鏡の中
会社での仕事が終わって女が自宅に帰ったのは、終電間際の深夜0時だった。
扉を開けて鍵を玄関の受け皿に置く。ただいまの言葉に返事は返ってこない。真っ暗な空間だけが彼女を出迎える。
電気をつけ、おぼつかない足取りでリビングに向かった。狭いアパートのために見事にテーブルとベッド、そして姿見サイズの鏡で占領されていた。
ベッドに思いっきり飛び込み、スーツ姿のままに大きなため息を女は吐いた。
「明日か……」
女のため息の原因は、昼休憩の同僚との会話にあった。
女の同僚が珍しく声をかけてきたかと思うと、彼女に急に一人来れなくなった合コンの穴埋めに来てくれないか、という誘いだった。
こんな時だけ声をかけてきて、と女は思った。けれども、女はその誘いを快く引き受けた。同僚は陰口がひどく、これを機に自分が目をつけられるのを恐れたのだ。
「合コンなんて、本当は行きたくないんだけど……」
女はそのままゆっくりと鏡の方に歩いて行った。シンプルなそれには自分の体が丸々映っていた。
「あの子かわいいし、私なんか目立たずに終わりよ」
女はそっとため息を吐く。彼女の同僚はかなり容姿が整っており、会社でも評判が良かった。それに対して女は、真逆の低評価。彼女はもっぱらブサイクと笑われていた。
「ああ、せめて私がかわいかったらな」
そう言って、女はじっくりと鏡の中を見る。
鏡に映る女は彼女の思い描く姿とは異なっているように思えた。
「どうせ、会社の子と合コンに行ったって、同僚の子なんかには敵いっこないわ。会社で一番かわいいのはきっとあの子だもの」
女は鏡の前でそう言うと、そのままベットに向かおうとした。
その時、ことん、と小さな音がした。
音の方を見てみると、どうやら鏡の辺りらしい。しかし物が落ちたといった様子ではなかった。
『そんなことないわ』
突然と、部屋に声が響いた。女性の声だった。しかも聞き覚えのある、いやそれ以上の声だった。まさに、自分自身の声そのものだったのだ。
「まさか……」
女は鏡の方をよく見てみた。すると、明らかに自分の立ち位置とは異なる映り方をしていたのだ。
女は姿見の前に再度戻り、凝視した。すると鏡の中の女は姿は同じでも、自分の驚いた表情とは対照的に微笑していた。
「どういうこと……」
『どういうことも何も、あなたは私で、私はあなたよ』
鏡の中の女はそう言って笑った。
「でも何で、あなたは私と別の動きをしているの。私なのに」
『それは、私はあなたでも、鏡の世界のあなただもの』
鏡の中の女はそう言った。女はにわかに信じられない様子だった。女とは違い、鏡の中の女には眩しさや輝かしさがあったのだ。姿がそっくりでも、別人のように見えていた。
『そんなことより、さっきの言葉撤回してよ』
「え、さっきのって」
『一番かわいいのが同僚の子ってのよ』
鏡の中で女は怒りながら言った。
『冗談じゃないわ。あの子が私よりもかわいいなんて冗談じゃない。裏ではあの子とんだブサイクだって男どもに言われているじゃない』
「そんなはずないわ」
『私の言うことが信じられないの』
女は、にわかに信じがたかった。しかし、自分と同じ姿の人間の言葉を、どうにも疑ってかかれなかった。
『この世の中で一番かわいいのは私よ。あんなブサイクがかわいい訳なんかないわ』
「本当に」
『当り前じゃない。合コンだって私は毎回モテまくってるんだから』
鏡の中の女の言葉に、段々と女は勇気づけられていった。自分に自信を持てるようになっていったのだ。
「じゃあ、鏡の中のあなた。私はかわいい?」
『当り前じゃない。世界一かわいいわ』
鏡の女はそう言って、笑顔を浮かべた。女はその言葉に元気が湧いて、明るい気分でベッドへと向かっていき、しきりにパジャマに着替え始めた。
鏡の中の女はその姿を不思議そうに眺めた。
『おかしな子ね。何で出勤間近の時間にパジャマに着替え始めるのかしら』
鏡の中の女はそう呟いて、女と真逆の一日を始めるために鏡の中の部屋を出ていった。
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