今も僕は星の煌めきに手を伸ばす②

 入学直後のいくつかのイベントが終わると、あっと言う間に学生の本業である勉強が本格化したのは錯覚ではなかった。僕が入学した高校は毎年大学合格者数が右肩上がりで増えていて、勢いとやる気が増している若い先生が多いと市内でも評判だった。

 チャイムが鳴るのと同時に、藤本先生が教室に入ってきた。授業を行う教室の位置を加味して職員室を出るタイミングを逆算しているのだろうか、と考えたくなるほどジャストタイミングだった。

 まだ学級委員が決まっていないので、号令は出席番号一番の荒木が言う。先生に一礼をして、僕らは席に腰を下ろした。

 藤本先生はあと二年ほどで定年らしい。年配の先生だけど声には張りがあり、エネルギッシュな授業を行う先生だった。小太りで禿げているから女子から嫌がられそうな印象だけど、イメージとは逆に女子に人気があると羽球部の先輩が言っていた。

 先生は開口一番で言う。

「はい、みなさん、ちゃんと宿題やってきましたか?」

 昨日、藤本先生は僕らに初めての宿題を出した。宿題と言っても、たったの一問だけど。だから、僕は昨日の授業後の休み時間に宿題を速攻解いておいた。

「昨日は黙っていましたが、私はみなさんの先輩方にミッチェルと呼ばれています。そして多くの生徒は私をとても恐れいてます」

 教室がざわつく。驚きの声と笑い声が混ざったざわつきだった。

 先生は教壇から、最前列の生徒に話しかける。前かがみになって、生徒の視線の高さに顔の位置を合わせて話すから、僕の席からでも迫力が伝わる。

「どうして私がミッチェルと呼ばれているか分かりますか? なぜ、生徒が私を恐れるか想像できますか?」

 訊かれた生徒はみんな「分かりません」と答える。僕も分からない。名前と関連性が伺えない呼び名だし、それに藤本先生は優しそうな印象だから先輩方は何を恐れているのだろうか。

 先生は言う。

「直に分かりますよ」

 藤本先生は不敵な笑みを浮かべた。なんだか気持ち悪い。僕の左隣の女子生徒も気味悪がっているように見えた。

「じゃあ、みんなノートを出して宿題をやったページを開いてください。私が一人ずつ見て回ります」

 そして、藤本先生はゆっくりと右手を水平の位置まで上げ指を折り曲げて言う。

「もし、やっていない場合は、私が手をこうしてみなさんの前に出しますので頭をぶつけてください。私はみなさんを叩きませんよ。あくまで自分からぶつかってきてください。ちなみにサッカー部の人は手加減してくださいね」

 そう言った藤本先生は、荒木からノートを見て回る。何人目かで宿題に全く手をつけていない生徒がいて、先生は人差し指から薬指までの三本の指を第二関節で折り曲げ、宿題をやってこなかった生徒の顔の前で構えた。

「はい、ぶつかってきてください」

 自分でおでこをぶつけた生徒は、少し痛そうな表情をしていた。

 先生はほほ笑んで、宿題のチェックを再開する。

「はい、オッケーです」

「はい、あなたもオッケー」

 テンポ良く生徒の宿題を見てい先生は、廊下側の一番後ろの席で立ち止まる。

「あなた、宿題やっていませんね」

 ノートから生徒の顔に視線を移した先生は言った。

「あなた、もしかしてサッカー部?」

「そうです」

 奥村だった。春なのに、もう日に焼けていて、いかにも外を走りまわっています、という面構えで、入学式の日から印象的な生徒だった。まだ彼と話したことはないけど、名前と顔だけは覚えている。

 先生は手を構えてから言う。

「控え目にお願いしますよ」

「はい」

 そう言って、奥村は勢いよく先生の手にヘディングする。頭をぶつけた奥村は平気そうで、逆に藤本先生が痛そうにしていた。

「あなたは、今度からもっと手加減していいですからね」

 教室中に大爆笑が沸き起こる。

 男子生徒のノートをチェックし終わって、女子生徒のノートのチェックを始める。僕らは入学式からまだ席換えをしていないので、教室の右半分は男子、左半分は女子が座る構図になっている。

 女子生徒の中にも数人、先生の手に頭をぶつけていた。藤本先生はチェックしないと思ったのだろう。

 先生は教卓に戻ってくると、話を始めた。

「一年生だからと言って、宿題の手を抜いてはいけませんよ。特に大学受験を考えている生徒であればなおさらです。東京の生徒さんは中学の時から大学受験を見据えて勉強していますからね。それに有名大学の進学を考えている生徒さんは、だいたい二年生までに三年分の履修範囲を終わらせます。みなさんに一年生のうちから二年の範囲を勉強しなさいとは言いませんが、もしハイレベルな大学への進学を目指す生徒さんがいれば、そのくらいの心構えで臨んでくださいということです」

 先生は一息ついて、続ける。

「宿題を忘れた生徒の方々、痛かったですよね? これで私の恐ろしさは分かったと思います」

「先生の恐ろしさは十分、分かりました。でも、どうしてミッチェルなんですか?」

 質問したのは奥村だった。

「これですよ」

 藤本先生は、そう言って再び人差し指から薬指までの三本を折り曲げ、目の前に突きだした。

「この三本の指がLの字になっているんです。三つのL、三つのエル、ミッチェル、というようになった訳です。誰が名付けたのか分かりませんが、ミッチェルの由来はこれです。ちなみに、宿題を忘れた時の頭突きは自爆ミッチェルと言われています。みなさん自分で頭をぶつけにくるわけですから、自爆なんです。私がみなさんのおでこを小突いているわけではありませんからね。いいですか、今後宿題をやり忘れたら自爆ミッチェルが待っていると覚悟してください」

「分かりました~、思い切り自爆します」

 奥村が大きな声で答える。

「あなたは遠慮していいですからね」

 教室中に笑いの花が咲く。

 二回目の授業にして、ミッチェルはみんなの心を掴んでいたように見えた。やはりベテランの先生になると生徒との距離の詰め方が上手いな、と僕は感心していた。

 心の中で藤本先生ではなく、ミッチェルと呼んでいることに僕自身も驚いた。

「はいはい、授業始めますよ。今日は連立方程式です」

 ミッチェルのように面白い先生がいるだけで、その科目が好きになれる。僕は少しだけほほ笑みながら板書された内容をノートに写し始めた。

 ミッチェルとの出会いが、僕を数学好きの道に引きこむだけではなく、高校生活を大きく変えることになろうとは、この時全く予想できなかった。

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