双子星に恋するように④
冬休みに入る一週間前の日曜日は、今年一番の冷え込みだった。
僕は雅世を自宅にいさせたくなかったから、日曜日に会う約束をしていた。久々に紀夫と伊藤さんと四人で遊びたいと思ったけど、このところ毎週のように雅が現れる状況だったから、紀夫に四人で遊ぼうと打診することができなかった。
バス停で待つ僕は腕時計に視線を落とす。待ち合わせ時間を三○分過ぎていたし、先ほど停車したバスの中に彼女の姿は確認できなかった。僕はバス停を離れ、彼女の自宅に向かった。
歩きながら、鼻からため息をつく。
インターホンを鳴らしたけど、家の中から何も音は返ってこなかった。
――留守なのかな?
もう一度インターホンに指を添えた時だった。ドアの向こうに誰かが立つ気配を感じた。
「誰?」
彼女の声だった。咳払いしてから、僕は言う。
「賢治です」
名前を告げても反応が無かったけど、一○秒ほどするとドアが静かに開いて、彼女が顔を覗かせた。
「また、来たの?」
「うん、今日は雅世ちゃんと会う約束をしていたからね」
「そう」
彼女はドアの隙間から僕の顔をじっと見ていた。そして、「入って」と言った。
きっと昨日も元父親が訪問してきたのだろう。そう思うと、ため息をつきたくなる。僕は彼女に促され、二階の彼女の部屋に入った。
ベッドの上にはスケッチブックが置かれていた。きっと絵を描いて過ごしていたのだろう。僕はまだ彼女が描いた絵を一度も見たことがないから、スケッチブックに手を伸ばしたくなった。だけど、断りなくスケッチブックを開いたら、雅に間違いなく怒られるだろう。
彼女はベッドに腰掛けて、窓の外を眺める。その目は今朝の冷気のような凍てつく目だった。
「雅世に会えないのに、約束だから来たの?」
「そだね」
「律儀だね」
「雅世ちゃんとの約束を優先すると決めたんだ。それに、僕にとっては君も雅世ちゃんに変わりない」
冷たい目が僕を見る。表情は変わっていなかったけど、怒りが込められた強い視線だった。
「分かっているよね、私と雅世は別人だということを」
僕は頷く。
「分かっている。雅世ちゃんと君は別人だということを受け止めている」
ふーん、という感じで彼女は僕の話を聞いていた。
感情の起伏がない彼女は、気高く優美に雪原を駆け抜けるキタキツネのようだ。
「私と会えたんだから、十分でしょ。もう帰って」
「十分じゃない。もっと君と話をしたい」
「賢治が会いたいのは、切り離した雅世であって切り離された私ではないよね」
急に一人称を名前ではなく、切り離した雅世と切り離された私に変えた。僕はその表現を耳にして、彼女は苛立っているのではないかと推測した。だけど、彼女が苛立つ理由は分からない。
彼女には感情の起伏がないと思っていたけど、彼女も人だ、やっぱり感情の起伏はあるのだ。雪原に佇むキタキツネのように一人で過ごす時間が大半だから、感情の変化を表現できなくなったのかもしれない。
「僕は君に会いにきたんだ」
まだ彼女は顔色一つ変えずに言う。
「どうして? 雅世と約束していたのだから、素直に雅世に会いに来たと言えばいいじゃない。まあ、今日一日雅世には会えないけどね」
「僕にとっては、君も雅世ちゃんだからだよ」
「どういう意味?」
「そのまんまなんだけど」
「賢治、分かってる。何度も言ったよね。私は雅で雅世とは違う。私が雅世? 冗談でしょ」
僕は頭をかく。
「僕は、君と雅世ちゃんは表裏一体だと思ってる。それに、雅世ちゃんの全てを受けとめたいと思っている。だから、君のことも知らないと彼女の全てを受けとめることに繋がらないと考えているんだ」
彼女は黙ったまま、僕の目を見ていた。彼女の視線で顔に穴が開きそうだ。
「そ、勝手にすれば」
「うん、ありがとう。君は絵の続きでも書いててよ」
「言われなくても、そうする」
彼女はベッドの奥に移動し、壁に背中を付けて体育座りをした。手元にあったスケッチブックを膝に立てかけ、手に取った鉛筆を走らせ始めた。
静かな部屋に控え目に響く鉛筆と紙の摩擦音。灯油のにおい。僕は彼女の部屋の置物にでもなったような気分で、彼女の仕草を眺めていた。
傍から見ている分には、普段の雅世と何も変わらない。今日も彼女と街に遊びに行くことはできなかったけど、こうして彼女の顔を眺めていられるだけで幸せなのかもしれない。
頭が重くなり、まどろみに吸い込まれそうになった時だった。スケッチブックを脇に置いて、ベッドから降りた彼女は言った。
「賢治、脱いで」
冷たい水を掛けられて、無理やり眠気を吹き飛ばされたようだ。突然の言葉に、僕は動揺してしまう。
「脱ぐって、どういうこと?」
「そのままの意味だよ」
僕だって健全な男子高校生だ。女の子にそんなことを言われたら、そっち方面のことを期待してしまう。
「暇そうにしているから、モデルになってよ」
「モデル?」
「そう。外の風景ばかり描いてもつまらないし、何も変わり映えしない風景を描くの
はもう飽き飽き」
彼女の表情は変わらないから冗談か本気かも分からなかったけど、どうやら本気らしい。僕は窓の外の景色を眺める。たくさんの住宅の屋根と空が見えるだけで、この景色ばかり描いていたとしたら僕でも飽きてしまいそうだ。
「全部脱ぐの?」
「上半身だけでいい」
幸い、部屋は暖かかったから脱いでも大丈夫そうだ。体育館で他の部員がいる前で着替えることに大した抵抗はないけど、じっと僕を見ている彼女の前で、服を脱ぐのはなんだか恥ずかしかった。彼女に目を向けると、ベタ雪のような目で僕を見ているので、しぶしぶセーターとアンダーシャツを脱ぐ。
彼女はペタペタと僕の上半身を触る。以前、ぬさまい公園で僕の手を握ってくれた雅世の手とは違って、冬の空気のようにひんやりとした手だった。
「何か運動でもやっているの?」
「バドミントンの部活に入っているんだ」
「そう」
「それより、どうして脱がないといけないの?」
「服を着ている人間を描いてもつまらないでしょ。人それぞれ体型が違うし、筋肉のつきかたも違う。そのような細かな違いや、人間が本来持っている動物的な側面を絵に落とし込むのが楽しいんだよ。服を着ていたら、服を描くようなもんだしね」
彼女の主張は絵を描かない僕にも理解ができたし、熱意ある言葉だ。それに、彼女の目は草むらからシマウマをじっと狙うチーターのような獲物を見つめる目だった。
僕は彼女が指示する通りにポーズをとり、そして椅子に座る。考える人に近しいポーズだった。
再び部屋は紙と鉛筆の摩擦音だけの世界になる。
絵を描く彼女と正面から向き合ってはいないから表情がはっきりと見えるわけではないけど、絵を描いている時の彼女は安心しているような表情に見える。紙の上を走る鉛筆から生まれる音は、彼女を癒す音なのだろう。僕には雪の音に聞こえる。降り積もった雪の上に寝転がった時、微かに聞こえる雪の音だ。
雅世に切り離された彼女は雪の世界に飛び込んだことなどないのだろう。今まで、独りで絵を描いて過ごしてきたんだ。そんな彼女に雪の世界を見せてあげたかった。見渡す限り白銀に包まれた世界に連れて行ってあげたいと思った。この部屋の窓からは想像できないほどの世界が広がっていることを教えたい。そして、君もボーダレスな世界にいること、つまりこの世界の一つの要素であり決して独りではないことを伝えたいと思った。
僕は鉛筆の音を聞きながら、そんなことを考えていた。
結局、冬休みに入るまで僕は学校で会う雅世と出かけることはできなかった。
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