第4話 名瀬 優奈
祖父の大きな手が好きだった。
人生が刻んだ皺で覆われた、筋肉質のかっこいい手が。
──
現代っ子の優奈は持ち込んだゲームで遊んでいたが、一人だとすぐに飽きが来た。
「おじいちゃんは、なにしてるの?」
「棋譜を並べているよ」
「きふ? これって、しょうぎ?」
「そうだよ。プロの対戦記録をな、並べて勉強してるんだ」
「おじいちゃんは、べんきょうがすきなんだね」
将棋の話をされると、祖父は微笑んでみせる。
遊び相手が欲しかったけれど、祖母は物心付いた頃にはすでに他界してしまっていた。
「優奈も覚えてみるか?」
「しょうぎ、おもしろい?」
「面白いぞ。きっと好きになる」
始まりは、ただ構って欲しかっただけかもしれない。
それでも優奈は、おじいちゃんと遊べるからと将棋を勉強し始めた。
結局、その夏休みでは十枚落ちでもボコボコにされて、悔しい思いをすることになったわけだが。
優奈は毎年の夏休みに縁側で将棋を指す。
一つ年を取る度に、祖父の駒の数が増えていった。
八枚落ちから、六枚落ちに。
たった五年で飛車角落ちにたどり着いて、誉められる度に胸を張る。
「父ちゃんと母ちゃんは、好きか?」
「大好きだよ! この間はね、一緒にデパートに行ってね」
「それで?」
「僕、男の子と間違われて。これとかお似合いですよってカッコいい服を見せてくれたの」
「言われて、どうした?」
「ううん、買ったよ。優奈が着たいならそれでいいって言ってくれたの。カッコイイんだよ!」
「良かったなぁ」
「うん!」
六年目。
祖父との対局は病室に移っていた。
田舎ではなく、名瀬家の近くの病院に入院した祖父の元へ足繁く通う。
放課後になるとジャージ姿のままで押し掛けて、一局指して、決着がついたら家に帰り、最新のVRゲームにログインする。
そんな日々を送っていた。それで満足することにした。
「お爺ちゃん、僕ね」
「おう」
「学校で、その……」
「友達、居ないのか」
「……」
「ずっとずっと、俺のところに来るもんな」
「お爺ちゃんと、遊んでたいよ。楽しいよ」
油断を突き合う頭脳の勝負、本気の合戦。
時に力強く、時に意地悪な祖父の打ち筋に飽きは来なかった。
「俺はもう、お迎えがすぐだ」
「いやだよ」
「友達を作れ」
「やだ……」
「優奈」
友達なんていない、いらない。
あんな頭の悪いやつら。
見てくれを気にするやつら。
クラスが同じなだけのやつら。
見て見ぬ振りをするだけのやつら。
「あんなやつら……」
飛車が、取られた。
優奈は前に進める気がしなかった。
「転校するか?」
「やだ……おとうさんと、おかあさんに、心配……かけたく、ない」
「ずっとそのままの方が、心配だぞ」
「だって……僕の、僕のせいで……!」
優奈は好きな格好でいい。
そのままの自分で友達を作りなさい。
そう言ってくれたお父さんとお母さんに、『自分たちのせいで』なんて、思わせたくない。
結局は全部、全部自分が女らしくしないせいなのだから。
「優奈は優しいな。臆病者で、引っ込み思案だ。あいつらもこんな娘を持って幸せ者だ」
祖父は笑顔だった。
怒られたこともなかったし、悲しんだ顔も見たことはない。
太陽のような人。
「そういう臆病者はな、将棋が強いんだ」
「……そうなの?」
「臆病っていうのは、慎重ってことだ。引っ込み思案っていうのは、常に最悪を考えているってことだ。将軍っていうのはな、いっつも最悪から逆転できる方法を考える」
「でも、勝てない……勝てないよ」
「勝てるさ」
そんな、無根拠にしか聞こえない断言。
なのに不思議と、祖父の言葉だと体の芯に響いてくる。
「お前なら最悪からも逆転できる。意地悪く、狡賢く、よく考えて立ち回れ」
「……そんな子、好かれないよ」
「けど、優奈は爺ちゃんが好きだろう?」
そんな事を言われたら、もう否定なんてできるわけがない。
「やりたいようにやれ。生きたいように生きてくれ。逃げたいなら逃げて良いし、甘えたいなら甘えてもいいんだ。そんで、心配をかけたくないのなら、かけずに解決できる方法を見つけるしかない」
しわくちゃの手が拳を握って、突き出された。
もう筋力はなくなり、そのうち箸も持てなくなる。
抜け殻になりかけの蛍火のような手。
「お前ならできるよ。俺の孫だもんな」
結局、祖父には勝ち逃げされてしまった。
唯一の理解者が消えてしまったような気分になって、学校に行く気力も尽きた。
このままじゃだめだ、なんて。
頭でいくら分かっていても、行動できない臆病者だ。
それでも、お爺ちゃんが信じてくれたから。
解決策を探すため、情報を集めるようになった。
両親に心配させずに、学校という偏見の巣窟から合法的にさよならする抜け道を。
たかだか十六の子供が独り立ちするにはハードルが多すぎた。
そして、
学生にとっての百万円は想像すらできない大金だ。
そのお金で現状をなんとかできるか考えて、結局不足していると悟る。
その繰り返し。
正直、一千万円に増えたからと言ってどうにかなるとも思えなかった。
……副賞の品目を見るまでは。
「見つけた……!」
子供が合理的に学校から居なくなる方法。
両親を安心させる逃げ方。
それを一人で掴むチャンスはこれ以外には無い。
告知を見たのを切っ掛けに、片っ端からVRゲームを遊び尽くした。
どれも直接戦闘力ではなく、戦略や戦術で優位に立てるものを探し、実践する。
時には有名プレイヤーの軌跡を追って、自分の中へと吸収していった。
これは将棋だ。
これは棋譜だ。
これから行われるのは対局だ。
名瀬 優奈には他者への情はなく、常に自分のことで手一杯だ。
王道を目指す精神は擦り切れ、残ったのはただ勝利への渇望だけ。
時に底意地悪く、時に大胆に。
すべては、両親に心配をかけず、自分一人で生きるために。
そして、その日はやってくる。
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