今も僕は星の煌めきに手を伸ばす⑧
五月末の中間試験を終えて、暦は六月に変わった。
六月に入ると気温は一五度くらいまで上がり、本格的に温かい日々の到来を感じるようになる。その一方で六月にもなると、月の半分くらいは霧が発生し太陽を拝めなくなる。特に別海町から出て下宿しながら高校に通う大丸は、霧が発生する度に決まり文句のように「また霧かよ」とぼやいていた。
久々に晴れた日の四限目はミッチェルの数学だった。
教室に入ってくるミッチェルの手には、プリントの束があった。僕らはすぐに中間テストが返却されることを察し、まじかよと言う声が複数聞こえた。
礼を終えると、ミッチェルはニヤニヤしながら言う。
「みなさん、お楽しみの採点用紙をお配りしますよ。名前を呼ばれたら受け取りにきてください」
そう言って、ミッチェルは出席番号順に名前を呼び始めた。
僕は一八番目に呼ばれて、テスト用紙を受け取る。僕に答案用紙を渡す時、ミッチェルはニヤリと笑いながら渡した。僕は首を傾げて答案用紙を受け取る。
点数は九五点だった。
一問だけ間違えて、一問は三角がついていた。
結構自信があったのに、一○○点が取れなくて悔しさが湧き出した。
答案用紙を全員に配り終えると、ミッチェルはテストの説明を始めた。僕は間違えた二問以外は解き方が分かっているので、ミッチェルの説明を聞くふりをしながら外を眺めていた。僕が気になるところは三角をつけられた設問だけだ。答えが合っていのに、どうして三角をつけられたのかが納得いかなかった。
僕が気になっていた設問をミッチェルが説明する。やはり答えは合っている。
一通り説明を終えたミッチェルは、チョークを置いて言った。
「採点間違いがあった方、いますか?」
何人かの生徒が足早に教卓に向かう。
ミッチェルは一人ひとり回答を確認して、謝りながら赤ペンで点数を直しては手元のノートにメモをする。採点間違いがあった生徒がみんな席に戻ったタイミングで、僕も席を立つ。
「あら、あなたも。まだ点数が上がるというのですか?」
僕は答えが合っているに、三角の理由を尋ねる。
「ああ、ここですね。あなた、計算間違いしてるのに答えは合っていたので三角にしたのですよ。残念ながら丸はあげられません」
そういうことか。僕は「分かりました」と言って、素直に席に戻った。
「他にいませんか?」
席を立つ生徒は誰もいなかった。
ミッチェルは状況を確認して、教壇を数歩歩いて言う。
「みなさん、今回の中間テストの問題は難しかったですか? 残念ながら九○点を超えたのはたったの二人しかいませんでした。テストの結果で自爆ミッチェルをすることはありませんが、緊張感を持って期末テストに臨んでくださいね」
彼がそう言うと、誰かが「二人って誰ですか?」と言った。
ミッチェルはまたニヤリと笑って言う。
「三代くんと小山さんです。あら、お二人はちょうどそこに座っていましたか」
クラス中の視線が僕と真後ろの女子生徒に集まる。感嘆の声とともに視線が集まるものだから、僕の頬は熱を帯びた。それなのに、ミッチェルは追い打ちをかけるようなことを口にする。
「数学ができるお二人が結婚すれば、数学が得意な子供が生まれてくるでしょうね~」
おい、本気で言っているのか、この教師は。と心の中で叫ぶ。
「ひゅーひゅー、お二人ともお似合いだぜ。このまま、付き合っちゃえ」
遠くから奥村の声が聞こえた。
奥村にこれ以上変なこと言わないでくれと、けん制の意味で視線を向けると、後ろに座る小山さんの顔が視界の片隅に入った。彼女はびっくりするくらい顔を真っ赤にしていた。彼女につられたのか分からないけど、僕まで頬が更に熱くなった。
騒ぎ立てる教室を
礼を終えて、どっかりと椅子に腰を下ろす。緊張感が解けたのか、強い空腹感が襲ってきて、僕は紀夫と大丸とお弁当を食べようとリュックに手を伸ばした時だった。
後の席から顔をせり出すようにして、小山さんが話しかけてきた。僕の肩に顎が乗っかりそうなほどのせり出し方だった。
「ねえ、何点だったの?」
僕は振り向いて彼女を見る。好奇心に緊張感が混ざったような目だった。先ほどあんなに顔を真っ赤にしていたのに、ずいぶんと顔を近づけるもんだ。
僕は折りたたんだ答案用紙を広げて、彼女に見せた。
「九五点だよ」
「あー、二点負けた」
僕が答案用紙を見せたからなのか、彼女も答案用紙を広げて見せてくれた。
彼女は九三点だった。僕は間違えが一つと三角が一つだった。彼女は二つ間違えていた。
僕は尋ねる。
「計算間違いでもしたの?」
「一つは計算間違いで、もう一つは分からなかった」
前後の席に座っているのに、小山さんとは初めて言葉を交わした。甲高くはないけど、なんだか高貴な猫のような綺麗な声だ。
初めてまっすぐ彼女の目を見つめる。小山さんは思った以上に可愛かった。鼻は高くないけど、整った顔立ちをしている。岡野リストに入っていてもおかしくない。
「僕も計算間違いしていたのに答えだけが合っていた問題で三角をもらえたけど、本当ならバツだろうし、実質小山さんと同じ点数だと思うよ」
「じゃあ、今からミッチェルのところに行ってバツつけて下さいって言う?」
ちょっと悪巧みをしている時のような笑顔で彼女は言った。
「自分から点数を減らしてくれなんて言えないよ。ミッチェルが三角をつけてくれたんだから、この設問は三角でいいかな」
「しかたがない、今回の一位は三代くんに譲ろう」
明らかにミッチェルの口調を真似た言い方だった
だから、僕はこう応える。
「恐れ入ります、ミッチェル先生」
僕らは同時に笑った。
小山さんは、一瞬黒板の上にかかっている時計に目を向けたように見えた。
「ねえ、いつもお昼ごはん誰と食べているの?」
「高木と大丸と食べることが多いよ。水曜は学食に行くんだけど、同じ部活で隣のクラスの人とも行く。小山さんは?」
いつも紀夫が想いを寄せる伊藤さんと一緒に食べている姿を見かけたことがあったけど、ここはあえて訊いてみる。
「私は沙希ちゃんかな」
「沙希ちゃん?」
「伊藤さんだよ」
「ああ、休み時間一緒に話している子だよね」
「そうだよ」
お腹に穴が空きそうな空腹感を覚える。僕は早く紀夫と大丸の所に行ってお弁当を開けたかった。だけど、小山さんとの会話を切り上げて、紀夫たちの所に向かうのも失礼だと思うから、何も言いだせなかった。
小山さんは僕が予想もしていなかったことを言う。
「ねえ、一緒にお昼食べようよ」
「えっ」
「テストのこと話していたから、沙希ちゃんどこかに行っちゃった。それに、高木くんと大丸くん、もう食べ終わりそうだよ」
僕は遠くから二人の様子を眺める。確かに、もう食べ終わりそうだし、お弁当だけでは足りないから、いつものように購買にパンを買いに行きそうな雰囲気を
僕は彼女の提案を受け入れる。
「そうだね、食べようか」
「へへ、お腹すいていたんだ」
小山さんは少し安心したようにほほ笑んだ。
自惚れではないけど、小山さんは僕と話をしたかったのかもしれない。お弁当を食べることよりも、ミッチェルに話題にされたことをきっかけとして僕と話すことを選んでくれたように感じた。
彼女は笑顔でリュックからお弁当を取り出した。えんじ色のハンカチに包まれたお弁当箱だった。紀夫の弁当箱と比較すると一回り小さい。
彼女の机にお弁当を置いて向かい合って食べるのは恥ずかしいから、僕は窓を背にして、椅子に横に座る形でお弁当を持つ。小山さんは自分の机に置いていいよ、と言ったけど、僕はこのままでいいと答えた。教室を見回しても、男女でご飯を食べているのは僕らくらいじゃないか。この様子を奥村に見られたら、更に冷やかされそうな予感がするけど、この際だからどうでもよかった。
小山さんはブロッコリーをつまみながら尋ねる。
「三代くんはどこの中学出身?」
「
「私は付属中」
その単語を聞いて、胸がキュッとなる。
――付属中。
正確には北海道教育大学付属釧路中学校だ。入学には受験合格が必要だから、市内でもレベルが高い中学として有名な学校で、初恋の彼女も付属中に通っていた。もしかしたら、小山さんは彼女のことを知っているかもしれない。
そのことを訊いてみたかったけど、僕は言葉を飲み込む。
だけど、小山さんほどの学力があれば江稜に進学してもおかしくないはずだ。なぜ北洋に入学したのかが気になる。その理由を訊こうか迷ったけど、僕は結局訊く。
「付属中の全員が江稜に進学する訳ではないと思うけど、どうして北洋にしたの?」
彼女は一瞬言葉に詰まるような様子をしたけど、照れ隠しするようにほほ笑んで言う。
「内申点が足りなかったんだ。私ね、得意科目と苦手な科目が別れていて、苦手科目が思い切り足を引っ張ったんだ。だから、早いうちから江稜は難しいと思っていたから、北洋に絞っていたよ」
ああ、僕と同じだ。本当は江稜を受けたくても、進路指導で先生から志望校を変えるように言われたのだろう。彼女だけに理由を述べさせたままにするのは忍びなくて僕も言う。
「僕もだよ。数学以外ではクラス順位が悪くて、3とか4ばかりだから江稜に受かる内申点には不十分だったんだ」
僕の言葉を聞いて、彼女は優しくほほ笑む。なんだか、彼女のほほ笑みに救われたような気がした。似たような状況に置かれていたから、同じ苦しみを味わったからこそできる表情なんだと思う。
だから、僕もほほ笑んでみせる。
この話題を切り上げるように、彼女は言う。
「そう言えば、三代くんさ放課後にジャージに着替えているよね。何部に所属してるの?」
「羽球部だよ。小山さんは部活に入っているの?」
「私は美術部」
ああ、岡野とよく通った美術室には小山さんがいたんだ。
「美術部か、憧れるな」
「そうかな、ただ絵を描いているだけだよ。それも黙々とね。人の憧れとはほど遠いと思うけどな」
「絵は自由だから感性がダイレクトに出ると思う。数学の公式みたいに、公式を使えば誰でも問題が解けるようなものとは違うと思う。何枚も絵を描いて基本を身につけて、その上で自分らしさを絵に反映させる。そう簡単にできることではないし、思い通りに描くことも簡単ではないと思っているから、絵で何かを表現することができる人は素敵だと思う」
僕は絵が不得意だ。中学の美術の授業は正直言って嫌だった。だから、絵を描ける人は素直に素敵だなと思う。
つい長く語ってしまったせいか、小山さんはきょとんとしていた。
「どうしたの?」
「いや、そんな風に言う人初めてだったから」
「そうなの?」
「うん。中学から美術をやっているけど、絵を描いているとか言うと、たいてい凄いねで片づけられることが大半だよ。三代くんみたいに美術に携わっていないで、絵の難しさを自分なりに解釈している人はそういないよ」
頬が少し熱く感じる。先ほどの授業でみんなに囃し立てられた余韻だろうか。
「運動系の部活に属しているけど、文系も好きなんだ」
「文系と言うと?」
「本を読むこと」
「あっ、私も読書好きだよ。ねえ、どんな本を読んでいるの?」
僕は中学生の時は吉川英治の本を、最近は学校の図書室から江戸川乱歩を借りて読んでいることを話した。そうしたら、小山さんも図書室で本を借りていると言った。彼女は赤川次郎を借りて読むことがマイブームだと言った。
「江戸川乱歩を読み終わったらでいいから、次は赤川次郎の本も読んでみなよ。読みやすい文章だから、お勧めだよ」
「分かった。今度どの本から読むのがお勧めか、教えてよ」
「いいよ」
読書の話題に区切りがついたところで、予鈴のチャイムが鳴った。僕らは空になったお弁当箱をリュックにしまって、それぞれお手洗いに向かった。
お手洗いから戻ると、廊下で奥村と目が合った。
「三代」
「なに」
彼は近寄ってきて、僕の肩に腕を回して小さな声で言う。
「小山さんといい感じじゃん」
「そんなんじゃないよ」
「授業中にお似合いと言ったけど、俺は本気で思っているぜ。小山さんはさ、なんか物静かなタイプに見えるから、仲良くしてやってくれよ。俺みたいなうるさいタイプより三代みたいな、なんていうかさ優しい男が傍にいてあげるほうがいいと俺は思っるんだ」
僕は驚いて奥村の顔を見る。彼の目を見て、ふざけて言っているのではないことが
分かった。
「まあ、席が近いうちは仲良くしておくよ」
数学の授業でたまにふざけたりするけど、彼は案外クラスのことを考えているのかもしれないし、意外とみんなのことをよく見ている彼は学級委員長に向いているのかもしれない。そう思いながら僕は彼を少し見直した。
席に戻ると、小山さんが先に戻っていた。椅子を引くときに彼女と目が合う。彼女に見えたかどうか分からないけど、チャイムが鳴ったので一瞬だけほほ笑んで椅子に腰を下ろした。
次の授業は英語の文法だ。隣のクラスの担任だ。先生が来るまで、僕は小山さんの
ことを考える。
今日小山さんと話して彼女は魅力的だなと思った。それでもやっぱり僕の中では、初恋の彼女が一番だ。振り向けばいつでも小山さんの顔を見れる、そういう近さがあっても、やっぱり彼女の存在は揺るがない。
僕は心の中でため息をつく。
どうしようもないくらい、僕の心はまだ彼女の色に染まっている。
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