荒野

尾八原ジュージ

荒野

 年老いた男は未だ、荒野の小さな家に住んでいた。

 その朝目覚めると薄暗い光が窓から差し込んでおり、遠くの方からごうごうと地面を震わせるような音が聞こえた。男はベッドから下りて靴を履き、着替えを済ませ、外に出た。新聞は届いていなかった。もはやこの世界に新聞配達などというものは存在しないように思われた。

 男は遠くを見た。空は灰色に烟っていた。砂煙の彼方に巨大な人影があった。

 巨人の影はゆっくりと動いていた。なにかの粒子を含んだ風がそちらからどっと吹いた。遠くに山火事らしき煙と、巨大な炎が立ち昇るのが見えた。

 男は家の中に入った。妻が大切にしていた植木鉢の植物はすでに皆死んでいた。世話をするべき家畜もすでになかった。居間の壁にかけてある散弾銃をとって追い払うべき森の獣ももういない。

 ほんの数か月前まで、ここは長閑な牧場だった。三人の子どもたちが独り立ちしたあと、男は妻と共にこの家で牧場を切り盛りして暮らしていた。

 子どもたちは時々、各々の子どもたちを連れて帰省した。孫たちは若木のようにすくすくと育ち、男と妻を楽しませ、大いに笑わせた。時々遠足や社会科見学のために、町の子どもたちが訪れることもあった。男は妻と共に彼らのことも歓迎した。

 このままのんびり年をとって静かに死んでいきたい、なるべくなら妻よりも先に死にたいというのが男の願いであった。


 数か月前、突然現れた角を持つ巨人を、人々は「魔王」と呼ぶようになった。それは気まぐれに歩き回り、巨大な体躯をもって行く手にあるものを悉く踏みつぶした。また、呼気は有害な粒子を含んだ風となって世界を駆け回った。

 何もかもが変わった。すべての国が戦争を中止し、巨大な化物に立ち向かった。数えきれないほどの兵士が、武器が、火薬が投入され、膨大な資源が費やされた。

 そしてその結果、人類は滅亡の危機にあり、魔王は今日もそこにある。


 突然巨大な竜巻がこの地方を襲ったとき、男は妻と共に抱きあって過ごした。そのとき既に彼は死を覚悟していた。いずれ訪れるものなら早く訪れてくれとも思った。

 しかし竜巻が過ぎ去ってみると、家と彼らはほとんど無事な格好のまま存在していた。それはまったくの偶然であった。なんの意味もない猛威がただただ吹き荒れ、あらゆる生命を空に巻き上げて無に帰しただけだった。

 乏しくなっていく食料を分け合いながら、男は妻となおも生きていた。すでに子どもたちとは連絡がつかなくなっていた。町の方がどうなっているのかもわからない。家畜は多くが竜巻に巻き上げられ、残った牛や羊たちもばたばたと死んでいった。


 男は家の中を歩き、妻のいる客間に入っていった。部屋中に異臭が漂っていた。ベッドの上で眠っている彼女にはもう息がない。男はベッドサイドに立って、その顔を見下ろした。それから窓の外を見た。庭の一角に一抱えほどの石が置かれている。

 半月ほど前、どこからかこの家に流れ着いた一人の女がいた。痩せ細った腕に赤ん坊を抱えていた。二人の姿を見て、当時まだ生きていた妻の目に光が宿った。男もまた同じ気持ちだった。しかし赤ん坊はその日のうちに、女は次の日の朝に死んだ。飢えと渇きと毒の風に蝕まれた結果だということが、ふたりにはよくわかっていた。

 母子の遺体を庭に埋めながら、男は自分たちの命も永くないことを悟った。老夫婦は近くに転がっていた石を動かして、母子の墓標にした。

 やがて妻が動かなくなった。立ち上がることすら難しくなってから、彼女は夫に頼んでこの部屋へとやってきた。

「ここからあの子たちのお墓が見えるのよ」

 見知らぬ母子の墓を眺めながら、妻はだんだん冷たくなっていった。


 遠くで咆哮らしきものが聞こえた。巨大な影が嗤っている。悪意に満ちた哄笑と共に世界を蹂躙している。男の目にはそのように映った。

 まだあれと戦うものがいるのだろうか、と彼は考えた。世界の命運を背負って生まれた何者かが、今こうしている間もあの魔王と争っているのではないか。そう思えて仕方がなかった。

 男はなおも考えた。自分は世界にたったひとり取り残されてしまったのだろうか。それともまだ、この世界に残っている命があるのだろうか。そして重苦しい咳をした。喉の奥で毒の粒子が、カラカラと音を立てたような気がした。彼はいよいよ死の気配を濃く感じた。

 男は窓から離れると、妻の冷たい額にキスをした。なけなしの食料と水をまとめ、荷物を背負った。居間の暖炉の上にかけておいた散弾銃を手にとり、故障がないかどうかを確かめた。ある限りの弾薬を身につけ、銃を持つと、男は家を出た。

 そして砂煙の向こうに立つ巨大な影に向かって、一歩ずつ歩き始めた。

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