ハンカチと鉄の味⑧

 月曜の朝のホームルームになっても、雅世は登校しなかった。

 髪を短く切った日のこともあったから、きっとまた事情があって休むのかなと考え

た。

 チャイムが鳴り、担任の先生が教室に入ってくる。出席簿を広げ、出欠をとった。

 全員の出欠を取り終えると、先生はそっと出席簿を閉じて言った。

「皆さんにお知らせがあります。小山さんが一昨日交通事故にあいました」

 先生の言葉を聞いて、僕は木槌で頭を殴られたような衝撃を覚えた。意識がどこか遠くへ飛んでいきそうだ。ざわつく教室の音が小さくなる。

 先生は続ける。

「現在、市立病院の集中治療室に入っていて、予断を許さない状況と連絡が入っています。お友達がこのような状況になってしまって、皆心苦しいと思いますが、回復を祈りましょう」

 その後、先生はいくつか連絡事項を伝え教室を出て行く。

 一限目の授業の先生が来る前、紀夫は僕の席にやってきて僕の肩をぽんぽんと二回叩いた。

「落ち込むなって……、と言っても無理だよな」

 彼はそう言った。きっと僕は物凄く酷い表情をしていたのだろう。さすがの紀夫もどう言っていいのか分からないようで、もう一度僕の肩を叩いて席に戻って行った。

 その日の授業は全く集中できなかった。ノートも書かず、僕はぼーっと黒板を見るだけしかできなかった。

 昼休みもお弁当を食べる気持ちになれず、ステンドグラスが見える吹き抜けの手すりに腕を置き、ステンドグラスを眺めるだけだった。事情を知る紀夫は、僕に声をかけることはしなかった。

 授業が終わると、僕は紀夫に声をかけた。

「ごめん、今日は部活休む」

「分かった、部長には伝えておく。辛いけど元気だせよ」

 そうして、僕は鞄を持ち教室を後にした。

 学校を出てから、僕は全速力で坂を駆けた。下校する生徒の目など気にせず、走った。自転車を置いてきてしまったことも忘れるくらいだった。


 息を整える間もとらず、僕は病棟に向かった。

 受付で集中治療室の場所を聞いて、エレベーターに乗り込んだ。エレベーターを下りて駆け出しそうになったけど、脚がガクガクして走ることができなかった。案内表示を見て集中治療室に向かうと、遠くに二人の大人の姿が目に入った。二人はベンチに座っていた。僕は二人に構わず集中治療室を覗き込んだ。

 ベッドには雅世が眠っていた。酸素マスクは外れていて、僕は峠を越えたのかなと思った。

 そんな時、後ろから女性の声がした。

「三代君?」

 振り向くと、雅世の母親だった。僕は自分でも驚くほど冷静だった。汗で体温が下がった影響なのか、それとも雅世の姿を目にすることができたためなのかは分からな

い。

「お久しぶりです」

「来てくれたのね、ありがとう」

「いえ。あの、雅世さんは?」

 彼女は黙ったままだった。

 でも、唇を振るわせている様子を見て、黙っているのではなく言葉を出せないのだと感じた。雅世の母親の様子を目にして、僕は嫌な予感がした。胃が締め付けられるように苦しくなる。空っぽの胃が身体の中から消えて、身体に穴があいたようだ。

 僕は腹部に手を当て、顔をしかめた。

「君が三代君か」

 男性の声がした。初めて会う人だったけど、僕は直感で雅世の父親だと感じた。

「君が到着する数分前、雅世は亡くなったんだ」

「……、嘘ですよね?」

 彼は首を横に振った。

「どうして、どうして」

 僕は床に膝をついてしまう。現実じゃない気がして、涙も出てこない。夢だったとしたら、こんな悪夢から早く覚めたかった。

 ベンチに座っていた彼女の母親が口を開いた。

「濃霧の中、道路に飛び出して車に挽かれたの」

「ガスがかかっていても、彼女なら気をつけて道路に飛び出すことなんてしないはずなのに、どうして」

「私だって分からないわよ。亡くなった今、訊いて何になるっていうの」

 だって、信じられないから。

 僕だって分からない。なぜ彼女の両親を問いただすのか、分からないんだ。

「分かりません」

 素直にそう言った。

 しばらく沈黙が僕ら三人を包む。ナースセンターや看護師さんが行きかう音が小さく聞こえていた。

 やがて彼女の母親が口を開いた。

「土曜の夜、もう一人の雅世が表れていたの」

 それは想像できた。ここ最近、毎週のように彼女の父親が家に訪問してると聞いた。だけど、父親が訪れている最中は部屋から出ないはずだ。なのになぜ。

 信じられない一言が耳に入る。

「娘が亡くなったのは、君のせいだ」

 僕はゆっくりと彼女の父親に目を向けた。

 ――なんて言った。

 言葉が出てこない。悪戯好きな天使が舞い降りて、僕の頭から言語を消してしまったのではないか。口が開いたまま、空気が漏れるだけだった。

 ようやく僕は言葉を発する。

「僕のせい?」

 彼女の父親は眉間に皺を寄せて言う。

「そうだ、君のせいだ。分からないのか?」

 僕は拳を握って、自分を必死に自制する。

「分かりません」

「春頃から君が娘を外に連れ出したそうじゃないか。だから、娘は家の外にでることを覚えたんだ。これまで部屋に閉じこもることしかしなかった彼女が、家を飛び出したのは、君の影響だ」

 彼は続ける。

「君がいなければ、娘は死ぬことはなかった。君が殺したも同然だ。顔を見たくないから、今すぐ帰ってくれ」

 彼の言葉が頭の奥に響き、眩暈に似たゆらぎを覚えた。

 握った拳の爪が、手の平に食い込んでいた。僕の中からたがが外れたように黒い感情の渦とともに言葉が湧き上がってきた。

「ふざけるな」

 自分でも驚くくらい、今いるフロア全体に響き渡るくらいの声量だった。

「自分を棚に上げて人のせいにするな。それが大の大人が言うことか? そもそも、あんたが雅世の前に来なければ、雅が表に出てくることなんてないんだ。娘が抱える交代人格を知っていて、なぜ家に行く。あんたが原因だと分かっていながら。娘より自分を優先するあんたは最低な親だよ。親失格以前に人間失格だ。自分を原因だと思いたくないばかりに人のせいにするなっ」

 返ってきたのは彼の拳だった。

 左の頬に激痛が走ったと同時に、僕は倒れて壁に頭をぶつけた。

 自分が自分でなくなるくらいの怒りが僕を満たしていて、痛みなど意識する間もなく、僕は立ち上がった。

 そして、彼に向かって右拳を振ろうとした時だった。

「三代君、だめー」

 後ろから誰かが僕の胴に腕を回して、雅世の父親から引き離そうとした。誰か分からないけど、構わず僕は前に進み雅世の父親に殴りかかろうとした。

 急に伊藤さんが僕と雅世の父親の間に割り込み、僕の両肩を体重をかけて押した。

「落ち着いてよ」

 伊藤さんに肩を押され、そして誰かが僕にしがみつくように腕を回されたので、さすがの僕も身動きが取れなかった。握っていた拳を開くと、腕がだらんとなった。

 僕の体が前進を止めたのを察知して、伊藤さんは雅世の両親にペコリと頭を下げた。

「三代君、行くよ」

 伊藤さんは僕の鞄を拾い歩き出す。後ろにいた誰かは腕をほどき、今度は僕の右腕を抱え僕を引っ張った。

「和田さん」

 彼女は何も言わなかったけど、ふんわりとほほ笑んだ。


 病院を出て、博物館の前のベンチで僕は座らされた。

 和田さんは少し屈んで、ブレザーのポケットから出したハンカチで僕の唇を拭く。

「押さえてて」

 彼女が持つハンカチを押さえると、彼女は鞄からサビオを取り出して、僕の頬に貼った。さっきからなんだか鉄の味がすると思ったら、口の中から少し血が出ていた。舌で左頬の裏を舐めると、濃い鉄の味が舌に広がった。

 うがいをしたかったけど、僕は言う。

「二人とも小山さんに会いにきたのに、僕のせいでごめん」

 きっと二人は美術部の部活を休んで、授業が終わってから真っ直ぐ病院に向かったのだろう。走ってきた僕が先について、彼女の両親ともめていたせいで、雅世の顔を見ることができなかった。

 伊藤さんは言う。

「いいよ、また後で行って来るから」

「そっか」

 そよ風が僕らの間を吹きぬけて行った。風にいたずらされた髪を押さえて、和田さんは言う。

「一階の病棟に入ったとたんに、怒鳴り声が聞こえて驚いた。誰かと思って沙希ちゃんと向かったら、三代君が倒れててびっくりした。起き上がって雅ちゃんのお父さんを殴ろうとしてるんだもん、こっちは必死だったよ。でも、三代君でもあんな声を出すことあるんだね」

 我を失った姿を見せてしまったことと、和田さんにしがみつかれたことを思い出して頬が熱くなる。

 ふうと息をしてから僕は言う。

「初めてだよ、あんなに声を荒げたのは」

「ねえ、いったい何があったの?」

 上目遣いで彼女を見る。凛とした声の割りに、柔らかな表情で僕を見ていた。

 僕は思い切って訊く。

「小山さんが抱えていた病気のこと、二人は知ってる?」

 二人はそろって首を横に振る。

「このことは二人の胸にしまっておいてほしい」

 二人はコクンと頷く。

「少し長くなるから、二人とも座って」

 雅世には悪いけど、二人には話しておくべきだと思った。

 だから僕は、頬の痛みに耐えながら二人に対し、彼女の交代人格について静かに語り出した。

 話し終えると、伊藤さんが顔を両手で押さえて泣き出した。

 伊藤さんにつられる様に、和田さんも涙を流した。静かに涙を流していたけど、彼女の内側から湧き上がる悲しみは痛いほど感じられた。

 僕はといえば、不思議と涙が出なかった。でも、足に力が入らないくらい、僕の体は悲しみに染まっていた。

 そよ風が吹くたびに、頬がズキンと痛んだ。

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