第三話 双子星に恋するように
双子星に恋するように①
月曜日の朝は、手がかじかむほど空気が冷たい朝だった。僕は自転車のハンドルを握り、冷たい空気を切り裂くようにひぶな坂を下り、春採湖の脇を全力でペダルを踏んだ。下り坂で冷えた体は再び熱を帯び、こめかみのあたりから汗が流れ落ちる。
駐輪場に自転車を止めた僕は、駆け足で教室に向かった。全力で自転車を漕いできた影響なのか、それとも不安感から来るものなのか分からないけど、胸の鼓動は落ち着いてはくれなかった。
教室の扉を開ける前に、ゆっくりと息を吐き出した。
始業時間の三○分以上も前なので、教室内にはまばらにしか生徒はいない。クラスメイトに「早いな」と言われたけど、僕は「ちょっと部活の用事でね」と誤魔化す。自分を落ち着かせるように、ゆっくりとリュックから教科書を取り出して机に入れる。そして、図書室から借りてあった本を取り出し栞を挟んだページを開いた。
徐々に教室の席も埋まり始める。僕は本を読んでいたけど、白紙の本を読んでいるかのように、内容は全く頭の中に入ってこなかった。
授業が始まる一○分前だった。聞きなれた声が教室の入り口辺りから聞こえた。
僕は本から顔を上げ、視線を入口に向けた。そして、安堵のため息とともにほほ笑んだ。
訊きたいことがあったけど、彼女の無事を確認できただけで満足だった。だから、僕は数ページ戻って本を読み直し始めた。
隣の席の椅子が動いたのが視線の片隅に入る。
「おはよう」
僕は言う。
「おはよう」
なんだか久々に彼女と言葉を交わしたような感覚で、つい嬉しくなる。挨拶ついでに見た彼女の様子は、これまでと変わった様子は見受けられなかった。
今の僕にとってはこれ以上言葉は必要なかった。優しい猫のような声が聞けただけで、ようやく現実に戻れたような気がした。
菅野先生が教室に入ってきて、ホームルームが始まる。いつもと変わらぬ光景に、ついほほ笑んでしまう。これ以上ほほ笑んでいたら、菅野先生に怪しまれそうだから、僕はなんとか表情を引き締めた。
昼休みはいつものように紀夫と大丸と一緒に弁当を食べた。
自分の席に戻ると小山さんが一人で本を読んでいる姿が視界の片隅に入る。
昨日のことが心配で声をかけようか、それとも何もなかったようにふるまうか、僕は半日悩んでいたけど、彼女の横顔を見て、つい声をかけてしまう。
「昨日は何かあったの?」
本当は学校で休日の話題は避けたかった。でも、訊かずにはいられなくなった僕は彼女に尋ねてしまった。
「ごめんね、風邪をひいてしまったの」
「そうだったんだ。事故にでもあったのかと心配したよ」
「うん、本当にごめん」
「ううん、いいんだ。気にしないで。もう体調は大丈夫?」
「うん、だいぶよくなった」
「だいぶ寒くなってきたし、気をつけないとね」
「そだね」
彼女は申し訳なさそうな表情をしていたけど、どこかあっさりしているような印象だった。もしかしたら、彼女は声だけでなく性格も猫のような性格なのかもしれない。
一方で、僕の気持ちもあっさりしていた。彼女の無事だけを求めていた僕の気持ちは、街に居座るガスではなく夕立のようだった。
そんなことを思ったのも束の間で、僕らの生活はいつもの日常に戻った。
水曜日のお昼休みは、紀夫と岡野と学食で昼食をとっていた。水曜日に学食でお昼ごはんを食べることは、完全に固定化していた。
毎度のように、紀夫はチャーハンとカレーそばを夢中で食べているから、岡野は僕に質問を浴びせてくる。
「お前は彼女のことをなんと呼んでいるんだ?」
「小山さんだよ」
彼はあからさまにため息をついた。
「お前さあ、恋人同士なんだから、普段と変わりない呼び方じゃまずいだろ」
「そうかな」
「そうだよ。分かってないお前に言っとくけど、どこかの紳士淑女の付き合いじゃないんだから、もっと高校生らしくさ名前で呼びあったりした方がいいぜ。名前で呼んだ方が親密な感じがするし、女の子も喜ぶって」
「分かったよ」
僕は恋愛に疎いから、こうして岡野にレクチャーを受けることが多い。
紀夫のお皿が空になった様子が目に入ったから、僕は尋ねる。
「紀夫は伊藤さんのこと、どんな風に呼んでいるの?」
「ああ、俺か。俺は沙希ちゃんって呼んでるよ」
「彼女は?」
「紀夫くん、って呼んでくれる」
そんなの普通だぜ、と言った風な目で岡野は僕を見た。そして、ラーメンをすすってから話を戻した。
「あと手もつなげよ」
「恥ずかしいよ」
「じゃなきゃ相手との距離が縮まらないぜ。ただ並んで歩いているだけだと、友達と遊びに行く感覚と変わらないからな」
「色々とありがと。岡野は恋愛マスターだね」
「お、おうよ」
岡野は恥ずかしそうに、残ったラーメンをすする。恥ずかしそうにした岡野が面白かったのか、紀夫は彼の肩を二回叩いて言う。
「恋愛マスターをもってしても、和田さんとの仲は進展しないな」
僕らは笑う。
「はいはい、幸せ真っただ中の二人と違って俺は全然ですよ」
不貞腐れたように頬杖をついた彼に訊いてみる。
「どうしても和田さんじゃなきゃ、ダメなの?」
僕は羽球部一年女子の一人の顔を思い浮かべていた。なぜなら、恋愛に疎い僕でもその子が岡野に向ける感情が好意であることを察していたからだ。その子じゃダメなのだろうか、一度岡野に確かめたかった。
「和田さんじゃなきゃダメ……、と言いたいところだけどさ、俺も見込みがないことは感じているんだ。だからいつまでも和田さん和田さんと言ってばかりいられないとは思っている」
そう言った彼の表情は、なんだか切なそうだった。何組の誰が可愛いとか、しょっちゅう口にして色恋沙汰には目がなさそうな岡野だけど、誰かを好きになることに関しては周りが思っているよりもずっと真摯なのかもしれない。
僕は言葉を気をつけて選ぶ。
「そうか、それは辛いね。僕はいつも岡野に背中を押してもらってばかりいるから、
そんな岡野にも充実した高校生活を送ってほしい。和田さんへの想いが実らないのであれば、他の子にも目を向けてもよいと思っている。だって、一人の人を半年以上も想い続けてきたんだから、そうしても誰も
幼稚園から最近まで一人の女の子を想い続けてきた僕が言える立場ではないことは重々分かっている。けれど、岡野に言った言葉は僕にしか言えない言葉のような気がした。
僕らの恋はたいてい片思いだ。想い続けている相手が自分を向いてくれればと何度考えたことだろうか。岡野もそう想いながら、暗い夜を幾度となく過ごしてきたんだ。胸を焦がしながら孤独な夜を過ごす辛さは僕にも分かる。
岡野は明るく振る舞って見せる。
「そうだな。俺のリストに載っているのは和田さんだけじゃねーからな。見てろよ、
冬休み前までにお前ら二人みたいに彼女作るからな」
「おう、その意気だ」
まるで励ましの念を込めるように、紀夫は強めに岡野の背中を叩いた。
岡野は痛そうにしていたけど、少し嬉しそうに見えた。
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