ハンカチと鉄の味⑤

 事故から二日後、僕は雅世との約束があったので、彼女の自宅近くの公園に向かっ

た。

 昨日は左腕が痛んだけど、いつも通り部活の練習に参加した。たいした怪我ではなかったので、部長には事故のことは報告しなかった。動かさなければ左腕は痛まないけど、動かすとたまにズキンと痛みが走る程度だったからプレーにも大きな影響はなかった。

 今日は曇り空だった。ただ、彼女とは代数幾何の勉強をする予定だったから、天気なんてどうでもよかった。

 一○時に待ち合わせしていたけど、彼女は待ち合わせ場所に姿を見せなかった。昨日も彼女の父親が来たのかと思うと、ため息をつきたくなった。

 僕は黙って彼女の自宅に向かった。もう押し慣れたインターホンを指で押す。彼女は出てくるかなと思いながら一五秒ほど待つと、玄関のドアが五センチほど開く。警戒する猫のようにドアの隙間から彼女が僕を見る。

「また、賢治か」

「僕しか来ないでしょ」

「そんなことはないよ」

「じゃあ、僕以外の人だったらどうしたのさ?」

「知らない」

 そっぽを向く彼女を見て、僕はほほ笑む。なんだか、以前より感情表現ができてきたような気がして嬉しかった。

「また丘に行くの?」

 彼女は尋ねる。だけど僕は首を横に振った。

「今日は天気があまりよくないから外出は控えたほうがいい」

 天気予報では、今日の午後に雨が降る可能性があった。彼女の自室にはテレビはないし、リビングでテレビを見ることはしないだろう。だから、雅は今日の天気予報を知らないと睨んでいた。

「あがって」

「ありがとう」

 僕は彼女のあとについて階段を上る。また雅が表に出てきたことを考えるだけで、胸に黒い感情が湧き水のように溢れてきた。新学期が始まったんだ、どうして彼女の父親は来ることを止めない。雅が表に出てくると、雅世が勉強する時間がなくなるじゃないか。そんなことも考えられないのか。

 階段を上り終えて、僕は溜まった怒りを吐き出すように息をついた。

 彼女は部屋に入ったとたんに口を開く。

「ベッドに座って」

 僕は何も言わず、言われたようにベッドに腰掛けた。

「今日も絵を描くの?」

「そうだよ。それ以外に私がしたいことはないから」

「どうすればいい?」

「脱いで」

 僕は黙って着ていたニットとアンダーシャツを脱いだ。

「ポーズは?」

 僕が訊いても彼女は黙っていた。

「腕」

「ああ、この包帯?」

「そう」

「練習で転んで、腕をぶつけたんだ」

 交通事故のことは口にできなかった。

「痛そう」

 雅に心配されるなんて初めてだった。外界から独りの世界に閉じこもり、ただ絵を描いて過ごしてきた彼女が、彼女以外の自分に心を向ける。その変化につい嬉しくな

る。

「動かなければ痛くないよ。だから大丈夫」

「じゃあ、横になって」

「ただ、横になるだけでいいの?」

「うん」

 きっと腕を怪我している僕に配慮してくれたのかもしれないし、単に今まで椅子に座ったポーズばかり描いたから、違うポーズを描きたかったのかもしれない。

 僕は横向きで寝る形で雅世のベッドに横たわった。雅はスケッチブックを開き、鉛筆を走らせる。いつもと同じく、静かな部屋に紙と鉛筆の擦れる音だけが部屋に控えめに響く。

 枕からは良い香りがした。僕の枕とは違う香りで、雅世の髪の香りに近しい香りだった。静かな部屋で横たわっている上に、よい香りに包まれるから、午前中だというのに僕は瞼が徐々に重たくなるのを感じた。

 鉛筆が擦れる音が小さく、小さくなった。


 体にかかる圧力で目を開いた。

 ――雅世?

 彼女が仰向けになった僕の上に跨っていた。まだまどろみの中にいるようで、頭が重い。そして、彼女が服を脱ぐ光景が目に入る。

 ――ああ、きっとこれは夢だ。

 だから、頭がぼんやりするんだ。だけど、夢にしてはリアルだった。僕に跨る彼女の重み、見たこともない彼女の裸の姿。

 彼女の顔が僕の顔に近づいてきた。そして、彼女は僕に唇を重ねた。僕は彼女の背中に腕を回して抱きしめた。力を込めた時、左腕がズキンと痛んだ。

 僕は彼女の肩を押して離す。

「みやびっ」

 跨った彼女は右手で髪を耳にかける。その仕草で幼馴染の彼女の姿を思い出す。

 もう一度、彼女の顔が僕に向かって下りてくる。

 僕は彼女の肩を押す。

「どうしたの?」

 僕はゆっくりとした口調で言う。でも、胸を内側から打つ心臓の動きは速かった。

「急に賢治とこうしたくなった」

「そうだとしても」

「私だって年頃の女の子だよ、こういうことに興味がある」

「でも、よくないよ」

「どうして?」

 僕は黙る。

 返す言葉がないわけじゃなかった。もしこうなるなら雅世とこうなりたかった。心は別でも体は一つだ。だから、雅世が知らないうちに体の関係までになることはいけないのではと感じた。

 僕は上半身を起こし、ベッドから抜け出した。畳んで置いたアンダーシャツとニットに腕を通し、僕は逃げるように部屋を出た。

 そっとドアを閉める。

 階段を下りて靴を履き、玄関のドアを開けた。彼女が追いかけてくる気配はなかった。だから、僕は玄関のドアをそっと閉じた。

 家の門を出ると、少し湿り気を含んだ空気を大きく吸い込んだ。

 二階の窓を見上げたけど、彼女の姿は見えなかった。

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