男は自分としては、綺麗好きというわけでもなければ、がさつすぎるというわけでもないと考えていた。家の掃除は一週間に一回はするし、洗濯も毎日とはいかなくても二、三日にいっぺんはやる、そんな標準的な性格をしているのだと。

 男はある日の夜、酒を飲みながらにバラエティ番組を見ていた。芸能人の私生活を、なんて言ったそれには、いわゆる潔癖症の芸能人の潔癖ぶりを物語る映像が流れていた。

 男はそれを見て、鼻で笑った。

「何だこいつらは。まるで綺麗にすることに支配されてるようじゃないか」

 男はそんな風に独り言を言い、自分はそうはなるまいと思いながら、つまみを口に運んだ。


 次の日の朝、男はリビングのカーペット上で目を覚ました。睡眠が深かったのだろうか、カーペットには男のよだれが垂れていた。

 男は寝てしまっていたかと頭を掻きむしる。すると、ぱた、と音がした。男は不思議に思いその音に耳を近づけようとした。するとどこかから声がした。

「汚いわ。いやよ、汚いわ」

 女のような声がリビングに響いて、男ははっとして辺りを見渡す。彼は寂しき独り身。部屋に誰かがいるというはずもなかった。

「何なんだ、今のは」

 呟く声に、返事は返ってこない。だが、

「汚いわ。本当に、汚い」

 女の声がまた響いた。口調は甘いが、少々苛立ちも含まれていた。

「さっきから何なんだ。さては誰か忍び込んでいるのか。出て来い」

 男はしきりに大きな声で威圧をしはじめた。

 しかし、怯むような声も聞こえなければ、足音一つ響かない。そして代わりに、数秒の間をおいて女の声が返ってきた。

「忍び込むなんてとんでもないわ。あなたが私を連れてきたんじゃないの」

 男は首を傾げる。女を家に連れ込んだ記憶などなかったのだ。それにしてもその女は、一向に顔を見せようとはしてこなかった。男の苛立ちも募ってきたところで、女の声がまた響いた。

「もう、下よ下。いいから早く綺麗にして頂戴。さっきから唾液が汚くてしょうがないわ」

 男はその声の言うままに下を向く。下には敷かれたカーペットしかない。女の姿などない。男は、ふふ、と笑った。

「まさか、お前がカーペットとでもいうのか。面白い冗談をいう女もいたものだ」

「冗談なんかじゃないわ。カーペットよ。いいから早く拭いて頂戴」

 男の言葉に食ってかかるかのようにして、女の声が響いた。男はカーペットに近づき、叩いてみた。何の変哲もないカーペットだというのは、男にもわかっていたが、そうせずにはいられなかったのだ。案の定、カーペットに違和感はなかった。

「何、そんなことしてないで、いいから拭いて頂戴」

 女の声がまた響いた。その声は、よく聞いてみるとカーペットから聞こえているようだった。

 男は不思議に思いながらも、とりあえずとよだれの垂れた個所を拭いてみせた。すると、女の声は甘く、上機嫌になった。

「すっきりしたわ。でもまだ駄目。昨日のこぼれかすがいっぱいあって、汚らしいの」

 周りの様子をよく見ると、昨日食べていたつまみのこぼれかすが散乱していた。男はカーペットクリーナーでそれらを拭き取り、綺麗にした。

 するとまたしても上機嫌。さらに女の声が高くなる。

「だいぶマシになったわ。だいぶすっきりした。でもね……」

 女の声は後に続いて、あれやこれやと汚れの指摘を始めた。途中うんざりしてほっぽり投げようとすると、女の声が甲高く響き渡り、カーペットがぐしゃぐしゃと動き出し、男は仕方がなくその要望に従うしかなかった。


 そんなことを何回か繰り返し、やっと女の声が静まった。するとカーペットは見事なまでに明るさを取り戻し、新品のような輝きを放っていた。

「おお、ここまで変わるものなのか。いやはや、綺麗とはいいものだな。汚いカーペットになど、あとからしてはいけんように思えてくる」

 男は、綺麗だ、と何度も声を出して言った。こうなっては、昨日のテレビを嘲笑っていた自分の姿がひどく滑稽に思えてきて、男は自分の考えを否定しつつあった。

 そんな調子で男がカーペットの景色に見とれていると今度は、かたん、と音がしだした。

「おい、何だこれは」

 図太い青年の声、男は辺りを見渡す。だが当然、周りに人の気配はしなかった。

 おい、と青年の声が勇ましく響いた。

「自分の後始末くらい、自分でしろってもんだ。全く。食べこぼし、酒の飛び散り、手垢に油がついて、きたねえったらありゃしない」

 青年の声は一貫して怒っていた。その声の先を見つめ、男はやっと理解をした。机だ。今度は机が声をあげ始めたのだ。

男はその迫力に気圧されながら、そそくさと拭き掃除を始める。そこだあそこだと、青年の声が飛び交う。それもかなり怒りのきいたものだ。男は少しびくつきながら辺りを拭きつくした。

「ふう、やっと綺麗になりやがったな、ったく」

 青年の声が、若干穏やかになったところで、彼の声はぱたりと止んだ。机を見てみると、またしてもぴかぴかになっていて、以前とは比べ物にならなかった。

 男は感慨に浸りながらも、首を傾げる。

「これは一体どうなんだ。綺麗になるのは心地良いが、気分は全く晴れない。むしろ気苦労だけが残る。先程はあんなに素晴らしい心地だったのに」

 男はカーペットをなでながらそう言った。しかし、綺麗になったカーペットからは何も返事は返ってこなかった。

「もういい、掃除ばかりで飯すらありつけていない。とにかく腹ごしらえだ」

 男は誰に言うわけでもなくそう呟いた。そしてキッチンに近づくと、まもなくがたがたと音が響いてきた。

「何だ、今度は何なんだ一体……」

 男が叫ぶと、音はぱたりと止んだ。

 男がほっと胸を撫でおろすと、直後に子供の泣き声が響き渡った。

「油はね、焦げ付き、いやだいやだ」

「水垢きもちわるい、きもちわるいよ」

「埃がつまってる、くるしいくるしい」

 どこからともなく、声が響いてくる。どれもこれも男の子の泣き声で。更に食器棚や調理器具の収納場所からも騒音が響いてきた。がたがたという音に、男は思わず耳をふさぐ。

「青年のご機嫌取りの次は、子供たちのおもりか。勘弁してくれ」

 男は子供たちの声に混ざって泣きべそをかく。

 男は独り身だ。女の誘惑声には惹かれても、決して子供の泣き声には親近感を抱けなかった。

 男はどこからともなく響く泣き声にあたふたしながら、泣きべそかきのまま彼らのおもりを始めていった……。

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