第2話「天皇論」

 薄暗いイベントホールで声と声が飛び交っている。

 ある男が喋る。すぐさま別の男が茶々を入れる。それをなだめようとする女の声に被せるように、別の女が金切り声を出して口を封じにかかる。言葉は踊り、滑り、繰り返し、熱気のボルテージが高まっていく。壇上の討論に聴衆たちは必死に耳を傾ける。声と声と声と声――声に籠もる熱は飽和し、相手の人格を否定するような罵声に変わりつつある。すでに討論という形式を保てるぎりぎりのところなのは明らかだ。これ以上は掴み合いのケンカになりかねない。聴衆がそう感じたとき、絶妙のタイミングで議論は断ち切られた。


「ちょっと待って。いいか、この国を戦争に駆り立てたのは誰だ! それは軍部。軍部の暴走が勝ち目のない戦争に日本を連れて行ったんです。まずね、天皇・裕仁ひろひとさまは東条英機とうじょうひできを首相に任命するときに申し渡したんだよ。アメリカと話し合いなさい、こう申し渡した! 国のトップとトップでそういう合意が取れていたんだ」

 鶴の一声を放ったのは――この討論の司会を務める田原総一朗だった。

「しかし田原さん、それは」

「いまは僕が話してるんです。いいですか、合意が取れていたんだ! 天皇への尊敬の念が人一倍強い東条は、このとき天皇のお言葉を忠実に実行したんだけど、そこで何が起こったか。ここで文句を言ったのは国民なんです!」

 田原は止まらない。

「卑怯者、いくじなし、お前は戦争をする気がないのかとそう言った。暴走していたのは軍部だけじゃない。国民がその後押しをしていた。国民が戦争を望んでいた。それを繰り返していいわけがないっ!」


 田原が強い言葉で議論を断ち切る。一瞬、しん――と静まり返る壇上。

 だが数刻を待たず、また声と声と声と声が飛び交い始めた。その勢いはまたたく間に先ほどのボルテージへと達し、討論は激論の様相をていしていく!


「天皇は平和を望まれていたんです! 開戦前にもうわかっていたことなんですが、日本の石油は1年と少ししか持たなかったんですよ。石油の輸入の80%は米国が握っていた。それがなくて戦争なんてできるわけもないし、勝てるわけも」

「俺は天皇が平和主義者であったという従来の視点には反対だな。たとえば参謀本部作戦課長であった真田譲一郎大佐の日記にはこのようなやり取りがある。『米軍ヲピシャリト叩ク事ハデキナイノカ』『一体何処デシッカリヤルノカ何処デ決戦ヲヤルノカ』――まぎれもなく天皇自身のお言葉だ! 執拗に決戦を要求する天皇に対し、参謀総長は詫びるばかり……」

「天皇が戦争責任を取られなかったのがすべての問題なのよ。東京裁判でA級戦犯として裁かれた人々の中に天皇はおられなかった。これは日本を共産圏に取り込まれるわけにはいかない、体制を崩すわけにはいかないという米国の都合じゃない。象徴としての天皇の存在が米国にとって都合が」

「天皇は! その御身おんみに罪を背負ったの! 軍の総帥として、天皇は事実上の戦争指導者にあったけど、でもそのすべての戦後の矛盾、警察予備隊、自衛隊、この国の矛盾という罪を」

「裁かれなかったのになにが罪だ! どう背負ったっていうんだ!」

「じゃあ天皇が! 首を斬られれば満足なんですか、あなたは!」


「待った! こんなことを言っていてもしょうがない! この議論にはなんの意味もない!」

 田原がふたたび議論に水を差す――いや、。より、討論の火が燃え上がるために。なんだこいつは。なんで邪魔をするんだ。この場のすべての論客の目が、聴衆の目が、田原に鋭く突き刺さる。田原は自身をまきへと変える。


「僕は欠席裁判はやらない。できることならオファーを入れるようにしている。だから今日は呼びました、特別なゲストです。皆さん、ぜひゲストに天皇論をぶつけてください。かの御方おかたの戦争責任を、直接問いかけようじゃありませんか。責任を取るべきか? 責任という自覚があるか? 私たちの戦後をどうながめられていたのか? それを本人に問いかける、その覚悟があなたたちにあるのか!」


 まさか。ありえない。人々の動揺がイベントホールに伝播でんぱしていく。田原がゲストを招き入れる。


「本日の特別ゲスト。です!」


 すっ――と、当たり前のように、カーテンの向こうから身なりの良い紳士が現れた。上品な丸眼鏡をかけた小柄なシルエットを前に、聴衆は何度も目をこすった。タチの悪い冗談か。不謹慎なモノマネ芸人か。いいや、違う。そこにいたのは天皇・裕仁ひろひとその人自身だった。壇上の論客たちも絶句している――無理もない。こんなことがありうるわけがない。


 天皇・裕仁ひろひと――昭和天皇が口を開きかけたところで、テープは停止した。

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