ポラリスの夢と小さな幸せ⑤
学校での僕らの振る舞いは、目に見えるほど変わったわけではなかった。
これまで通り、休み時間にたまに話す程度で、一緒にお昼ご飯を食べることもなかった。二人で話し合ったわけでもなく、周りの目をきにしたわけでもない。言ってみれば、これが僕と彼女の自然体なのかもしれない。
僕は小山さんと付き合い始めたことを、紀夫と岡野にしか報告してないし、きっと小山さんも伊藤さんにしか言っていないだろう。だから、クラスメイトの大半は、僕らの関係性が変化したことに気づいていないし、僕もそれでよかった。
授業中は黒板を眺める小山さんの横顔が視界の片隅に映りこむ。彼女の存在を直に感じられるだけで、僕の心は満たされた。都会では高校生でもスマホを持っていて、恋人同士頻繁にメッセージをやり取りしていると耳にしたことがあるけど、僕らの街の高校でスマホを持っている学生は見たことはなかった。直接言葉を交わせるだけで十分じゃないか、と僕は思う。
僕は夢よりも小さな幸せを選んだ。
その選択に後悔はしていない。僕の頭上にポラリスが輝き続けているだけでいいんだ。僕が知らない誰かと出会って、その人と恋をして、彼女が幸せになってくれればそれで十分だ。
僕はこの先、ポラリスに向かって手を伸ばすことはないだろう。
そう思いながら過ごす日々は、平穏に過ぎてゆく。週末になれば、小山さんと出かけたり、たまに紀夫と伊藤さんと四人で遊んだりもした。
九月下旬には二年生の先輩方が見学旅行に出発し、一年生だけの部活を楽しんだ。
一○月に入ると冬服移行期間となり、寒さが苦手な女子生徒は早々と冬服に着替える。彼女たちの冬服姿を目にして、入学当初を思い出す。
秋の風に混ざる冬の香りが色濃くなり、木々の葉が枝から落ち始める時だった。坂道を下る時だけでも手袋がほしいなと思いながらも、結局手袋をはかないのが高校生の変なプライドだ。
部活がなく、まっすぐ帰宅して後期の中間考査の勉強をしようと思いながら自転車を漕いでいた日だった。ちょうど江稜高校の前のバス停を通り過ぎた時、僕は誰かに呼び止められた。
「待って」
その声に反応した僕は、ブレーキを握り自転車を止めた。後ろから走ってくる足音が聞こえたので、左足を地面について後ろを振り向いた。
だいぶ肌寒くなった秋の風に髪を靡かせながら走ってくる江稜高校の制服を着た女の子。
彼女は立ち止まって、少し不安げな表情をして言う。
「三代くんだよね?」
走って乱れた髪を左手で耳にかける。
春を告げる水芭蕉のように可憐で透き通った声は、どんな年月を跨いでも忘れやしない。やっぱり僕は自分が思っていたよりも、ずっとずっと彼女に恋していたんだ。
彼女に確信がなくても、僕には確信があった。ちょっとした風にでも靡く絹のような髪を左耳だけにかける仕草。ずっと夢に見続けた彼女だ。
僕は頷いてから、自転車を降りて平静を装うように僕は言う。
「そうだよ。久しぶりだね、美奈ちゃん」
「うん、久しぶり。二年ぶりくらいかな」
「そのくらい経つかも」
胸が焼け焦げるほど、もう一度会いたいと思っていた。でも、彼女には会いたくなかった。だって、今僕の胸はこんなにも苦しい。
ずっと聞きたかった声。いや、聞きたくなかった声だ。彼女の声は僕にはこの世で一番安らぎを与えてくれる。卵から孵った雛鳥が、最初に見たものを親と思い込むように、彼女の声は安らぎの声として僕の遺伝子に深く刷り込まれているんだ。だってほら、彼女の声を聞くだけで自然と表情が優しくなる。
でも、どうして今なんだ。
天使が僕の運命を弄んているように思えて、つい悔しくなる。
僕は何かをごまかすように、ほほ笑んで言う。
「美奈ちゃんは、変わらないね」
「そうかな、これでも背が伸びたんだよ。賢ちゃんはずいぶんと痩せたね」
自転車に乗った僕が目の前を通った時、きっと僕だと確信できなかったから苗字で尋ねたのだろう。賢ちゃんという響きを耳にして、蜂蜜色の空気に包まれたような気分になる。僕の周りの空気の色を瞬時に変えられるのは、やっぱり彼女だけだ。
「そうなんだ。高校からバドミントンを始めたんだ。それと、毎日ひぶな坂をチャリで走っていたら、一気に痩せたよ。別人に見えた?」
「まるっきり別人ではないけど、さっき目の前を通り過ぎた時、違う人かと思った」
木枯らしのような風に、彼女の髪が揺れる。
「髪伸ばしたんだ」
前回会った中学二年生の時と比べると、五センチほど伸びている。今の長さだと、肩甲骨の下あたりまで到達する長さだろう。
更に大人に一歩近づいた彼女は、益々綺麗になった。元々彼女は母親に似ていて、成長するほど行く末は想像しやすかったけど、想像を超えて彼女は美しかった。
彼女はほほ笑んで頷く。そして、摩周湖のように深く澄んだ瞳で、僕の顔を見る。
「元気そうでよかった」
無事に戻ってきた家出した猫を抱え上げる時のような表情に、また僕の胸が痛む。
――そんな目で見ないでよ。
君の目を見ていると、また隣にいたいと願ってしまうじゃないか。
夢でなく幸せを選んだ僕だけど、やっぱり彼女の隣にいた日々を忘れられない。再び彼女の隣にいることを諦めたはずなのに、彼女への執着を捨てたはずなのに。
これが夢ならば、どれほどよかっただろう。僕は君じゃない女の子の隣にいることを望んだんだ。その子は僕が隣にいることを許してくれた。
僕はほんの僅かだけど、眉を寄せて言う。
「高校は楽しい?」
彼女に尋ねているのに、僕はもう会話を終わらせたかった。一秒でも早く自転車を漕ぎだしたかった。これ以上彼女の声を聞いていると僕は……。
「うん、楽しいよ。そうそう、高校から美術部に入ったんだ」
美術部という言葉を耳にして、心臓が跳ねるように鼓動した。
「そっか、楽しそうでよかった」
彼女の笑顔の向こうに、バス停に立つ一人の女子生徒が僕らの方を見ていた。
「バス停にいるあの子は友達?」
彼女は振り向いてから言った。
「うん、同じ美術部の子。今日は部活がないし、帰る方向が同じだから時々一緒にバスで帰るんだ。友達と一緒に帰るのもいいけど、一緒に帰る彼氏でもいたらいいんだけどね」
高校生になって彼氏ができたんだ。とても幸せそうな表情をして、そう言ってくれ
れば諦めがつくのに。
また風が通り過ぎて、絹のような彼女の髪が舞った。彼女は左耳だけに髪をかける。癖のような仕草だけど、僕はその仕草は大好きだった。髪がかかった綺麗な耳もまた僕にとって彼女のシンボルだった。
これ以上彼女といると、夢を諦めた僕が蘇りそうで眩暈に似た感覚に襲われた。
僕は言う。
「ねえ」
「うん、何?」
――いっしょに帰ろうよ。
そう口にできれば、僕は再び夢を追いかけられるような気がした。
「バスが来たんじゃない?」
彼女は振り向いて、バスの番号を確認した。
「うん、あのバスだ」
「久々に話せて楽しかった。最近寒くなってきたら風邪ひかないようにね」
「うん、ありがと。賢ちゃんもね」
「ありがと。したっけね」
「うん、したっけね」
彼女はバス停に向かって駆け出した。バスのステップに片足を乗せた彼女は、一瞬僕の方を向いて線香花火が咲くように小さく手を振った。
彼女が友達と一緒に乗ったバスが走り去る。バスの中は多くの学生で、彼女の姿を確認することはできなかったけど、僕は心の中で彼女の名前を囁いた。
君と初めて会った時から、僕は君に恋したんだ。会えなくても、君の声が聞こえなくても、ずっと君に恋していた。遠ざかるバスに向かって君の名前を叫びたいけど、見えない手で心臓を掴むように衝動を抑えられる。
会えなくて悶々とした日々も、君と同じ高校に通えなくて悲しんだ日々も、そのすべてを愛せるような気がした。
やっぱり今でも君は僕のポラリスだったね。僕はそのことを事実として受け入れるしかない。もし仮に僕らが胸に抱く想いが一致していたとしても、僕はこの光を胸に抱き続けて生きていくことを決意したんだ。
だから僕は、彼女の空気が残るこの場から去るように自転車を漕ぎ出した。
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