双子星に恋するように③

 除雪車のエンジン音で目が覚めた。

 ベッドを抜け出して窓を開けると、一夜のうちに白銀の世界に様変わりした街並みが目に飛び込んでくる。一晩中振り続けていた雪は、控え目だけどまだ降っていた。

 僕は静かに雪が降る夜が好きだ。新雪がクッションとなって、路面とタイやの摩擦音を減らしてくれるし、空から舞い落ちる雪は車のエンジン音を分散してくれて、世界が静かで優しくなったように感じる。

 時計を見ると、まだ四時だった。

 僕は身震いして、また布団に潜り込む。自分の体温が残った布団を被り、再び眠りにつこうと目を閉じた。

 今度は目覚まし時計のアラーム音で目を覚ました。一晩中雪が降り続いた翌日は、正直登校したくないなと思う。

 登校の準備を整えて自宅を出た僕は、バスに乗るためにヒルトップに向かう。雨が降った日、雪が積もってチャリ通ができない時、僕はヒルトップのバス停からバスに乗って登校することにしている。

 坂を上ってきたバスは重そうな車体を止める。乗車口まで乗客がいっぱいだたけど、なんとかバスに乗り込む。バスの乗客のほとんどは僕と同じ高校生だった。

 僕の学校の近隣には他に三つの高校があるから、多くの生徒がチャリ通を止めると、バスは四つの高校の生徒でぎゅうぎゅうになる。バス通学の時は、小山さんも同じ路線を使っているから彼女を探したいけど、身動きが取れないためバスに乗った瞬間にあきらめた。

 江稜高校前のバス停で降りてから少し歩く。他の高校は大きな通りに面しているの

で学校前にバス停があるけど、僕の高校は奥まった所に校舎があるから学校前にバス停はない。

 僕が教室に着いて数分後に小山さんが登校してきた。タイミングからして、やっぱり同じバスに乗っていたのだろう。コートを棚にしまって席につく彼女に、僕はいつもより明るくおはようと挨拶をした。彼女もおはようと言う。その様子はいたって普段と変わらないように見えた。

 授業中、何度か彼女の様子を確認したけど、これまでの小山さんと何も変わっていなかった。なんだか、昨日の出来事が夢に思えてしまう。

 いつもと変わらず、授業を受ける小山さんを目にして僕は安心する。

 安心したせいなのか、それとも教室の暖房が効いているせいなのか分からないけど、僕は少し眠くなる。そんな眠気を吹き飛ばすような出来事があったのは、昼休みに入って間もない時だった。

 お弁当を出そうと机に掛けていたリュックに伸ばした手を小山さんに掴まれた。そのまま僕の手首を掴んだまま、小山さんは通路を進んで廊下に出た。教室の中がざわめいていたけど、僕は抵抗せず彼女に引っ張られながら歩いた。そして、僕は彼女に吹き抜けの一番奥まった場所に連れて行かれた。吹き抜けは四階まで達していて、ステンドグラスを囲うようなバルコニーみたいになっている。

 僕らは吹き抜けの手すりに腕を置いて、しばらく教室から流れ出てくる生徒を眺めていた。吹き抜けはUの字型で、僕らは教室の反対側の廊下にいた。ちょうど後ろは視聴覚室だから今は誰もいないから好都合だった。僕は彼女が口を開くまで黙って待

った。

 教室から出てくる生徒数が落ち着く頃を見計らったように、彼女は口を開いた。

「まずは、ごめんなさい」

「なんも、謝らなくてもいいよ」

 昨日、彼女に会っていなかったらこんな風には言えなかっただろう。

「私、また約束をすっぽかした」

「すっぽかしたわけじゃないのは分かっているから、気にしないでよ」

「うん、ありがと」

 再び彼女は口を噤む。僕は一階に視線を移す。ステンドグラスの前の広場というか空間にはグランドピアノが設置されていた。おそらく見栄えのために置いているピアノだと思うけど、時々女子生徒がピアノを弾いている。

 今日も二人の生徒が椅子を半分こしながら連弾していた。クラシック音楽ではなく、CDが売れているミュージシャンの曲だった。

 彼女は僕らの教室の出入り口に視線を固定したまま、そっと言った。

「ねえ、もう一人の私と会ったんだよね」

 僕は彼女のトーンに合わせるように、できるだけ感情を込めないで言う。

「会ったよ」

「驚いたでしょ」

「うん」

 彼女は小さく息をはいた。

「本当の私を知って、幻滅したでしょ?」

 僕は首を横に振る。

「なしてさ?」

「だって、私は普通と違うから」

 きっと彼女は勇気を振り絞って打ち明けてくれたに違いないし、ずっと苦しみを抱えながら過ごしてきたのだろう。だから、これ以上彼女が傷つくの見たくなくて、僕は精一杯、今この時に相応しい言葉を頭の中から探す。

 だけど、ぴったりな言葉が見つからなくて自分のボキャブラリーに苛立つ。人間誰しも大なり小なりイレギュラーを抱えている。完璧な人間なんていやしない。僕も小さい頃、喘息を抱えて体が弱かったから、普通の子と自分は違うんだと思ったこともあり、彼女の気持ちは分からないでもなかった。

「それでも雅世には変わりないよ」

 つい彼女を名前で、しかも呼び捨てにしてしまった。

 やっぱり彼女は驚いて、目を大きくして僕を向いた。

「ごめん、呼び捨てにして」

「なんも」

「昨日、もう一人の小山さんに名前で呼べと言われて、つい」

「そっか。なんか悔しいな」

「なぜ?」

「もう一人の私の方が、三代くんから先に名前で呼ばれるなんて悔しいっしょ」

 付き合うなら名前で呼べよ、と岡野が言っていた。自分と接する人の呼び方は、きっと人間関係の距離を示すバロメーターの一つなんだろう。

 一階のピアノからは別の曲が奏で始められる。今度はゆったりとしたテンポの曲だった。名前も知らない生徒が生み出してくれた綺麗な音のお陰で、僕らの間にやってきた沈黙も、もどかしい時間ではなかった。

 彼女は何か言おうと、それとも言わないほうがよいのか迷っているように見えた。

 小山さんはそっと口を開く。

「じゃあ、私も名前で呼んでよ」

「恥ずかしいよ」

「さっき呼んだでしょ」

「そうだけどさ」

「私も三代くんのこと名前で呼ぶよ。ねえ、いいでしょ、賢治くん」

 意外にも彼女は思い切りがよいのかもしれない。

「分かったよ」

 僕はほほ笑む。

 彼女は真顔になって、また前を向いた。

「ありがと。さっきの言葉、嬉しかった」

 彼女を傷つけまいとして口にした言葉だったけど、正直僕はこの先も雅世を好きでいられる自信が揺らいでいた。これからもきっと雅と対峙すると、今隣にいる雅世が消えてしまいそうで怖かった。

 だけど、僕は胸に揺らぎ始めたこの懸念を口にする勇気は今なかった。

 ご飯を食べ終えたのだろうか、何人かの生徒が教室からまとまって出てくる。

「お腹すいたし、教室に戻ろうよ」

 僕は頷く。

「ねえ、賢治くん。明日部活ない日だったよね」

「うん」

「一緒に帰ろうよ。まだ話たいことがいっぱいあるんだ」

「分かった、一緒に帰ろう」

 僕の返事に彼女はほほ笑む。

 だけど、そのほほ笑みは手の上で消えそうな淡い粉雪のようだった。


 翌日の放課後、僕と雅世は春採公園の中を歩いていた。

 まだ足跡がついていない雪を踏むとキュッキュと音が鳴って、冬の間だけ音を奏でる楽器みたいだ。

 僕は横を歩く雅世に目を向ける。マフラーの間から漏れる息は白く、空中で儚く消えてしまう。

 寒さで頬が少し赤くなっている彼女は言った。

「私は、もう一人の私をいつ切り離したのかは分からなかった。もう一人の私に切り替わると、元に戻るまでたいてい一晩かかるの。だから、もう一人の私が表に出た日の記憶が飛ぶことを体験した何度目かで、おかしいと気付いたんだ」

 僕は昼休みの間、図書室で解離性同一性障害について調べた。高校の図書室だから高度な専門書は置いてなかった。それでも、精神医学に関する記述が載った本を見つけ、昼休みが終わるまで精神障害について関連する知識を頭に叩き込んだ。

 だけど、そこまでして本を読む理由は僕にも分からなかった。彼女が抱える苦しみ

を少しでも分かりたい、と思ったのかもしれないし、彼女から離れる理由を探したのかもしれない。とにかく僕の心は街にかかったガスのように、先行きが見えない状態だった。

 僕は疑問に思っていたことを尋ねるか、迷っていた。

 彼女の母親は、雅世の交代人格が表に出るのは父親が原因だと言った。原因が分かっているのであれば、交代人格が表にでないように父親に対し家に来ないでくれと、なぜ言わないのか。交代人格が表に出ても、雅世にはダメージがないと思っているのだろうか。僕には到底理解できない。

 なんだか怒りがこみあげてきて、つい彼女に尋ねてしまう。

「雅世ちゃんの母親から交代人格が表に出る原因は父親だと聞いたけど、なぜ父親が家に訪れることを許すの?」

 彼女は困ったような目で僕をチラッと見る。

「あの人はあの男から離れられないんだよ。あの男と私が会ったら、もう一人の私が表に出ることを分かっていても、私よりあの男と会うことを優先することを選んだの」

 雅と同じく、雅世も母親をあの人と言った。

 僕が会った彼女の母親は優しそうな人だった。だけど、娘のことよりも自分の幸せを優先する人なのかもしれない。

 彼女の両親がどのような理由で離婚したのかは知らない。そして、彼女が交代人格を持つようになった理由も知らない。いや、知るのが怖くて訊こうとは思えなかった。つらい体験には違いないから、それを聞きたくないというより彼女にその体験を思い出してもらいたくなかった。

 僕らは湖のほとりにある田の字を長方形にした広場で立ち止まる。特にベンチがあったり、東屋があるわけでもないし、雪に覆われた広場にしか見えない。僕と彼女のどちらかが先に立ち止まったわけでもなくて、見えない壁にふんわりと歩みを止められたような感覚だった。

 僕は空を見上げて言う。

「それなら、僕は君を優先する」

 だって、僕は夢ではなくて幸せを選んだのだから。

 彼女の母親が雅世のことよりも元夫を優先するんだ、この世に一人くらい無条件で彼女を優先する人間がいてもいいじゃないか。

 彼女は首を傾げるから、僕は続ける。

「誰よりも君に優しくありたい、大事にしたい、そしてできるか分からないけど、僕

は君を護りたい」

 恥ずかしくなるような言葉を口にした顔を見られたくなくて、僕は彼女を抱きよせ

る。

 僕の耳元で優しい猫のような声がする。

「ありがと」

 表情は見えなかったけど、息使いで笑っているように感じた。

「ずっと雅世ちゃんの味方だから」

 僕の背中に回した彼女の腕に力が入る。

 しばらく僕らは抱き合ったまま立ちつくした。誰かが僕らを見かけるかもしれなかったけど、今はそんなことに考えがいたらなかった。

 春採公園から出ると、彼女はバスが来るまでの間、交代人格が表に出るようになった背景を語ってくれた。それは小さい頃に受けた父親からの家庭内暴力の話だった。暴力を受けた現実から逃げるための人格が、もう一人の私だと彼女は言った。

 今週末も彼女の元父親が家に来るのかもしれない。そう考えるだけで悲しくなった。雪が絶え間なく降り続いて、雅世と二人で世界に取り残されて良いとさえ思えた。

 だけど、見上げた空は雲一つない晴天だった。

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