第二話 ポラリスの夢と小さな幸せ

ポラリスの夢と小さな幸せ①

 高校生になって最初の夏休みは、想像以上に単調だった。

 部活が七割、残りを宿題と読書とアルバイトに費やす日々だった。アルバイトをするつもりはなかったけど、岡野の親戚が経営しているお菓子工場の手伝いに誘われて、週に三日だけ手伝うことになった。

 お盆の墓参りを終えて、夏休みも残り三日となった日だった。突然紀夫から自宅に電話がかかってきた。母から「のりちゃんから電話」と声をかけられ、二階の自室から居間に下りて電話に出た。

 部活に誘ってくれた紀夫のことは何度か母に話したことがあり、いつの間にか母は紀夫をのりちゃんとちゃん付けで呼ぶようになっていた。これまで一度も電話なんてしてこなかったのに、どういう風の吹き回しだろうと首を傾げながら電話に出る。

「もしもし」

「おー、突然電話してわりぃ」

「どうしたの?」

「突然だけどさ、明日空いてっか?」

 突然の電話、突然の誘いと何もかもが突然だけど、明日は予定が空いているので悪い気はしなかった。

「空いてるよ」

「宿題終わっているだろ?」

「うん、全部終わってる」

「じゃあ、遊びに行こうぜ」

「いいよ」

「じゃあ、ぬさまい公園に一○時集合な」

「分かった」

 どうやら街で遊ぶようだ。夏休みは岡野のお陰? で懐が温かい。お年玉より何倍も貯まったお金の使い道を決めかねていたところだ。実は既にバドミントンのシューズを一足買っていた。それでも、あと一○足くらい買えるくらいのお金が残っていた。


 翌日、僕は紀夫が指定した時間の一五分も前にぬさまい公園に着いた。手すりに腕を置いて幣舞橋ぬさまいばしを通り過ぎる車とカモメを眺めて、紀夫の到着を待った。今日はきっと岡野と野田も誘われているのだろう。

 今日は幸運にも青空だった。晴れ渡った空を眺めて、僕は終業式の日に見た小山さんの笑顔を思い出す。あと三日もすれば、また小山さんの顔を見れると考えると、唇の両端が少し上がるような気がした。

 釧路川の上を飛ぶカモメを眺めるのも飽きたので、花時計を見ていた。上からの角度だと時計に植えられた季節の花は豊かな表情を見せてくれない。やっぱり花時計は幣舞橋から見るのが一番だなと思っていた時だった。

 遠くから僕を呼ぶ声が聞こえたので振り向くと、こちらに歩いて向かってくる紀夫の姿が目に入った。僕は紀夫と並んで歩く人物を目にして言葉を失う。

「よー、お待たせ」

 彼の言葉に何も言えなかった。

「なんだよ、黙って」

「いや」

「まあ、驚くのも無理はないよな」

 そう、彼の隣にいたのは伊藤さんだった。てっきり岡野と一緒に来るものだと思っていた僕の頭を、後ろからハンマーで殴られたような衝撃を覚える。

 伊藤さんは僕を見て「こんにちは」と言う。

 だから僕も「こんにちは」と言った。そして、僕は続けて紀夫に訊く。

「紀夫が伊藤さんを誘ったの?」

「まあ、そんなところだ」

 紀夫が伊藤さんを気に入っていることは知っている。だけど、こうやって夏休みに一緒に遊びに行く間柄になっているとは知らなかったし、せっかく二人で遊びにいくのであれば僕は余計な存在だと思った。だから紀夫が僕を誘う理由が分からない。

 だから僕は言う。

「せっかくだから二人で遊びに行ったら?」

「まあ、そう言うなって。あと一人来るからさ」

 彼がそう言って一分もしないうちに、僕らのところに真っ直ぐ走ってくる人影が目に入る。僕はその人物の顔を見て、喉を絞められたような感覚に襲われる。

「ごめんなさい、お待たせしました~」

 集合時間から一分だけ過ぎたくらいだ、たいした待っていない。

「大丈夫、俺らも今ついたばかりだし」

「そう、それならよかった」

 まさか夏休み中に優しい猫のような声を聞くとは思っていなかった。

「みんなそろったし、行こうぜ」

 紀夫が口にした言葉で、僕は額に手を押さえたくなる。これじゃあ、完全にダブルデートじゃないか。デートを意識したせいか、頬が急に火照ほてる。

 仕組んだな、という意味を込めて紀夫を凝視する。僕の視線に気づいた紀夫は、ニヤニヤして僕の訴えを受け流すだけだった。

 僕らは出世坂を下りる。僕はこの出世坂が醸し出す雰囲気が好きだ。坂を並木が挟み、緑の回廊のようだ。夏はこの木陰が気持ちいい。昔は坂の上に学校があって、向上心に溢れる学生が行き交う坂だから出世坂と名づけられたらしい。これから自分の可能性を大いに試す僕らにぴったりな坂だと思う。

 幣舞橋にかかると、潮の香りが僕らの鼻を掠める。潮の香りは僕らの街が港町であることを実感させてくれる。

 紀夫はどこに向かうかは口にしなかったから、僕らは黙ってついて行くしかできない。先導する紀夫の横にぴったりと伊藤さんが並んで歩いているから、僕は小山さんと並んで歩く。幣舞橋を渡る最中、彼女は通り過ぎていく四季の像を名残惜しそうに眺めていた。

 冬の像の前を通り過ぎると、不意に彼女が言う。

「ねえ、どの像が好き?」

 僕は考えてから、反対側の歩道を指差して言う。

「夏の像かな」

「どうして?」

 理由を訊きたがるところが美術部員らしいなと思う。

 僕はほほ笑んで言う。

「夏の太陽の眩しさに手をかざしている躍動感かな。あとポニーテール」

 真面目な答えに萌えの要素を織り交ぜたことを笑ったのかは分からないけど、小山さんは「何それ」と言いながら笑っていた。

「じゃあ、小山さんは?」

「そうね、私は冬の像かな。春を待つ姿は寒いこの街にぴったりだと思う。それに腰が細くて羨ましい」

「像は作者の理想像を形にしたものだし、女の子のあるべきスタイルを表現したものではないから気にしなくてもいいんじゃないの?」

 僕はつい正論を口にしてしまう。

「まあ、そうだけど、やっぱり女の子としては憧れてしまうもんだよ」

 僕はやっぱり女の子の気持ちに疎いのだろう。

 幣舞橋を渡った僕らはMooの植物園に入った。確かエバー・グリーン・ガーデンの頭文字をとってeggという名称だったような気がする。何回か通ったことはあるけど、これといった見所はない植物園だ。だけど、今日の植物園は多くの人で溢れていた。

「何かやっているみたいだから、見ていこうぜ」

 紀夫が言った。

 しばらくすると、植物園の真ん中あたりにセットされた小さなステージに楽器を持った人たちがあがって演奏を始めた。どうやらミニコンサートのようだ。ステージの人たちはバイオリンやバイオリンを大きくしたような弦楽器を弾いていた。曲名は知らなかったけど、クラスメートと一緒に生演奏を聞いているだけで、心の中はヨーロッパの自転車レースのテレビ放送で映るような、ひまわり畑の景色が広がった。

 演奏が終わると、僕らはMooの中を目的もなく歩いた。Mooの正式名所はフィッシャーマンズワーフMooといって、この街では有名な複合商業施設で観光客も多く足を運ぶ施設だ。その施設の中を目的もなく歩き回るだけだったけど、お土産屋さんのキーホルダーを見てかわいいねと言ったりしている小山さんと伊藤さんを見ているだけで気持ちが和んだ。女子高生はやたらと「かわいいね」という言葉を多用することに僕はこの時気づいた。


 お昼が近づくと、僕らは泉屋に向かった。これも紀夫の提案だ。泉屋はぼくらの街では老舗洋食店で、市民であれば誰もが名前を知っているくらい多くの人に愛されているお店だ。

 僕らは名物のスパカツとサラダ、そしてハンバーグとソーセージが混ざったミックスグリル、あとグラタンを頼んでシェアした。スパカツは熱々の鉄板の上に盛られたスパゲティの上にカツが乗せられ、ミートソースをかけたガッツリ系の一品だ。食べ盛りの僕らでも、一人で食べればお腹がパンパンになる。

 小山さんと伊藤さんは体育会系の部活ではないから僕が想像していたよりも小食だった。七割弱を僕と紀夫で平らげると、二人は「凄い」と言ってくれた。

 岡野の親戚のバイト代があったので、会計は僕と紀夫で持つことにした。

 その後、紀夫が口にしたプランはボウリングだった。二人とも反対はしなかった。北大通を歩きながら小学校の時の先生がボーリングを趣味にしていたことを思い出す。好きでも嫌いでもなかった先生だったけど、もし偶然会ったら僕は声をかけるかもしれない。

 案の定、紀夫はチーム戦をやろうと言い出した。紀夫と伊藤さん、僕と小山さんの組み合わせで競う形だ。小山さんと伊藤さんはお世辞にも上手とは言えなかった。得意げにボウリングと言い出した紀夫も思ったよりも上手ではなかった。僕は小学生の頃から時々ヒルトップのボウリング場で遊んだことがあったから、他の三人よりは点数を稼げた。


 ボウリングを終えた僕らは、小山さんの勧めで北大通に面した古本屋の二階にある喫茶店に入った。高校生にとっては少々値が高いと感じる珈琲を提供してくれる喫茶店だったし、雰囲気も初めて味わう大人の雰囲気だった。そわそわしてしまいそうな雰囲気の中で小山さんだけは落ち着いていた。

 普段珈琲は全く飲まない僕は、アイスカフェラテを注文した。珈琲の苦味は苦手だから、牛乳を混ぜて更にシロップを加えないと飲めない。

 小山さんは注文したアイスコーヒーにほんの少しシロップを加えただけだった。そのアイスコーヒーを苦い表情を全く見せずに飲む姿を目にして、コーヒーゼリーをくれた初恋の彼女と姿が重なり、幼稚園の頃に口にしたコーヒーゼリーの味が蘇る。

 古本屋の二階にあるだけあって、店内は読書しながら珈琲を楽しんでいるお客さんが大半を占めていた。僕らはこの雰囲気の邪魔にならないように小声で話した。だから自然と顔が近くなる。話題はなぜか僕と紀夫が女子の中でどのくらい人気があるのか、ということだった。

 伊藤さんが言う。

「二人とも最初は話題にはならなかったけど、夏前頃から挙がるようになったよ」

 入学当初、僕と紀夫もぽっちゃり気味だった。それが羽球部のハードな練習と日々のチャリ通が奏功し、一気に身体が絞られた。その影響もあったのかもしれない。

「一番は誰?」

 紀夫が言った。

「一番は奥村くん。面白いしスポーツマンだし、意外と優しい」

 僕は伊藤さんの話を聞いて、やっぱりなと思った。小学校の時から野球とサッカーをやっている男子は必ずと言っていいほどモテる。奥村は僕から見てもカッコいいと思えるから、女子の人気は間違いなく一番だろう。

「ねっ、俺は何番?」

 伊藤さんが目の前にいるのに、どうしてそういうことを訊きたがるのか僕には分からない。

「紀夫くんはトップ一○には入っていたよ」

「じゃあ三代は?」

「三代くんはトップ五」

「なんで?」

 アイスコーヒーのストローから口を放した伊藤さんは言う。

「女装が似合っていたからみたい」

「そんな理由だけで?」

「それだけじゃないけど……」

 そう言って伊藤さんは小山さんを見る。助け舟を求めるような視線だったけど、意外にも小山さんはグラスを持ちストローに口をつけてすぐに離しただけだった。

 伊藤さんは続ける。

「紀夫くんは、どうして順位が気になるの?」

 同感だった。

 伊藤さんだけに振り向いてもらえればそれでいいんじゃないの、どうして他の女子の評価が気になるの? と僕もつっこみたくなるけど、その言葉を飲み込んだ。

「俺は過去の自分を殺したんだ」

「殺した?」

「ちょっと物騒な表現だな。言い換えれば、生まれ変わったとでも表現したほうが良

かったな」

 きょとんとしている二人に紀夫は続ける。

「俺は中学のころから少し太っててさ、そんな自分が嫌で嫌で仕方がなかった。太っている自分を変えたかった。だから、高校に入ってサッカーではなくバドミントンを選んだんだ。そして、ようやく過去の自分から変われた。自分が変われたことの自覚だけじゃなく、客観的にも知りたかったんだ。俺って周りに面白いって言われるけど女の子には全くモテなかったんだ。クラスの女子に見向きもされなかったし、俺をとりまくのは男子だけだった。だから、変わった俺が女子の目にどう映っているのかを知りたかったわけさ」

 わははと紀夫は笑って、アイスコーヒーのストローに口をつけた。

 彼の話に半分共感できた。紀夫と同じく体型は変わったけど、考え方が以前と変わらないのは彼の変化と違った点だった。

 紀夫の話しを聞いて、僕はポジティブな彼がうらやましいと思えた。

 その後僕らは何気ない会話を楽しんだ。会話をしながら、僕は彼女のことを考えた。小さいころからコーヒーゼリーを食べていたんだ、高校生になった彼女はこういう喫茶店に入ったりしているのかな? など、話題の合間に想像を膨らませていた。

 高校生の時間はあっという間に過ぎていく。気づけば入店してから一時間以上が経過していた。「そろそろ出ようか」と紀夫が口にして、僕らは立ち上がった。

 喫茶店の代金を小山さんが出そうとしていたので、僕は小山さんの手から伝票を抜き取り、すばやく会計を済ました。


 一六時を過ぎていたので、僕らは解散することにした。伊藤さんは米町に住んでいるから歩いて帰ると言った。紀夫も歩いて帰るから、幣舞橋を超えるまで伊藤さんと一緒に帰ると言った。僕と小山さんはバスで帰るから、喫茶店を出た所で二人と別れることにした。本当は橋近くのバス停まで一緒に行ってもよかったけど、僕は少しでも紀夫が伊藤さんと二人でいられるように、駅のバスターミナルに向かうと言った。

 少しの間立ち尽くしながら、二人の背中を見守った。小山さんも僕と同じように、二人の背中を眺めていた。その目はとても優しい目をしていた。そして、僕らは歩き出す。

「駅に向かわないの?」

 小山さんは首を傾げて言う。

「駅のバスターミナルよりも、向こうのバス停の方が近いから」

 僕も小山さんも同じ路線だから、わざわざバスターミナルに向かう必要はない。バス停にたどり着いて、時刻表を確認する。バスが停留所に来るまで五分もなかった。駅に向かっていたら、向かっている途中でバスが通り過ぎてしまうかもしれない。

 ほぼ時刻通りにバスが到着した。バスに乗った僕たちは最後部の席に座る。

 僕は小山さんに訊く。

「あの二人、付き合い始めたの?」

 外を眺めていた小山さんは、僕に顔を向けてから言う。

「まだだと思うけど、時間の問題じゃないかな」

 二人が恋人同士になるのは時間の問題だとしたら、伊藤さんも紀夫に対して好意を抱いているだろう。紀夫が気に入っている女の子と恋人になれることは、僕にとっても本望だ。そのことは素直に嬉しかった。

「なんだか嬉しそうだね」

「そりゃそうだよ。高校生になって、最初にできた友達の紀夫が気に入っている女の子と上手く行きそうだからさ」

「紀夫くん、前から沙希のこと気に入っていたの?」

 僕は口にしてよいのか分からないけど、小山さんも気づいていることなので言うことにした。

「そだね、四月くらいには伊藤さんがいいとは言っていたよ」

「へ~、そうなんだ」

「小山さんも嬉しそうだね」

「嬉しいよ。沙希って決してクラスの男子に人気があるほうではないし、あまり自分に自信があるタイプでもない。そんな彼女を好きになってくれる男子がいて、私は素直に嬉しいし、彼女には恋も部活も楽しんでほしいな」

「優しいね」

「沙希は大事な友達だからね」

 やっぱり僕らの境遇は似ている。お互い最初に出来た友達同士が惹かれあう。そんな素敵な出来事が現実に起こっている。じゃあ、僕と小山さんはどうなるのだろう。今朝の紀夫の顔を思い出すと、明らかに僕と小山さんをくっつけたがっているのは、疑いの余地もなかった。

 僕は小山さんを見ながら考える。心の中にいる彼女を追いかけるべきか、それとも今目の前にいる小山さんを好きになる努力をすべきか。周囲の期待と僕の心は乖離し続けていたし、僕は小山さんに対して抱いている感情が恋愛感情なのかもはっきりしなかった。だけど、この機会を逃してしまうと後悔する気もした。

 無情にもバスは僕が降りるバス停にどんどん近づく。それまでに小山さんに何か言うべきな気がしてならなかったから、小山さんと普通に会話できているか分からなかった。焦燥感に駆られ、喉の渇きが強くなる。

 一つ前のバス停で下りる人がいなくて、バスは速度を維持したまま停留所を通過する。僕は降車ボタンを押してバッグの紐を強く握った。

 そして、僕は言う。

「ねえ」

「うん?」

「今度、二人で遊びに行かない?」

 今までの人生で最も勇気を振り絞って発した言葉だった。

 バスが減速する。小山さんは驚いたように目を大きくしていた。ダメだったかな、と思って立ち上がろうとした時、彼女はほほ笑んで言った。

「もちろん、いいよ」

 今度は青空のような澄み渡った笑顔ではなく、海原に沈む夕日のような頬を赤らめた笑顔だった。

 バスが停まる。僕は立ち上がって言う。

「ありがとう、嬉しいよ。じゃあ、二学期に。したっけね」

「うん、したっけね」

 僕は少し汗ばんだ小銭を運転手の横にある清算機に投入した。

 バスを降りて発車するバスに視線を向ける。僕を降ろしたバスは、笑顔で手を振る小山さんを乗せて走り去って行く。

 僕はバスが見えなくなるまで手を振った。

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