双子星に恋するように②

 その週の日曜も、僕は小山さんと待ち合わせをしていた。待ち合わせをしたのは、図書館の入り口だったけど、僕は先週と同じくまなぼっとの最寄りのバス停で彼女の到着を待っていた。

 まるで先週の同じ時間をリプレイするかのように、小山さんは約束の時間になっても現れなかった。そして、同じように僕は数本のバスを見送ることになった。また体調を崩したのかなと思いたかった。事故にあっていないことを願いながら、僕は桜ヶ岡方面に向かうバスに乗った。

 翌日の月曜日、僕はいつもと変わらぬ時間に登校した。教室の扉を開けると、小山さんが座っている姿が目に飛び込んできて、僕は思わず胸を手を当て息をはいた。

 廊下側にある棚に上着を掛けて、自分の席に向かい彼女に「おはよう」と言った。

 彼女も嬉しそうに「おはよう」と言う。

 僕はそれだけで十分だ。日曜日を一緒に過ごせなかったことよりも、またこうして顔をあわせることができたことで十分に嬉しかった。

 灰色の空からちらちら舞う雪のように、一二月の授業はゆっくりと流れているように感じる。街を覆う空気が冬の空気に入れ替わり、雪が地面を覆い始める。自転車通学の生徒も皆無に等しくなり、みんなゆっくりと歩いているように見えた。

 その週末も僕は小山さんと会う約束をした。思い返すと、彼女と付き合いはじめてから、まともに一日を過ごしたことがまだない。会う約束をしているから、嫌われているわけではないと思う。

 肌を傷めつけるような寒い風が吹き始めたから、今日の待ち合わせ場所は彼女の自宅の最寄りのバス停にした。僕は夜空のような群青色のピーコートに青空のようなマフラーを巻いてバス停近くに立ち、彼女の到着を待つ。

 根拠はないけど、今日も嫌な予感が胸の中で渦巻いていた。鈍い僕にも直感というものがあるのかもしれない。だから待ち合わせ場所を変えた。

 吹き抜ける風が体温を奪っていく。その場で足踏みをした時だった。

 雪を踏む足音が僕の右側で止まった。

「あの、三代くんでしょうか?」

 声の主は会ったことがない自分の母親と同じくらいの中年の女性だった。

「はい、そうです」

「よかった」

 いったい何が良かったのかは分からないけど、僕は彼女が誰なのかなんとなく分か

っていた。

「あの、雅世の母親です」

「はじまして」

 自分でも驚くほど落ち着いて言葉を交わすことが出来た。きっと彼女の母親が落ち着いているような様子だったからかもしれない。何か事故だったら、口調も早いだろうし、こうやって僕に会いにくることもなかったはずだ。

 僕は尋ねる。

「小山さん、風邪をひいたのですか?」

「いえ、雅世は元気よ」

「では、何かあったのですか?」

「あの……」

 彼女の口調は何か戸惑っているように聞こえる。僕に言いにくいことなのだろう。冷たい風に冷やされたように、僕の気持ちは今も冷静だ。だから、彼女の口から次の言葉が出てくるまで待つ。

「今日の雅世に会ってもらうのが一番分かりやすいと思うの。これから家に来てくれるかしら?」

「はい、分かりました」

 僕は彼女の後について歩き出す。

 ――今日の雅世?

 彼女は確かにそう言った。その一言だけが僕の胸に突き刺さったまま、僕は黙って彼女に続いて歩いた。


「どうぞ、あがって」

 自分の家とは違う香りがする玄関に入った僕は「おじゃまします」と言って、靴を脱ぐ。リビングに通した僕を、小山さんの母親は椅子に掛けてと言った。

「お茶でいいかしら」

 僕はお構いなくと言った。だけど、彼女はやかんを火にかけて僕の向かいに座った。そして、困ったような笑顔をする。

「あの、私が言うのもなんだけど、雅世と仲良くしてくれてありがとう」

 なんだか故人を偲ぶような言い方に、なんだか悲しくなる。

「いえ、こちらこそ。一緒に勉強できて、助かっています」

 会話が続かない。彼女が僕をここに連れてきたのは、単にお礼を言うだけではないはずだ。きっと何かを伝えようかどうか迷っているんだ、と心が訴えていた。

 彼女の母親は口を閉じたままだった。僕も何を話したらよいのか分からないから、小山さんの家庭について考えていた。母親は僕の存在を知っていた。小山さんと付き合っていることまで知ってるかどうかは分からないけど、今日の待ち合わせ場所まで知っていた。もしかしたら、小山さんは行けなくなるリスクを感じて、事前に母親に言っていたのかもしれない。

 熱さに耐えきれなくなったやかんが音を上げた。彼女は椅子から立って、やかんのお湯を急須に注ぎ、淹れたお茶を僕に差し出した。

 暖房が十分に効いている部屋なのに、気のせいか寒気を感じ身震いした。

 僕は彼女に尋ねる。

「あの、小山さんの体調は大丈夫ですか?」

「ええ、体調は大丈夫なの」

 僕は首を傾げる。

「では、何かあったのですか?」

 何かしらのアクシデントがあったことは、ほぼ間違いなさそうだ。俯き加減の彼女に対し、僕はもう一度尋ねる。

「彼女が無事であれば、それだけでいいんです。だけど、何があったかだけ教えていただけないでしょうか?」

 僕の問いかけに対し、彼女は薄らと口を開いた。でも、言葉は出てこない。

 しばらくの間、沈黙が支配する。

 そして、意を決したような目で彼女は言った。

「三代くん、解離性同一性障害って知ってる?」

 かつて一度だけ何かで耳にしたことがある言葉だった。

「確か精神の……」

「そう、雅世は精神障害を抱えているの」

 僕は頭を殴られたような衝撃を覚える。世界から音が失われ、何も聞こえなくなってしまったようだ。でも、それは錯覚で、小山さんの母親は何も話していなかった。

 しばらく経って、彼女は再び口を開いた。

「これまで何度か三代くんとの約束をすっぽかしたことがあると思うけど、その時は決まって雅世の交代人格が現れた時なの」

 僕は交代人格と繰り返す。

「要するに、もう一人の雅世というと分かりやすいかしら」

「なんとなく分かります。だけど、なぜ彼女に交代人格が現れるのですか?」

「原因は、私の元夫なの。あの子は元夫が苦手で、彼と会うと決まって交代人格が現れるの。夏が終わり頃から元夫が週末家に訪れるようになってから、あの子の交代人格が出てくるようになったの」

「すぐに元に戻らないのですか?」

「うん、だいたい一日くらいかかるみたい。それと、交代人格は家から外に出たがらないのよ。だから、雅世の状態を知ってもらうためには三代くんに来てもらうしかなかったの」

 なんとなくだけど、分かってきた。小山さんは土曜日に交代人格が現れ、僕と約束をしている日曜は家の外に出ない。月曜には元の小山さんに戻っているから、普通に学校に通えている。

 それと、彼女は元夫が原因だと言った。思い返すと紀夫たちと街に遊びに行ったのは日曜だった。きっとその頃までは、普通に日常生活を送れていたに違いない。

 僕は恐る恐る訊く。

「交代した人格って、どんな人格なんですか?」

「そうね、一言で言うとクールな雅世という感じ。どこか達観していて、この世で起きていることは全て自分とは無関係と思っているような人格よ」

 彼女はそう言って、お茶を口に含んだ。

「三代くん、会ってみる?」

 僕は直ぐに言葉を返せなかった。黙っている僕を見て彼女は言う。

「交代人格と言っても、ジキルとハイドみたいにガラッと変わるわけじゃないわ。クールと言ったけど、普段の雅世と同じく絵を描くことが大好きな女の子よ。もちろん普通に会話もできるわ」

「分かりました。会わせてください」

「ええ、どうぞ」

 僕はぬるくなったお茶を、一気に飲み干した。


 小山さんの母親は二階の部屋のドアを三回ノックした。

「入るわね」

 そう言ってからドアを開けた彼女に続いて僕も部屋に入る。ドアのすぐ横にあるベッドに体育座りのようにして座っている彼女がいた。

 部屋はレースのカーテンがかかっている。今日はくもり空だから、部屋は薄暗い。

「誰?」

「雅世のクラスメイトの三代くんよ」

「ああ、あなたが」

 声は小山さんだったけど、声のトーンや話すテンポ、そして口調が普段の彼女とは異なっていた。何よりも、僕を見て「誰?」と言った時点で僕は小山さんじゃない別の女の子が部屋にいるような感じを覚えていた。

「出てって」

 氷柱つららのように冷たくとがっているような言い方だった。

 彼女の母親は言う。

「はいはい」

 僕も彼女に続いて部屋を出ようとすると、小山さんは言った。

「あなたは残って」

 僕は彼女の目を見る。敵意は感じなかったので、僕はドアを閉めて部屋に残った。

 突っ立ている僕に彼女は言う。

「机の椅子にでも座って」

 僕は素直に従う。

 改めて部屋の中を見回すと、ずいぶんと殺風景な部屋だった。ポスターの類は何もなく、机とベッド、本棚、そして画材道具一式だけだった。女の子の部屋だから、ぬいぐるみの一つでもあるかなと思ったけど、それもなかった。

「あなた名前は?」

「三代」

「下の名前」

「賢治」

「宮沢賢治の賢治?」

「そうだよ」

 彼女の視線は僕を値踏みしているようだ。

「雅世はあなたのこと何て呼んでいるの?」

「三代くんと呼ばれているよ」

「そう。なら私はあなたを賢治と呼ぶ」

 いきなり呼び捨てかよ、と思ったけど、見た目が小山さんと同じだから不思議と怒

りが湧かなかった。

 僕は首を傾げながら訊く。

「君のことはなんて呼べばいいの?」

「雅でいい」

 ――みやび?

「雅世ではないの?」

「冗談でしょ? 私は雅世とは別人なんだから、同じ名前なわけないじゃない」

「なんか不思議な感じ」

「仕方がないじゃない。心は別かもしれないけど、体は一つなんだし。賢治もその方が分かりやすくていいでしょ」

 雅は小山さんと別の人格であることを認知している。交代人格について詳しくは知らないけど、雅が小山さんのことを認知しているのであれば、小山さんも雅のことを認知している可能性がありそうだと思った。

 僕は頭の中に浮かんだ疑問を躊躇なくぶつける。

「まあ、そうかもしれないけど。だけど、どうして僕のことを知っているの?」

 先ほど、彼女の母親から交代人格の間で記憶の共有はされないことを聞かされた。つまり、交代人格が表に出ている彼女と僕は初対面ということになる。

「ああ、私を切り離した雅世の手帳を見て、賢治の存在を知っていたの。あの人は賢治をクラスメイトと言ったけど、私は違うと感じた。ねえ、あなたは雅世とはただのクラスメイトではなくて、彼氏でしょ?」

 自分の母親を「あの人」と表現する彼女の言葉を耳にして、改めて小山さんではないのだな、と実感する。それと、僕は私を切り離したという表現が気になった。小山さんが今目の前にいる彼女を切り離したとでも言うのだろうか。

 僕は誤魔化しても仕方がないと思って、正直に言う。

「うん、そうだよ」

「やっぱり。じゃなきゃ、家に連れてきたりしないしね。それにしても、まさか雅世の恋人と会うことになるとはね」

 表情を変えずに話しているけど、僕の目には悲しそうに映る。

「君は……」

「君じゃなくて雅」

 人格が交代しても、名前は同じなのだろうか。僕は疑問に思う。

「雅ちゃんは……」

「呼び捨てでいいよ」

 ペースを乱されて、僕は頭を抱えたくなる。目の前にいる彼女は小山さんと口調は雰囲気が全く違うけど、口を噤んでいるとやっぱり小山さんに見える。

 小山さんに向かって名前で呼んだことなんて一度もないから、口の周りの筋肉が固くなったようで、すんなりと言葉が発せられない。

 でも思い切って言う。

「じゃあ、雅と呼ばせてもらうよ」

 ふん、と鼻を鳴らしたわけじゃないけど、そんな印象を彼女から受けた。

 やればできるじゃん、そうとでも言いたいのだろうか。

「ねえ、今まで小山さんの友達と会ってことはないの?」

「ない。賢治が初めて」

「会ってみて、どう?」

「別に。私いままで一人だったし、雅世の恋人と会ったからと言って何かが変わるわけではない」

 彼女は続けて言う。

「ねえ、学校での雅世はどんな印象?」

 彼女の母親は、交代人格は日曜に現れることが多く、月曜には元に戻ると言った。もしかしたら、雅は学校に興味があるのかもしれない。

「落ち着いている印象だよ。仲が良い友達もいるし、謙虚だけど明るい。勉強はできるほうだけど、運動は得意そうではない。そんなところかな」

 彼女は表情を変えずに「ふ~ん」と言うだけだった。

 そんな感じで、しばらくの間僕らは学校について話し合った。話しあったと言っても僕が一方的に質問を受け、それに答える形が大半だ。会話中、彼女の表情は変化しなかったけど、僕には楽しそうに見えた。普段から小山さんの表情を目にしているから、感じとれたのかは分からない。


 彼女の部屋に入って三○分ほど経過したあたりだろうか、急に彼女に「帰って」と

言われた。

 僕は素直に立ち上がった。

「また話そう」

 なぜだか彼女とまた会う予感がした。このところ小山さんと会う約束の度に会えな

いことが続いたから、この傾向が続くかもしれないと心のどこかで思っていたのかも

しれない。

「本気で言ってるの? 雅世と会いたいのが本音でしょ」

 僕は敢えて答えない。代わりにこう言った。

「またね」

 僕は彼女の問いに応えずに、部屋のドアを開けて部屋を出た。

 一階に下りて、彼女の母親に挨拶をして玄関を出た。

 僕の見送りに出てきた彼女の母親は言う。

「今日はありがとう。今度雅世と遊びに行く約束をして、来ない時は家に来てくれる

と嬉しい」

「分かりました。今日は失礼します」

 僕は軽く頭を下げて門を出た。

 彼女の自宅と僕の自宅は歩いて一五分ほどの距離だ。空は薄らと曇っていて、ちらちらと細かい雪が降ってきた。細かな雪がコートにくっつく。

 歩きながら僕は雅のことを考えていた。彼女は母親を嫌っているように見えたからだ。短い時間しか彼女に接してはいないけど、彼女の性格を考えると単に毛嫌いしているとは思えなかった。

 僕の中で何かが引っかかる。でも、それが何であるのかはまだ分からなかった。

 先ほどよりも暗くなってきたから空を見上げる。

 今夜は積もりそうだな、と心の中で呟いてバッグの紐を強く握った。

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