〔2〕 拝啓グッピー殿

作業を始めて4時間ほど経っただろうか。コーヒーを飲もうと、ふと台所へ立つ。床を見ると、放置されたペーパータオルと床に溢れた数十錠の眠剤が広がっていた。


また吐き気が襲ってきて床に溢すところだったが、何とか放置していたバケツに戻すだけで済んだ。とは言っても夜中に吐いたっきり何も口にしていない。


刺激臭のする多量の胃液が口を汚した。胃液だけなので処理は楽だな、と思いながらペーパータオルで口を拭った。次亜塩素酸水がもう無い。

水ですすいでトイレに流そう。胃酸で焼けたようにヒリヒリと痛む喉を押さえながら、目の前の胃液に目をくべた。


こういう場合は病院の何科に行けば良いのだろう。


生憎医療にも医学にも通じていない上、医療ドラマは親の教育方針上高校生まで見させてもらえなかった。その後大人になってからも興味が湧くことはなく、「名作」と謳われた某医療ドラマの第3シーズンを少し見た程度だ。


仮に精神科だったとしても、何と言えば良いのか。面倒な友人がいる。それだけだ。

言葉に表してしまえば、大した影響力は発揮しない。自分で客観的に見てみても、大したストレスがあるようには思えなかった。


それどころか、被害妄想の強い、幾分か頭のネジが外れた、おかしな女に見えた。


何年も拭いていない埃の被った姿見に自分の膝までが映る。

鏡面は汚れと埃で薄くくぐもって、感情を殺した醜い顔を上手に隠してくれた。薄汚れたグレーのターバンのヨレが、少し不釣り合いだった。


鏡の奥で泣く己を一瞥した後、小さく侮蔑の捨て台詞を放り出して机の方に向き直る。まだ床に錠剤がこぼれたままだ。


部屋の隅に転がっていた瓶の表面を軽く手で払い、少し蓋についていた埃を吹き飛ばす。


足の裏をべったりと冷たいフローリングに押し付け、しゃがみ込んで一粒一粒拾い上げる。うっすらと見える錠剤の刻印が、やたらと醜く見えた。





〈とりあえず完成はしたよ、これで良いかい〉


何とか午前中には作業を終わらせることができた。

パソコンとペンタブで書き上げた全体像をスマートフォンに移し、PDFに起こす。


メールの画面を開き、添付した後確認の一文を貼りつけ送信ボタンを中指で押した。自分の今までの行動をひっくるめて全部押し込めるように、ゆっくりと、指の腹で強く押した。


指から生み出される圧力に画面は驚き、顔色をオパールのような波に変えた。1分も経たないうちに返信が来る。


〈なんか見づらい、こっちで直すから良いけど じゃあね〉


「ありがとう」の一言ぐらいあっても良いのでは無いかとふと思ったが、あの人にそんな社交辞令を求めるだけ無駄だと思い直した。

空は能天気に日差しを降り注いでいたものの、家の中はぼんやりと薄暗いまま靄に包まれていた。今日の分の自分の仕事を始める気分にはなれなかったが、かといって昼食を作る気力もなかった。


数年前に買ってそれきりのゲーミングチェアに腰を下ろし、置いてあるモニターにユーチューブを映す。


暫くおすすめ欄をスクロールしていたがこれと言って良いものも見つからず、深呼吸をひとつ置いた後そっと画面を閉じた。

何もしたくない、と口の中で小さく呟くと、水槽のガラスに映った寝転ぶ己の姿が、それはそれは気色悪く、気持ち悪く見えて不快だった。


悠々と泳ぐ熱帯魚の群れと対比され、余計に醜く見えて仕方がなかった。


目の前の魚が妬ましく、羨ましく、疎ましく、何よりも腹が立った。

「クソ野郎」と罵倒しても、「お前らなんか全員消えて無くなればいい」と言葉を投げつけても、平然と泳ぎ回る彼らにまた腹が立った。


こちらの言葉なんか何一つわかっていない透き通った瞳に、余計に腹が立った。言っても意味がないとわかっていても、自分の今を整理するために口を開く。


「お前らには〔被害者〕も〔加害者〕も、そんなくだらない概念なんか存在してないんだよな、被害妄想って言葉も、ストレスっていう概念も、たかが人間が作り出した、しょうもない代名詞でしか無いんだよな、お前らにとっては自分が全てで、人間にとっては世界と他人と自分が全てなんだもんな、分かってる、分かってる、分かってる、全部わかってる、理解してる、でもお前らはどうせ許すも許さないもそんな感情なんて無いんだろ、分かってるよ、どうせ僕のことなんてでっかい〈自動餌出し機〉ぐらいにしか思ってないんだろ、知ってるよ、分かってるよ、だったら頼むよ、一枚でいいから、一個でいいから、その鱗分けてよ、僕にもその世界見させてよ、一枚でいいから分けてよ……」


何が言いたいのかまるで分からない、映画みたいに気取った文章を流れるままに吐き出す。

単調に水を入れ替えるだけの濾過フィルターの音が、うざったいほど耳にへばりついた。


だんだんおかしくなってきた。水槽の手前のカウンターにもたれかかるとはっきり水槽のガラスに己の顔が映った。笑っていた。この上ない満面の笑みで、笑っていた。


平たく言ってしまえば、美しかった。綺麗だと思った。右の口角を意図的に上げてみる。目の前の自分も一緒に笑った。〔ははは〕、と声を上げてみる。

目の前の顔も口を上げ、楽しそうに声を上げている。そうやって眺めていればいるほど虚しくなって、段々腹が立ってきて、無性に何かを殴りたくなって、水槽の下部を力任せに殴りつけてしまう。


ガタン、と水槽が大きく揺れ、水が零れた。床に零れた水には青い海藻が混じり、フローリングの隙間に入り込んだ。自分が蒔いた種だとはいえど、少し腹立たしかった。


雑巾で床を拭いて、水槽の前に立つ。震える語尾を押さえつけて、目の前の小さな彼らに「ごめんね」と小さく謝る。


一瞬とは言えど生命の危機に陥ったというのに、相も変わらず平然と泳いでいる彼らには、もはや何を言っても無駄なような気がした。


鏡に映ったそんな自分を見ていると、再び乾いた笑いが込み上げて来た。フローリングの隅に倒れた発泡酒の空き缶が、少しくたびれているように見えた。

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司法制度改革〔あくまでこれはカウンセリングなので、悪しからず〕 須吼 @ShouldScream-0000

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