ハンカチと鉄の味④

 羽球部にも新入部員が四人入った。男子生徒が三人と、女子生徒が一人だった。

 三年生が抜けてから少し活気が失われていたように感じた部活も、これから活気付くだろうと思っていた。

 五月のゴールデンウィークの後、岡野が部活を辞めた。明確に目指したい大学が決まり、残りの学校生活を受験勉強に充てるのが理由だと言った。僕は彼が部を辞めることに寂しさを感じたけど、岡野が進みたい道を邁進するためだから、彼の決断を応援することにした。

 一年生も部の雰囲気に慣れ、練習も一段とハードになった五月最後の金曜日だった。朝から雨が降っていたから、自転車ではなくバスで通学した日だった。紀夫や浜田と校門で別れて帰宅する。いつもでれば、江稜高校の前のバス停でバスを待つけど、今日は買いたい本があったから、アイスアリーナを越えたところにある蔦屋書店まで歩いて向かっていた。

 歩きながら、雅世のことを考える。

 授業が終わった後に日曜日は一緒に勉強しようと約束を交わした。今度こそ雅世と休日を過ごせますようにと祈りに似た考えを頭の中で繰り返しながら歩く。

 アイスアリーナのT字路の横断歩道で立ち止まる。傘にぶつかる雨音が少し大きくなってきたように感じた。

 信号が青になって横断歩道を渡る。あと三メートルで渡りきるくらいのタイミングだった。右折してきた車が左に見え、車のライトが目に入った。

 ――あっ、車。

 そう思った時だった。

 急に星空が見えたような気がした。横断歩道を歩いていたのに、なぜ空が見える?

 時間が粘度を増したようにゆっくりと流れ、しばらく星空が見えていた。

 顔に当たる冷たい雨で、僕は地面に倒れていることを認識した。先ほど見えた星は星ではなく雨粒だった。

 ――なぜ、空を見ているのだろう。

 僕は横断歩道を渡っていたはず……。

 頭が混乱して、状況の全てを把握できない。ただ、顔に当たる雨が冷たいということだけは分かった。

 濡れた路面に手をつき、上半身を持ち上げた。周りから大人たちが僕に寄ってきて

「大丈夫か?」と声をかけてくれた。僕のすぐ横で停車している車を見て、ようやく僕は車にはねられたことを理解した。僕をはねた車の運転手は僕を心配してくれていたけど、雨は僕を濡らし続けけていた。


 病院の処置室から出ると、母親がいた。

 レントゲンなどの検査を終えた僕に、医者は打撲だけだったよと言った。左腕が少し痛む程度で、幸いなことに骨折はしなかった。ただ、リュックの底に入れていた弁当箱は僕の身代わりになったように壊れていたことを帰宅後に知った。

 病院の費用は車を運転していた男性が支払った。今後状態が悪くなった時もフォローすると言って、母親に名詞を渡していた。

 その人はひたすら謝っていたけど、雨で暗い日に黒い学生服の僕が横断歩道を渡っているところを視認できなかったのが事故の原因らしい。また、車と僕がぶつかった時、跳ね飛ばされたのではなくボンネットに乗り上げる形になり、そこから地面に落ちたらしい。だから軽症で済んだと聞いた。跳ね飛ばされていたら、きっと大怪我につながっただろう。

 病院を出た僕は、母が運転してきた車に乗って帰宅する。本を買いに書店に寄ることは頭から吹き飛んでいた。

 左腕を押さえながら、助手席の窓から流れる景色を眺め口を閉じていた。

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