戦争と漆黒の海峡

柴田 恭太朗

第1話

 ざんッ、ざんッ。

 左右のパドルがリズミカルに海面を掻くたび、夜光虫が緑に輝き、淡く散る。


 新月の真夜中。

 星明りの下、日本海を疾走する一艇の姿。

 笹船のような細身の二人乗りタンデムタイプのシーカヤックは、鋭い舳先へさきで濃密な闇の水面みなもを切り裂き、なめらかに、そしてめざましい速度で突き進んで行く。後ろに船舶レーダー避けのシートで覆った五人乗りゴムボートをけん引していた。


 目的地は、北西にある無人島。


 ときおり吹く向かい風に、二人の若い男は握りしめたパドルに力を込め、行程を急いだ。


 ズ――ン

 北東の方角から雷鳴のような鈍い咆哮が轟く。


――小型核ミサイルの着弾


 また北海道が攻撃されている。

 おそらく標的は南部の工業都市。

 日中ならばキノコ雲も見えるほどの近距離だろう。


 シーカヤックの二人は、核の爆発音を遠く聞きながら、パドルを握る手を休めることなく漕ぎ続けた。


「やつらッ! 容赦ッ! ないなッ!」

 前シートの若者が、ひと漕ぎごとに吐き捨てるように叫ぶ。


 彼の名は東郷とうごう翔平しょうへい。地元の草野球チームでピッチャーを務める彼は、長身かつ鍛えあげた肉体を持つ。その幅広の背筋はいきんが生みだす圧倒的な膂力りょりょくを惜しみなく使い、左右のブレードで海水を掻いて、ワッシ、ワッシと漕いでゆく。


「ヤツラは核で汚染してでも、北海道を奪う気なんだ」

 後ろのシートから応えた小柄な若者は、富士田ふじたユータ。


 ユータもまた草野球で鍛えた、しなやかな筋肉を活かし、ともすれば潮に流されそうなカヤックの船体を目的地へと修正し、最短距離で艇を航行させてゆく。


 彼らの頼みの綱は微かな星明り、それに船体のデッキに取り付けた防水GPSだけだ。GPSのメーターは、巡航時速12キロを示している。


 スピードの出る二人漕ぎタンデムタイプであることを考慮しても、彼らはゴムボートをけん引しているのだ。ハイペースすぎる。俺の体力が持つかなとユータは微かな不安を覚えた。


 それでもユータの目の前で、強引に船体をけん引してゆく翔平のパドルさばきは緩む様子がない。不安を押しのけるように、ユータは翔平のペースにピッチを合わせた。彼は翔平の底知れぬ持久力スタミナを信頼しているからだ。


「ユータがッ! 来てくれてッ! 俺はッ! 嬉しいよッ!」

 パドルのひと掻きごとに翔平が叫ぶ。


「当たり前だっつーの。俺らはガキの頃からのバッテリー。ピッチャーが行くならキャッチャーも行く。当然だろ!」

 ユータは照れ隠しのためか、早口で叫び返す。


 常識的には、夜にカヤックのような小舟を海に浮かべることはありえない。

 理由は一つ、危険だからだ。

 危険を知りつつ、翔平とユータがシーカヤックで漕ぎだしたのには理由があった。


 ◇


 午後八時。時をさかのぼること三時間前。青森県は竜飛崎の某町。


 緊急招集に応じて、町の集会所に顔を出したのは五名の男たち。招集をかけた町長は、パイプ椅子に座った出席者を順繰りに見て唸り声をあげた。人手が足りない。


 もともと住民が少ない漁村とはいえ、五名とは。昼に突如勃発したロス帝国との戦争で、南方へと避難した町民も少なくない。


 町長が皆に話した緊急事態とは、こういう内容だった。


 青森の竜飛岬から20キロほど津軽海峡を渡った北西の沖合に、ポツンと無人島がある。これを白神桜島しらがみさくらじまという。いまでこそ無人だが、かつては島民の住居があり、小さいながら波止場を備えていた。


 断崖に囲まれたこの孤島には、島の中央部に見晴らしのよい小高い丘とわずかな平地があり、この季節にはみごとなエゾスカシユリの群生が見られる。


 今朝、華やかなオレンジ色のユリとハイキングを目的に島へ渡ったグループがあった。五人の小学生たちと引率の女性教師、矢神祥子やがみしょうこだ。そこへ予想もしなかった、日本とロス帝国の開戦。彼らは帰りの船も食料もないまま、無人島に取り残された。


 さらに町長は、一刻を争う事情があるという。

 小学生の中に一型糖尿病の子がいるからだ。健康な子ならば空腹を我慢することはできても、糖尿病の子はそうはいかない。インスリンの皮下注射をしないと、低血糖での昏睡から死に至る。

 行くならば、新月の今夜。暗闇をつき、レーダーに捕捉されにくい小型の船を使うしかない。


「俺がカヤックで向かいます」

 町長の説明に手を挙げたのが東郷翔平である。気が急いた彼はパイプ椅子の脚を鳴らして立ち上がった。島に取り残された引率教員の矢神祥子は彼の婚約者。それは町民の誰もが知っていることだ。


「町のシーカヤックはタンデムタイプ。もう一人同行してほしいんだが」

 町長は片手をあげ、翔平を押しとどめた。


「翔平の相棒なら、俺しかいないでしょ。それに祥子は俺らの同級生ですよ。義を見てせざるは、なんとやらってね」

 富士田ユータが立ち上がった。「準備がありますから、お先に失礼します」ユータは皆に軽く頭を下げ、翔平の背を押すようにして集会所を出て行く。


 固唾を飲んで二人を見送った町民の間から、ホゥッと安堵のため息が漏れた。

「彼ら、きっと助からねぇですよ」、タオル鉢巻きの中年漁師が町長に震え声でつぶやいた。

「わかってる。日本人の悪いクセだ」

「どういうこってす?」

「我々は『どう努力したか』だけで満足してしまう。本当に必要なのは『目的を達成すること』なのに。『仕方ない』の一言で低い可能性にすがりつき、あたら若い命を犠牲にする。先の大戦でもそうだった」

 町長はガクリと肩を落とし、フーッと長く嘆息した。


 ◇


 深夜12時。漕ぎ始めてから一時間が経った。


 行程の半分ほど過ぎただろうか。体力ギリギリの高速巡航をしいられたユータの腕と背の筋肉は、パンパンに膨満していた。ボディビルダーなら、これをパンプアップとか呼んで喜ぶのだろう。しかし、いまは帝国軍の艦船や有翼無人機ドローンに発見される危険を冒してのシーカヤック航行。腕が動かなくなる前に、無人島へ到着できるのだろうか。


「『板子いたご一枚下は地獄』とは、よく言ったもんだよなぁ、翔平」

 不吉な考えから気を紛らわせたいユータが、翔平の背中に話しかけた。

「そうかな」、気のない返事をする翔平。

「海が怖くないのか?」

「怖い怖くない以前に、カヤックは俺の趣味だからな」

「冒険は俺の趣味じゃないし、翔平とタンデムでなければお断りだ」


「そうかもな。趣味ってそんなものだろ? 本当に好きなら命をかけても惜しくない。むしろ楽しい」

「婚約者の祥子がやめてと言ってもか?」


 ユータはもし無人島に取り残されたのが矢神祥子ではなく、赤の他人でも翔平は救助に名乗りを上げただろうかと思った。と同時に、それでも行くのだろうなと考える。


「そうだな」

 翔平の短い返答に、やはりコイツは助けに行くと確信した。翔平は生まれつきのヒーロー体質なのだ。


「翔平と一緒にいると、いつも待っているのは過酷な運命だぜ」

「勝つと信じれば、なにも怖くない」

「俺、翔平と一緒なら、この戦争もなんとか生き残れると思うんだ。7点差で負けていた試合を覚えてる? あの9回裏の大逆転劇」

「野球と戦争を一緒にするなって」

 翔平は苦笑した。


 ◇


 竜飛崎を離岸して二時間。

 翔平とユータの漕ぐシーカヤックは、帝国軍に発見されることもなく、白神桜島の波止場へと滑り込むことができた。波止場は星明りでほの明るい。


「もう腕がパンパン」

 泣き言をもらすユータの肩を、翔平が無言でがっしりと抱きしめた。翔平は達成感の思いで言葉がでないのか、あるいは話せないほど疲労困憊しているのか。

「おいおい、祥子が見てるぜ」、ユータがこちらにやって来る女性を指さした。


「二人とも、無事でよかった」

 祥子が駆け寄り、体をあずけるようにして翔平に抱きついた。翔平の腕に巻き付けたスマホの微かな光が、祥子の頬の涙をキラリと照らす。


 彼女は星明りの波止場に一人たたずみ、ずっと二人の到着を待っていたようだ。それがどれほどの心細さであったか、ユータには想像ができた。

「俺たちを誰だと思ってるんだ。青森が誇る黄金のバッテリーだぜ?」

 思わずもらい泣きしそうになり、ユータは努めて明るい声をだした。


「あんたたち、相変わらず仲いいのね」

「祥子が邪魔しなければ、俺たちは結婚するんだ。なっ?」

 ユータが背を伸ばして翔平の肩に片手を乗せる。

「しねぇよ。離れろ、きしょい」

 翔平が笑いながらユータの肩をこづいた。


「さて。一休みしたら出発するか」

 ユータが防水型腕時計のバックライトを灯し、時間を見た。

「いや、出発は夜明け直前がよさそうだな。少し寝ておこう」

「どうして? 子供たちを早く安全なところへ」、祥子が翔平に食い下がる。

「新月でベタ凪の好条件なんて二度とないぜ?」と、ユータ。

「GPSを見ればわかる」

 ユータは自分のGPSを見て瞬時に翔平の言葉を理解した。「ジャミングか」、GPSが目まぐるしく無意味な数字を示している。


 ロス帝国が函館山あたりに陣取り、強力な妨害電波を出しはじめたようだ。これでGPSを利用するミサイルは効力を失う。彼らの常套手段だ。これでは暗闇の海を渡って青森へ戻ることは不可能だ。


「青森へ戻ることはあきらめて、一度北海道へ渡ろう。松前まつまえならすぐ目と鼻の先だ。ただし暗礁が多数あるから、視界が利く日の出直後に到着したい」

「子供たちを安全に連れていけるかしら? 万一と思うと私」、祥子は不安に声を震わせる。

「大丈夫。俺とユータ、それに祥子がいれば絶対に大丈夫」、翔平が胸を叩いた。

「翔平ってカッコいいだろ?」、ユータが祥子の肩をひじで軽くこづく。

「知ってる」、祥子は星明りの中で翔平の腕に自分の腕をからめた。


 夜が明けるまでの短い休息は、彼ら三人に充分といえないまでも必要な活力を与えた。祥子は寝ていた子供たちを起こし手際よく軽食を取らせ、インスリンが必要な少女には皮下注射を打たせた。


 翔平とユータの漕ぐシーカヤックは、小学生と祥子を乗せたゴムボートを曳航し、朝日が昇り切らぬ松前の浜へと上陸を果たした。


 その後、彼らが辿たどった逃避行は……

 また別のお話で。


 終

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戦争と漆黒の海峡 柴田 恭太朗 @sofia_2020

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