田原総一朗の死の年
秋野てくと
第1話「ファウンド・フッテージ」
テレビ局の試写室に二人の男が居合わせた。
「初めまして。テレビ東京・映像ディレクターの
「田原です。よろしく」
男たちはがっしりと握手を交わした。力強い握手だ、と
「『田原総一朗の遺言』の節には前任者がお世話になりました。あれから田原さんの作品はうちの局の若いものの中でちょっとしたブームになったんですよ。倉庫に眠っている60本あまりのテープたち――田原さんがテレビ東京のディレクター時代に撮影した一連のドキュメンタリーです。どれも時代を象徴する貴重な資料でした」
「ああ、それは違う。時代といってもね、あれは当時も問題になったんですよ。当時のテレビ東京は開局したばかりの、東京12チャンネルといって、言ってみれば主流からは外れた番外地。テレビ番外地です。そんな中でも僕は好き放題にやらせてもらった。数字(視聴率)は取れてたし、そのうえで僕は同期の中でも出世とは無縁の立場にいた! だからこそ許された。許された、というのも変な話です。結局は会社を辞めるか! と言われて、ええ、それなら辞めてやりますよという話になったわけだから」
「『田原総一朗の遺言』というのも刺激的なタイトルでしたね」
「僕は人生は80年だと思ってたんだ。この年になるまで生きてるなんて思ってもみなかった」
「そうだ! 田原さん、喜寿おめでとうございます」
「喜寿じゃない。米寿、88歳。喜寿は77歳だろ」
「あっ、失礼しました……」
「あの番組をやったときには、もう何年もしたら死ぬんだと思ったら、遺言でも遺さんとやってられないと思った。それがこうして生きてる。こうなったら番組も本も死ぬまでは書いてやるぞ、やってやるぞと思った。水道橋(博士)には、未だに会うたびにいつ死ぬんですか、遺言書いたでしょ、なんて言われるけど」
「水道橋博士は『田原総一朗の遺言』の司会をされていましたからね(笑)」
「それでですね。今日、わざわざ田原さんにご足労いただいたのは、実はこれまで見つからなかった田原ドキュメンタリーのテープが倉庫で発見されたからなんですよ」
「そういう話だったな。でもわざわざ僕が観なきゃいけないものかね」
「内容が内容なんです。正直なところ、こんなものが実在したと信じられないという思いが強い。そこで田原さん自身に確認していただこうと」
2016年――テレビ東京・BSジャパンは、1985年より30年間のあいだ拠点としていた港区・虎ノ門から、港区・六本木へと本社を移転した。これから
「田原総一朗・1975年作品。テーマは――『天皇論』です」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます