったあの日から、もう三ヶ月が経とうとしている。
「でも、あのピントの合わなかった頃から、進歩したもんだ」
「ちょっと、馬鹿にしてない?」
「まさか」
実際、彼女には度々講義の空き時間に、写真撮影に付き合わされた。雨粒の滴る樹木、寂れた部室棟裏の蟻の群れ、食堂のテラスから一望できる街、彼女はそれらを撮るたびに、スポンジのように感覚を吸収していき、試行錯誤を繰り返していた。僕はその直向きにカメラと向き合う姿を横目に、シャッターを切り続けた。小さな手に握りしめていたデジタルカメラは、いつの間にか立派な一眼レフカメラへと姿を変えていた。
講義終了のチャイムが鳴ると、彼女は次講義だからと、足早に去って行った。空きコマの僕は、彼女の背中を見送ると、巣に戻るように、部室へと足を運んだ。
扉のランプは、点灯していた。
「お疲れ様です」
僕のか細い声に反応して、先輩が、おう、と声を出した。
「そういや聞いたぞ、佳作だってな。惜しかったな」
「まあ、そうですね」
手近なソファに鞄を置く。教科書の重みが伝わるように、ぎしっという音が遠慮がちに響いた。
「そういや、あの子は優秀賞だってな」
「ええ、さっき聞きました」
「あの子、元から才能あったのかな」
先輩はブラックコーヒーを一口飲むと、そっと机に置いた。カップからは湯気は立っておらず、香ばしい匂いだけがこちらに伝わってくる。
「入って三ヶ月ちょっとで、一年半も経験もあるお前を追い抜くなんて。やっぱ元から持ってたんだろうな。羨ましいもんだ」
気だるそうに、カフェイン混じりの息を吐く。部室にばかり顔を出す先輩が、険しい顔を見せている。彼女のことを、ろくに見てやったこともないこの人が、どうしてこんな事を言えるのだろう。
「彼女は、何倍にも努力をしてました。暇な時間さえあればカメラを持ち出して、部室なんてくる暇ないくらい、夢中になって、楽しんで。撮ってたんです」
淡々と語る僕の姿に、先輩はつまらなそうな顔をして、テレビのモニターに向き直った。騒がしい音と共に、コントローラーを操り出した。淀んだ空気の中に、鬱蒼とした音が響く。耐えきれなくて、僕はその空間から逃げ出した。
「あっ」
扉の隅で、彼女は憂鬱そうに足を止めていた。
「聞いてたの」
「うん、まあ、ね」
風景に触れるたび、彼女は暖かな笑顔に包まれていく。今の彼女には、そんな穏やかな感情は持ち合わせていないようだ。無防備に下げられた細い腕が、行き場を見失って彷徨っている。僕はその腕を握る勇気と、資格を持ち合わせてはいない。
「私ね、いつもこんな感じで。頑張ってるのに、誰にも見られてないから、元から出来るって、思われちゃう時があるの。だから、大丈夫」
巻きつけられた鎖に抗うように、険しい表情を彼女は浮かべていた。自分の努力と、周りの印象、そのギャップは彼女にとってどれほど大きいのだろう。
「僕は見てたから。知ってるから」
古びたコンクリートの床に、か細い声が伝わっていく。僕の想いの一部が、そっと漏れ出ていく。
「うん、ありがとう」
噛みしめるように呟いた彼女の表情は、薄暗い蛍光灯の明かりでは、読み取れなかった。
彼女の笑顔しか知らない僕は、この日、彼女の笑顔以外の表情を知った。
テーブルの上には、軟骨の唐揚げ、フライドポテト、ポテトサラダが並べられていた。居酒屋らしいラインナップに似つかわしくない赤ワインを飲みながら、彼女はうなだれていた。
彼女と出掛けるのは、これで二回目だった。市民公園の時と同じように、今回も彼女から誘ってきた。一つだけ違ったのは、彼女が写真部を辞めていたことだけだった。
「私はさ、彼氏が友達を優先するのが嫌なわけじゃないの。私を大切にしてないような部分が透けて見えるのが、嫌なの」
黒いコートは椅子の隅に脱ぎ捨てられていていた。灰色のニットから、鎖骨の白い肌がちらりと見える。
「また、彼氏の話?」
「だって、今日だってほんとは新宿で夜ご飯食べる予定だったのに」
「で、その代わりに呼ばれたわけね」
「いや、そうじゃないけどさ」
フライドポテトを口に放り込むと、不貞腐れた表情で口を動かした。こんなに近くに居るのに、まるでこの場にはいないように、彼女は彼の事を想い続けている。
彼女は、辞めた日から、決して僕と写真部の話題を出さなかった。僕の方も、彼女がカメラを持たない限り、その話題には触れずにいた。結局、その話題が持ち出されたことは、未だにない。
「実はさ、ちょっと前に彼が浮気してるの見たの」
喉に飲み込みかけたハイボールが、思わず溢れる。彼女は顔を真っ赤にしたまま、その姿に気づかないままだった。写真部を辞めてからも彼女との交流は絶えなかった。そしてその中の会話の多くは、彼氏の話を占めていた。だが、こんな話は、初めてだ。
「知らない女の子と、新宿歩いてるの見て。あとつけたら、その子の家に入ってった。手繋いで。」
「うん……」
「隙ついて、携帯見てみたんだ。恋人同士みたいなやりとりしてた。私彼にとってのなんなのかわからなくなって。私のこと好きって聞いて、そしたら、うん、とだけ返ってきて」
彼女の言葉が、僕の脳で写真のように映る。悲しそうな瞳が、印象強く彼の目を見つめている。
「きっと、彼にとっての私は、それくらいの存在なんだって、そう思ったらやるせなくなって。だから私も、浮気してみた。彼氏じゃない男の子と。でも、全然、全然……」
彼女は言葉を紡ぐことなく、顔を伏せて涙を流し出した。重たい荷物を投げ出すかのように泣く様子が、店に流れるポップソングとミスマッチする。今までに感じたことのない空気が、僕の目の前を支配していた。
「ごめん……なんでこんな話してるんだろ私」
「ああ、ううん。いいよ」
彼女は項垂れて、顔を突っ伏した。いつも結ばれていた髪は、今日は無造作に乱れている。知らない彼女を見ているようで、いつもよりも心臓の音が大きく聞こえた。
愛し愛されるのが恋人ではない。彼女は自分の傷ついた思いを、なぞるようにして、癒そうとした。
こんな光景は、きっと世の中に溢れている。なぞるように同じ行為をして、相手に知らしめる、そんな復讐は、きっと悲しいほど陳腐なものであるはずだ。そんな事を彼女がしてしまうことが、どうにもやるせなかった。
彼氏の話を繰り返し聞かされる僕は、仕返しのための相手にすら、選ばれない。僕と彼女の線は、未だ交わることも、かすることすらもない。僕は彼女を知るたびに、彼女の本当の想いを感じるたびに、目指す場所から遠ざかっていく。
聞きたくない話が、話したい相手を繋ぎ止める、僕に取っての唯一のものだった。
すっかりぬるくなったハイボールを流し込み、彼女の姿をじっくりと見つめる。彼女は、項垂れたままだった。
「もっと、話しなよ」
冬休みになる少し前に、僕は写真部を辞めた。
コンクールがふるわなかった、先輩とうまくいかなかった、写真に対する情熱が薄れていった、出そうと思えばいくらでもあった。でもきっとどれも、決定打ではなかっただろう。秋風の強さが、不意に自分の背中を強く押したような気がした。
部活の枠を外れると、これまでそれなりに仲の良かった同期や、先輩とのかかわりは、見事に消え去った。僕の構築してきた交友関係は、思っていた以上に小さかった。
校内は試験期間のためか、学生はいつもよりさほど多くはなかった。通り過ぎていく学生たちは、すっかり暖かなコートに身を包んでいる。季節は、すっかり冬だ。
「ねえ」
後ろから、不意に声がかかる。聞き馴染みのある、温かい声。立ち止まった場所は、春に桜が見通せたあの場所のすぐそばだった。
「久しぶり」
「ああ、久しぶり」
彼女は、相変わらずの姿で、僕の目の前に立っていた。茶色いコートの中からは、ちらりとブラウスの襟が見えた。
「ねえ、写真部辞めたんだって」
「ああ、うん。そうだよ」
目の前の木々は、すっかり緑は取り払われて、閑散としていた。少し強い風が、頼りない木の枝がゆらゆらと揺れて、今すぐに折れてしまいそうだった。
「ごめんね」
「いや、君が悪いわけじゃない。僕はきっと、君がいなくても、いつかはあそこを辞めていたよ」
でも、と彼女はいたたまれない表情をして足元を見つめる。いつも見せていた悲しげな表情が、今日は僕に対してだけ向けられている。
「私が写真部を辞めて理由」
「え?」
「私が、あの部活を壊したから。あなたと、先輩を」
「いや、待って。君の実力は、何も悪くなかった」
「違うの」
薄暗い雨雲が、空を包み込む。ゆっくり動いていくその暗がりから、まだ雨は降ってこない。彼女はゆっくりと僕の方に顔を向けていく。今にも、表情が崩れ落ちそうだ。
「私、先輩に告白された」
「え……」
「断っても、しつこくまた告白された。それで一回、私先輩と付き合うって言っちゃったの。彼氏の代わりにしようとして」
「嘘でしょ……」
彼女は、泣くことはなかった。歯を食いしばって、僕を見つめて。けれどその目は、とても弱弱しい。光の灯った彼女の瞳は、最近すっかり見ていなかった。
「私、あなたが思っているような、良い子じゃない」
彼女の言葉に、僕は答えることはできなかった。小さな息遣いが、そっと漏れ行くの音が、響くだけだった。彼女は、未だに弱った瞳で、僕を見つめている。
「あなたは、なんで私の側にいてくれたの」
「……」
僕は、彼女の笑顔だけを、見てたかった。彼女の笑顔だけが、僕の全てだった。彼女はふれるたびに変化していった。弱り、壊れ、醜い姿を見せ。それでも、僕は彼女のあの笑顔が、頭から離れなかった。彼女の笑顔だけが、僕の全てだった。
「私は、いつもそばにいてくれて、見守ってくれて、そんな君が大切な存在なの。写真部を辞めたのが、もっと別の理由なら、私のことを、許してくれるのなら。今度は、私が、あなたの話を聞くから。今度は、私が、あなたに向き合うから」
「……ありがとう」
彼女は、僕の手にそっと一切れの紙を握らせて、駆け足でその場を去った。その後ろ姿が、あの日抜き取った写真の彼女と繋がっていく。
彼女からもらった紙切れには、彼女の電話番号が書かれていた。思えば、彼女とのやり取りする手段を、僕は携帯の中に持ってはいなかった。もっと先に受け取っていれば、僕と彼女の関係は、もっと違っていたかもしれない。それが、どういう形であろうと。
僕の気持ちは、彼女とはきっと交わらない。彼女にとって、僕の存在がどれだけのものであっても、きっと僕は、満足できないのだろう。いっそのこと、このことをきっかけに、全てを投げ捨てればいいのかもしれない。彼女への思いも、悲しさも、やるせなさも、全部、全て捨て去れれば。
それでも僕は、手に握りしめたその場所に、僕の声を届けたくなってしまった。僕の話は、ろくにできなくても。それでも。
僕のかける電話、彼女が笑顔を見せるその瞬間を、諦めきれなかった。
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