相談者A 大橋和泉

〔1〕 山荷葉

熱帯魚に、なりたかった。


狭い水槽の中で淋しくも楽しそうに泳ぎ回る魚達が、ただただ、羨ましかった。

部屋一つ分もない空間に仲間と押し込められても、毎日の餌争いに負けたとしても、毎日毎日毎日毎日宝石のような鱗を輝かせながら泳ぎ回る熱帯魚たちが、羨ましかった。


それが一時凌ぎにしかならない無駄なお遊びだと分かっていても、幾ら夢見たところで正夢になることはないと理解していても、心の奥底ではそれを認めたくない自分が甲高く叫んだ。何度言い包めようとしても、脊髄が全力でそれを拒否し吐き下した。


水槽の前の焦げ茶のフローリングが吐瀉物で汚れる。

乳白色に変わった酢い臭いの半固形物が、家出してきた子供のように無邪気に跳ねた。そう思うと次の瞬間には、無機質なただの物質に変貌する。己の行く末を生まれた瞬間に悟ったかのように、生を繋ぐことを瞬時に止める。


鼻腔をきつく刺激する目の前の無機物を見つめながら、再び襲ってくる吐き気に抗うことにする。

明日の昼食の材料をどこに買いに行くか考えながら、洗面所へペーパータオルと次亜塩素酸水を取りに行った。


自分の汚物を片付けている最中に、スマートフォンのバイブが机を揺らした。


仕方ないので無視しようとしたが、何度も振動を繰り返すに従って上に置いてある眠剤の瓶が少しずつ移動し、ついには床に錠剤をばら撒いた。仕事を増やした電話の向こうの相手に怒りさえ覚えたが、何とか肘を使って通話ボタンを押す。


「もしもし」

「あ、ようやく出た。何してたの、居るならさっさと出てよ」


若干苛ついている相手の口調に怒りは増した。

が、ここでムキになっても無駄なだけなので口の奥の臼歯でしっかりと潰し、咬み殺す。


「ごめん、ちょっとトラブってて」

「あ、そう。この間送ったやつの話でかけたんだけどさ、もう出来上がった?〆切来週だから早くして欲しいんだけど」


先週送り付けてきたポスターのデザインの話だな、と大体頭の中で検討を付ける。


別の大事な仕事があるからそこまで手が回せないとか何とか言って、私に助けを求めて来たわけだ。

正直言えば面倒だ。やりたくない。


第一働いている場所も職種も違うのに、私にやらせようとする意味があまり理解できなかった。


「まだ下書き段階かな。早くした方が良いよね、なるべく明日には送れるようにするよ」

「は、今下書きなの?遅すぎ、別にやりたくないんだったらやめて良いよ、やろうと思えば私1人でギリギリできるし」


こちらの感情は向こうには筒抜けなのだろうか。やりたくないならやめれば良い。それだけの事だ。

それでも途中下車はしたく無かった。


好き嫌いなんかではなく、やりたいやりたくないの話でもなく、そんな簡単な二者択一の問題では著せない、己の美学と気品とプライドの話だ。


「本当ごめん、絶対明日には送れるようにするから。えーっと、内容はこの間送ってもらったままで変更ないので良いんだよね」

「いや、朝送ったでしょ。見てないの?」


はぁ、と呆れるように溜息をひとつ。


朝から布団の中でずっとボーっとして居たから見ていない、とは言い出せず、一度電話をスピーカーにしてPCを確認してみる。確かに来ていた。午前9:36。


丁度寝ていた、というより呆然としていた時間だと思う。


「来てたわ。ごめん、朝見れてなくて」

「いや今、夜中だから。今日なんか休みだしいくらでも時間あったでしょ、メール見てないとか本当有り得ない、あんたに任せるのやめときゃよかった」


「ごめん」

「謝るのとか別に要らないから、平謝りしてる暇あったらさっさと作って」


そう一方的に吐き捨てられ、電話はブツリ、と切られた。心の中で、「だったら自分からやめさせろよ」と小さく文句を呟く。SNSを開いて愚痴を書いてみても、やっぱり投稿した後で消すしか無かった。


お悩み相談という看板を見てみても、送る気には到底なれず、検索履歴を消した人差し指が寂しそうに浮いた。


感情を表に出さないのが自分の掲げているモットーであり、ポリシーであり、決して忘れてはならない、尊厳であり美学だ。

たおやかな微笑を湛え、心の奥底では煮えたぎる湯が口を開けていても、絶望の女神が水晶の涙を溢しても、決して外界に連れ出すことはしない。


精一杯の笑顔を作り直し、感情を皆殺しにし、怒りも苛立ちも水に顔を押し込んで溺れさせる自分が、

1番美しいのだと、

1番格好が良いのだと、

いつだって悪いのは加害者の方で、

被害者ではないのだと、

そう信じて生にしがみつくしかないのだ。


そんな信念も、今日首を括らないことへの言い訳でしかないと頭の奥では理解している。


そんな向こうみずの自分に心底呆れながら椅子に座り作業を始める、午前3時27分。

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