ポラリスの夢と小さな幸せ③

 前期の期末考査を終え、教室に漂っていた張りつめた空気は秋の風にきれいさっぱりと流されてしまったようだ。テストを終えたので、浜田をはじめとした部活が高校生活の中心派の生徒は、息を吹き返したように活気に満ちあふれていた。

 テストの翌週には採点した解答用紙がミッチェルから返却された。先生の動きは機敏とは言えないけど、テストの採点と用紙の返却は他の先生よりも異様に早い。だから、全科目の中で数学は中間テストに引き続き一番最初に返却された。

 名前を呼ばれた僕は教壇に立つミッチェルの所に向かうと、僕の手に解答用紙を渡そうとしたミッチェルは気味悪く笑った。だけど、返された解答用紙を目にして彼が笑った理由が分かった。だから、僕は答案用紙を受け取った後、ミッチェルを真似て気味悪く笑って見せた。

 小山さんも名前が呼ばれた。席に戻った彼女は、返却された解答用紙をまじまじと見つめ、今にも笑みがこぼれそうな表情をしていた。きっと想像以上に良い点数がとれたのだろう。

 答案用紙を手に持ちながら席に戻ってきた小山さんは、僕と目が合うとニンマリとしながら言う。

「今回は私が勝ったかな、へへっ」

 勝ち誇ったような、不敵な笑みを浮かべる。でも、僕は彼女に負けない自信はあった。だから、彼女のようにニンマリとして言ってやりたいけど、ここは我慢する。そして、彼女の誘いに乗るふりをして尋ねる。

「今回は納得いく点数だったみたいだね。何点だったの?」

「知りたい?」

「うん」

「どうだ」

 思い切って見せる彼女の手の用紙には、九八と赤い文字で書かれていた。その点数を目にした僕は、すぐに自分の解答用紙を見せたかったけど、まだ我慢する。

「凄い、前期を上回ったね」

「うん。もう少しで一○○点だったのに、あ~、もう」

 自分への苛立ちを表に出し、悔しがる彼女はなんだか可愛らしかった。

「ところで三代くんは?」

「僕の点数はいいよ」

「私の点数を教えたんだから、教えてよ」

「いいじゃん」

 僕は机に突っ伏すようにして、解答用紙を見えないようにブロックした。そんな僕の腕を小山さんは両手で持ち上げ、強引に僕の解答用紙を覗き込んだ。

「げっ」

 彼女の驚いた声を聞いて、僕は諦めて顔を上げた。

「てかさ~、別に隠す点数じゃないじゃん」

「そうだけどさ」

 小山さんは計算間違いをした解答が一つだけあって、三角をつけられて九八点だった。僕は彼女を上回る一○○点だった。彼女とは勝ち負けを争いたくなかったから、点数を見せたくはなかった。

「あ~あ、また負けた」

「そうやって眉を寄せると可愛いくなくなるよ」

「ふん、二連敗はなまら悔しいんだよ。今回は勝ったと思ったんだけどな~」

 そう言って、彼女は僕の腕を握った拳で軽く叩く。プンプンと怒る彼女もまた可愛いらしい。

 全員分の答案用紙を返却し終えた先生は、僕らに前を向くように言った。小山さんとのやりとりを切り上げて前を向くと、ミッチェルは僕と小山さんを見てニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべていた。僕はミッチェルと目が合って、顔が引きつった。

 全員に用紙を配り終えたミッチェルは、テスト問題について解説を始めた。解説を終えたミッチェルは、またしても一番と二番は僕と小山さんだったことを暴露し、そして決まり文句のように言う。

「私、期末テストで確信しました。小山さんと三代くんの間には、間違いなく数学ができる子供が生まれてくるでしょう」

 中間テストの返却時を再現するかのように、また奥村がミッチェルの言葉に便乗して声をあげる。

「ひゅーひゅー、二人とも、もう結婚してしまえ」

 僕は額に手を当て俯く。視界の片隅に映る小山さんは、また顔を真っ赤にしていた。

 ――ミッチェルよ、いい加減僕らをいじるのは止めてくれ。

 そして、奥村の発言に周りのみんなはニヤニヤしながら僕らを見つめていた。

「私も奥村君の意見に賛成ですね」

 火に油を注ぐ先生の一言だった。

「お二人が結婚して、お子さんが生まれたとしても私が数学を教えることはないと思いますが、数学が得意な子供が増えることは教師としても喜ばしいことです」

 誰が始めたのか知らないが、なぜかみんな拍手をし始めた。僕はどうすればよいのか分からなく、隣の小山さんに視線を向けた。僕の視線に気づいた小山さんが首を僕に向け、目が合った。

 僕らは二人して、苦笑いしかできなかった。

 みんなの視線を耐えていた僕らを救うように、チャイムが鳴った。

 幸いにも、今日の昼は学食に行く日だった。一秒でも早く、この空気の中から脱出したかった。大丸はお弁当を持ってきていたから、僕と紀夫は岡野を誘って学食に向かった。


 紀夫はいつものように、カレーそばとチャーハンをトレーに乗せて黙々と食べているから、僕はエスカロップを食べながら岡野とバドミントンの話をした。僕らは入部した当初は完全なる初心者だったけど、半年近くも練習すると戦術的な話もできるようにはなっていた。

「俺もよ、浜田やお前らみたいにバシバシとさスマッシュ打ちたいよ」

 箸休めなのか分からないけど、時折紀夫は何かを思い出すように口をはさんだ。

 僕は言う。

「相手の返球が甘かったら打てばいいじゃん」

「そうだけどよ、俺は守備型だからさ、スマッシュばっか打っていると斎藤先生に叱られるんだよ」

 斎藤先生は羽球部の顧問の先生だ。紀夫は背が高くてスマッシュが得意そうに見えるけど、周りが思っているほど上手くはない。だから、先生に守備に徹しろと注意を受けることが多い。

 そうして、紀夫は再び食べることに集中する。

 彼が食べ終わる頃を見計らうように、岡野は言う。

「そう言えば紀夫、お前結構伊藤さんと上手くいってるらしいじゃん」

「そうだな、自分でも順調だと言えるな」

「いつから付き合うのよ?」

「期末テストの科目平均が七○点を超えたら」

 彼の言葉を聞いて、僕は一つの疑問が解消した。紀夫は中間テストの時よりも明らかに気合いをいれて勉強していた。それは普段の行動からも現れていて、休み時間も勉強していた彼の姿を何度も目にしている。

 きっと紀夫は、自分に課した平均点を超えた場合、伊藤さんに告白をするつもりなのだろう。僕は心の中で、彼の平均点が目標を超えることを強く願う。

「お前なら七○点くらい、軽く超えるだろ」

「今回は行くかも。数学でさっそく八○点とれたしな」

 彼の点数を聞いて、僕と岡野はほほ笑んだ。

 急に岡野は僕に話題を振る。

「で、三代はどうなの?」

「どうなのって?」

「決まっているじゃん、小山さんとだよ。夏休みに、紀夫とダブルデートをしたんだってな」

 どうして知っている、と言いたくなったけど、出所は紀夫しかいない。

 僕は苦笑いしながら言う。

「それから特に何もないよ」

「二人でテスト勉強したらしいじゃん」

 紀夫が言う。どうして知っている、とまた言いたくなったが、恐らく小山さんが伊藤さんに話し、それが紀夫に伝わったのだろう。きっと女の子は仲が良い友達に、こうしたイベントを共有することにハードルが存在しないのかもしれない。また一つ、女の子の習性について賢くなった気がした。

「ただ勉強しただけ。デートでも何でもないよ」

 岡野が拗ねたように言う。

「俺からすればデートだよ」

「そうかな」

「そうだよ。いいか、三代。普通、テスト勉強だからと言って女の子は男にほいほいついていかないからな。俺の見立てでは、小山さんはお前が押せば、間違いなく落ちる」

 なんの根拠があるのかは知らないけど、彼の言葉は自信満々だった。それと、岡野は色々と上手くいかないことを体験してきたのだろう。僕が彼の言葉に助けられるのは、いたって普通の学生が体験した感想をベースに言葉として伝えてくれるからなんだと思う。彼は自分がうまくいかなかったこととは一言も言わないけど、彼の言葉の背景には彼の体験が潜んでいるのだろうし、それは彼なりの優しさでもあるのだろう。

 だけど僕にはまだ自信がない。

「僕には分からないよ」

「そうだって。お前もっと自信持てよ」

 岡野は僕の肩を力強く叩く。

「ちなみによ、お前はどう思っているわけ?」

 僕は紀夫の質問に頭を揺さぶられたような感覚に襲われる。

 ――僕は小山さんのことを、どう思っているのだろう?

 気になる存在? 好きな女の子? はっきりと言葉にできない。

「よく分からない」

 本当に分からなかった。

 ――気になるのは伊藤さんだよ。

 と紀夫は言った。彼のようにはっきりと言えればどんなに晴れやだろう。僕の心には濃霧が立ち込めているようだ。

「分からないのは、こっちだよ。二人で勉強したりする仲だろ、小山さんのこと好きだから一緒に勉強したんじゃないの?」

 普通だったら、そうかもしれない。だけど、僕には忘れられない女の子がいる。心の中に彼女がまだいる。僕は可能性がある限り、彼女を追いかけ続けたいんだ。

 そう答えたいけど、僕はこう言った。

「そうかもしれない」

 岡野は僕を叱るように言う。

「そうかもしれないって、なんだよ。いいか、俺らはもう高校生だ。まだ子供かもしれないけどさ、二人きりで過ごす時間があれば相手からの好意を期待してしまう年頃なんだぜ」

 彼が言ったことは僕も納得できる。だけど、僕は単に小山さんと勉強をしたかっただけだと言いたかった。きっと岡野は納得してくれやしないだろうけど。

 僕は一口、水を飲む。

 自分でも理解できなかったけど、心のうちに留めておくことしか考えていなかったことを僕は口にしてしまう。

「本当は、他に好きな人がいるんだ」

 今まで深刻な雰囲気で話してた二人は、いきなり嬉しそうな表情に様変わりした。

「誰、誰? もしかして、和田さん?」

 好奇心に満ちあふれた目で岡野は言った。

 僕は首を横に振る。

「同じクラスでも、同じ学校でもないんだ」

「違う学校なのか?」

「うん。江稜の子」

 僕はいったい何を話しているんだ、とこの時思っていたけど、自分で話してしまった以上後戻りはできないことも分かっていた。混乱と冷静が混ざり合った不思議な感覚だ。

 僕は彼女との経緯をかいつまんで二人に話した。最初は興味津々と聞いていた二人だったけど、徐々に怪訝な表情に変わっていった。

 紀夫は言う。

「もう、一年以上会っていないんだろ」

「うん。彼女と最後に会ったのは中学二年生の時かな」

「それでも、やっぱり彼女が好きなわけ?」

「今でも好きだよ。でも」

「でも……?」

「今でも彼女が好きな気持ちがある一方で、心の中で小山さんの存在が大きくなりはじめているんだ」

 岡野は大きくため息をついた。

「それって、小山さんが気になるってことじゃん。三代さー、自分の気持ちにも疎くてどうするんだよ。自分の中に芽生えた変化に、もっと目を向けようぜ。もし俺がお前の立場だったら、迷わず小山さんを選ぶよ。いつまた会えるか分からない女の子との出会いを期待して待っているよりも、身近な小山さんを選んだほうがよっぽど現実的だと思うけどな」

 僕は黙ってしまう。

「まあ、初恋の相手を想う気持ちは分かるけど、俺も岡野に賛成するわ。俺の場合、初恋の子は神奈川に転校して行ったから、あっと言う間に終わった恋だったけどな。わっはっは」

 僕を慰めようとしてくれたのか、それとも諭そうとしたのか分からないけど、紀夫は豪快に笑って僕の肩を音が出るくらい叩いた。

 僕は二人に言う。

「自分の心と向き合ってみる」

 今の僕には、この言葉しか言えなかった。

「よく考えなよ。いいか、俺は紀夫も三代も上手くいってほしいんだ。一つだけ言っておく、忘れるな。俺はどんな時でも、お前らの相談に乗る。だから、困ったことがあれば遠慮せず言ってくれ」

「ありがとう、岡野」

「いいって。食い終わったし、そろそろ教室に戻ろうぜ」

 食器を下げに向かう岡野の背中は、頼もしく見えた。


 その日は部活がない日だった。

 放課後になって紀夫に筋トレしようと誘われたけど、僕は断った。教室の前の吹き抜けの手すりにもたれ掛かりながら、僕はステンドグラスを眺めていた。

 そして、廊下を行き交う生徒の喧騒の中で彼女のことを考えた。

 彼女と僕の運命の線がこの先交わることがないのかもしれない。今の僕にできることは、このステンドグラスのように美しい彼女との思い出を保ち続けて生きていくことなのかもしれない。初恋を犠牲に、この美しい思い出を保つ。それが、僕にとっての最適解に思えてきた。

 地球がどんなに動いても、僕らの頭上にいつも輝くポラリスのように、心の中で彼女が笑っているだけでいいんだ。だから僕は、太った自分を脱ぎ捨て痩せた自分に生まれ変わったように、彼女の幻想に縛られたままの自分を脱ぎ捨てる必要がある。

 子供の頃、父親に連れられて白樺台の奥の昆布森を越えた野原で見た満点の星空を思い出して、なんだか泣きたかった。彼女は僕の手が届かない遠くにいってしまって、僕はその美しい輝きが続くことを願うしかできない。

 さよなら、というのは相応しくないと思えて、僕は心の中でこう言う。

 ――ありがとう、美奈ちゃん。

 君と出会えたおかげで、僕は自分の中に芽生えた恋心を知った。

 ――これから僕は、新しい自分として歩き出すよ。

 これでいいんだ。これが、僕が出した最適解なんだ。自分に言い聞かせるように、初めて彼女への決別を言葉にした。なのに胸がズキズキと痛み、目の奥が熱くなる。頭を振って、夜空に輝くポラリスを追い出そうとする。

 少し長めに息を吸い、滲み出た涙を拭いた。

 ふーっと息を吐いて、僕は吹き抜けを後にする。階段に差し掛かった時だった。上階からタタタッと下りてきた生徒に視線が向いた。小山さんだった。

「あれっ、三代くん今帰り?」

 鼻の奥がまだちょっと痛いけど、我慢して僕は言う。

「うん、今日は部活が休みだから帰ろうと思って。小山さんは部活でしょ?」

「そうだよ。ちょっとお茶を買いに行こう思って美術室から下りてきたんだ」

「コンビニまで行くの?」

「うん」

「じゃあ、一緒に行こうよ」

 そう言って、僕らは一緒に校舎を出た。自転車置き場から自転車を持ってきて、下校する生徒の流れに乗ってコンビニに向かう。

 秋の夕方の空気に少しずつ冬の気配が含まれてきたようで、無性に寂しい気持ちになった。

「今は何の絵を描いているの?」

「幣舞橋を描いているんだ」

「素敵だね。昼間の橋、それとも夕方?」

 小山さんはほほ笑んで言う。

「どちらだと思う?」

 紀夫に誘われて小山さんと一緒に幣舞橋を渡った日は、青春という言葉を色にしたような清々しい青空だった。でも、あの橋を有名にしているのは夕日だ。だから、僕はどちらかのような気がしたけど、こう言う。

「霧の日の橋」

 小山さんは一瞬きょとんとしたような表情を見せてから、笑った。

「霧だと橋が見えないじゃん」

 そんなの分かっている。

 目の前にいる女の子に笑ってほしくて、冗談を言う。自分と関わる人にポジティブな気持ちになってもらいたい、そう思えるようになった僕は少し成長したのかもしれない。

 コンビニがある交差点に近づく。僕は硬直しそうになる頬を軽く叩き、そしてほほ笑んでから言う。

「小山さん」

「うん、何?」

「期末テストが終わったから、今度耳をすませばを観に行かない?」

「いいね、ちょうど観たい映画だったんだ」

 爽やかな秋風のような笑顔で彼女は言う。

 僕は彼女の笑顔を心に取り込んで、新しい自分として生きることを心に決めた。

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