ハンカチと鉄の味③

 新学期が始まって最初の日曜日、僕は雅世と遊びに行く約束をしていた。

 万が一のことを考えて、彼女の自宅近くの公園を待ち合わせ場所にした。新学期が始まったから、彼女の父親は顔を出さなくなっただろうと淡い期待を抱いていた。

 だけど、そんな脆い期待はすぐに打ち砕かれた。僕は空を見上げることになる。

 約束の時間を三○分過ぎても、雅世は現れなかった。

 慣れのせいか、僕はすぐに気持ちを切り替えて彼女の家に向かうことができた。雪が解けたら、彼女の家に足を運ぶことはなくなるだろうと思っていたけど、僕が思っている以上にこの世は不条理なのかもしれない。

 指先に冷たさを感じるインターホンのボタンを押した。しばらく待つと、五センチほど開いたドアの隙間から雅の顔を覗かせる。

「また来たの?」

「そうだよ」

「帰って。今日は絵を描きたい気分じゃない」

「そう」

 僕は言うべきか迷ったけど、北国にも吹く春の温かさを感じる風に背中を押されるように、以前から抱いていた考えを口にした。

「じゃあさ、外に行ってみない? 雅に見せたい景色があるんだ」

「やだ」

 以前、雅は一度も家から出たことがないと言っていた。理由は、部屋の外に出ると父親がいたからだそうだ。今日みたいに父親が彼女の母親と出かけて、家の中にいない時だけ部屋から出て家の中を歩き回るらしい。

 どうしたら彼女が家の外に出る気持ちになってくれるだろうと何度も考えた。いくらシミュレーションしても、僕の頭の中では彼女のイエスは引き出せていない。それでも今言わないと後悔するだろうと前から感じていた。

 だけど、彼女の言葉が僕の中で引っかかっていた。

「絵を描きたい気分じゃない、というのは僕を描くのに飽きたから?」

 雅が表に出た日は、必ず絵を描いて過ごす。絵を描かないで過ごしたことは一度もないと雅世が言っていた。きっと今日も絵を描きたいはずだし、僕は絵を描くことが彼女の荒んだ気持ちを和らげる唯一の手段だと考えていた。だから、絵を描かずに過ごすなんて痛みを忘れられないはずなんだ。

 彼女は怖い目を向けながら、僕に言い放つ。

「どうでもいいでしょ」

 でも僕は行き下がらない。僕のためでもない、雅世のためでもない。目の前にいる雅のために僕ができることをしたかった。

「ねえ、雅は海を見たことある?」

「ない」

「じゃあ、地球の丸さを感じたことは?」

 僕は一つずつ壁を崩すように尋ねる。

「ない」

「そうだよね。君の部屋の窓から見える景色じゃ、海も見えないし地球の丸さも感じられないよね」

「何が言いたいの?」

 質問をぶつけてきたことに、僕は彼女に見えない位置で拳を握った。僕の主張を完全にシャットアウトするのではなく、意図を探ろうとしてきたことに一歩前進した手ごたえを感じた。

「見せたい景色ってのは、海なんだ」

「海? じゃあ、海に行くの?」

「違うよ。丘だよ」

「丘?」

「そう、この街で一番高い位置にある丘。そこから眺める海は壮大な景色だし、水平線も見える。パノラマだから地球の丸さも感じられる。そこで絵を描いたら、きっと素敵な絵がかけると思うよ」

「でも」

 彼女の懸念は分かる。

「明るいうちに帰って来れば、あの男にも会うことはないよ」

 そう、彼女の父親と母親は決まって夜まで戻ってこない。その一言で安心したのだろうか、彼女はちょっと待ってと言い、二階に駆け上がって行った。

 僕はドアを閉めて外で待つ。

 ドアが開いてスケッチブックを手にした雅が出てきた。

「早く案内してよ」

 初めて会った時は氷柱のような冷たく鋭い彼女の声は、少し冷たさが緩和されているように感じた。だけど、まだ冷たさがある。まるで春にたまに吹く冷たい風のよう

だ。

 はやる気持ちを宥めるように言う。

「コートを着たほうがいいよ。それに出かけるなら鍵もかけないと」

「鍵がどこにあるか分からない」

「じゃあ、学校の鞄の中は?」

 雅世の母親は仕事をしているはずだから、雅世が学校から帰宅した時、家に誰もいないことが多いはず。だから、学校の鞄に鍵が入っていると考えた。

「あっ」

 彼女は再び家の中に入り、一分もしないうちに戻ってきた。

「鍵あった」

 真顔でそう言った。

 きっと雅世ならほほ笑んでそう言うだろうけど、雅は笑顔を見せることはない。彼女と何度も会ったけど、僕は一度も彼女の笑顔を見たことがなかった。父親の虐待から耐えるために生まれた人格だから、きっと笑うことが必要じゃないんだ。

「じゃあ、行こうか」

 僕が歩き出すと、スケッチブックを脇に抱えた彼女は俯き加減についてきた。雅世だったら手をつないで歩くけど、雅の手をとることはできなかった。

 そんな彼女に僕は、独りじゃないということを教えたかった。


 丘は僕の自宅近くの丘だ。

 ヒルトップ、この街ではそう言われている場所だ。僕の家はピークから少し下った所に建っているけど、この街ではかなり高台に位置する場所にある。丘に建っているけど、別に高級住宅街ではない。

 元道立病院があった近くの原っぱに雅を案内した。この辺りは回りに住宅が少なく視界が開けている上に野生の花が多い、僕のお気に入りの場所だった。

「雅に見せたかったのは、ここだよ」

 横に立つ彼女に顔を向けると、真っ直ぐ海を見据えていた。僕はその様子を見て、ほほ笑む。

「座ろっか」

 僕らは草の上に座る。

 横に座る雅は、さっそくスケッチブックを開き、目の前の景色を描き出していた。

「素晴らしい景色でしょ」

 彼女は手を止めずに顔を立てに振る。

 初めて部屋の外の景色を描くのだ、きっと会話どころではないのだろう。まるで、籠から解き放たれ大空に飛び立った鳥のようだ。

 顔は無表情だけど、楽しそうな雰囲気をかもし出す雅を僕は見守る。そうしているだけで、顔がほころぶ。

 一時間ほど経過しただろうか、彼女はスケッチブックのページをめくった。描きあげた絵を見せてほしかったけど、一生懸命に景色とスケッチブックを交互に見ながら手を動かす邪魔をしたら悪いなと思い、僕は口を開くことを我慢した。

 鉛筆を止めた彼女は言う。

「ねえ、この匂いは何?」

「フキノトウだよ、ほら」

 僕は後ろを向くように促す。

「緑のポコポコとしたあれのこと?」

「そうだよ」

 この辺りは暖かくなるとフキが生い茂る。

 雅は顔をしかめて言う。

「少し変な匂い」

「まあ、独特の香りがするんだ」

 僕にとっては春の香りだ。小さい頃からこの辺りで遊んでいる僕にとっては、嗅ぎ慣れた香りでもあり、春の到来を告げる香りだと思っている。

 僕は続ける。

「それに、フキノトウは天ぷらにして食べたりするんだ」

「興味ない」

 再び彼女はスケッチブックに鉛筆を走らせ出した。

 一時間ほど経過すると、彼女はまた新しいページを開いた。そのタイミングを待ってましたとばかりに、僕はバッグからパンを取り出し、半分に千切って雅に渡した。

「もうお昼過ぎだし、おなかすいたでしょ」

「うん、もらう」

 人は何かに夢中になると、空腹さえ忘れてしまう。運動だと空腹が気になるし、補給をしないと体が動かなくなる。そこが芸術系との違いの一つだろう。

 僕はパンを食べ終え、原っぱに寝転がる。

 今日は決して暖かいとは言えないけど、風がおさまり陽が当たると春の暖かさを十分に感じられた。僕はついうとうとしながら目を閉じてしまった。


 目を開けると、茜色に染まった空が広がっていた。

 隣に目を向けると、そこに座っているはずの雅の姿がなかった。僕は慌てて体を起こし、辺りを見回した。

 右を向いた時だった。夕日に向かって真っ直ぐ立つ雅の姿を見つける。

 僕は立ち上がり、彼女の傍に立つ。

「絵はもういいの?」

「夕日が綺麗。こんなにも夕日が綺麗だなんて知らなかった」

 僕は雅世と一緒に幣舞公園で夕日を見ようという約束を思い出す。

「この街の夕日は、世界三大夕日と言われているんだ。この場所から見る夕日も綺麗だけど、幣舞橋に沈む夕日はもっと趣があるよ」

「そうなんだ」

 僕は彼女の気が済むまで隣に立って待つ。

「ねえ、賢治」

「うん」

「あそこに立ってみて」

 僕は彼女が指差すあたりに移動した。

「ちょっとしゃがんでみてよ」

 言われた通りにしゃがむ。

「どう?」

「どうって言われ……」

 僕は息を呑む。

 茜色の空、夕日の色を反射した海。ちょうどその水平線の上に雅が立っているように見えた。

 雅は空に向かって両手を広げる。その姿は、まるで幣舞橋の像のように優雅であり、また茜色の空から舞い降りた天使のようでもあった。

 その姿を見ているだけで、鼻の奥が少し痛くなる。そして、目が熱くなる。こん顔を見られたくないから、目を見開いて僕は言う。

「まるで水平線に立っているみたい」

「そうでしょ」

 顔だけ振り向く。夕日に照らされてよく見えなかったけど、一瞬彼女が笑ったような気がした。

 明るいうちに家に戻る約束だったから、僕は自宅に寄って自転車を車庫から引っ張り出し、後ろに雅を乗せた。

 茜色の空の下を走る。その間、雅は僕の胴に腕を回し額を背中につけていた。

 信号が赤になり、自転車を止める。

 胴に回された彼女の手に、ふんわりと自分の指を重ね合わせた。ずっと外にいたせいか、彼女の指は冷たかった。

 ――これでよかったんだ。

 自室で身を守るように閉じこもる彼女を、外の世界に連れ出すことが正解だったのか間違いだったのか分からないけど、今そんなことはどうでもよかった。彼女が知らない世界を見せて、そして夢中になって絵を描いてくれた。それだけで満足だった。

 もう一度空を見上げる。空は群青色が混じりだしていた。

 信号が青に変わる。

 重ね合わせていた指を離し、僕は力強くペダルを踏み込んだ。

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