邪宗狩り
水城正太郎/金澤慎太郎
第1話 発端
はじめて『神塔の会』という言葉を聞いたのは、東中野で評判の混雑したパスタ店で食後のアイスコーヒーを啜っていたときだ。アルジャーノン雪村というふざけた芸名の怪談師がとっておきのネタだという風に切り出してきたのである。
「宗教団体の名前みたいなもんなんですけどね。その団体が、今、熱いんですよ」
関西弁のイントネーションで俺を観客にした漫談でも始めようかという調子だ。話は確実に長くなるだろう。
「喫茶店に移るか」
俺はテーブルに小銭を置いて立ち上がった。
雪村はよれた長袖のプルオーバー姿。色落ちしてぼやけた怪獣のプリントが胸で咆哮をあげている。少し癖のある髪は伸ばし放題で、分け目もつけぬまま後方に撫でつけていた。生来濃いのだろうが、もはや無精髭と呼ぶのも難しい真っ黒な苔状のものが頬を覆っている。黒縁眼鏡のレンズの片方が割れているが、そちらの目は見えていないので構わないらしい。かくのごとく身なりに頓着しない男だったが、怪談を語ることにかけては一流で、雑談の興味深さも信頼できた。これで人懐っこいところもある。
二人共タバコを吸わないのに、いまだに喫煙可の古風な喫茶店に入り、小さな三角形のガラステーブルの席に陣取った。
「怪談で気が狂っちゃう人ってめちゃくちゃいっぱいいるじゃないですか。でも、本人に会ったことあります?」
雪村はあれば必ず頼むイチゴのショートケーキにフォークを突っ込みながら「怪談のタブーに触れてしまった」と笑う。
ステージやバー、テレビや動画サイトで怪談を披露することを生業にしている怪談師だが、昨今では語られるすべてが“実話”であるという前提が暗黙のうちに定着してしまっていた。登場人物の廃人化や、病気からの行方不明、体験者の死亡なんてのは怪談の華ではあるが、正直そんなことがあればもっと騒動になっている。観客もツッコむのが無粋だから見逃してあげているだけだ。
「本当にいたら人口のほとんどがいなくなる地方が出てくるな」
「しかしですねぇ、この雪村、取材が信条でございまして! そこで見つけてしまったわけですよ! 狂って失踪してしまった人の親族を!」
テーブルを講談師のごとくに叩いて雪村は見栄を切った。
「いいねぇ」
期待感に俺はニヤついた。
怪談はすべてが嘘ではないというのが難しいところだ。少なくとも怪奇現象の体験者が実在するということにこだわる怪談師は数多い。たとえ幻覚を見ていようと嘘を吐いていようと“そう語る人がいる”というリアリティが欲しいのだ。もちろん当人の許可のもと脚色や新解釈を加えることで観客を楽しませるクオリティにするにせよ。
雪村もこのタイプであり、本物の心霊体験をした人に逢いたいし、できれば自分でも体験したい、と日頃から主張していた。自然、取材も増えていく。タクシーに乗れば運転手に幽霊を乗せたことがあるか聞くし、怪談会が常設の怪談バーともなれば、自分の体験を語りたがる客も集まる。話し好きの雪村は光り物を集めるカラスのような熱意で妙な体験談をコレクションしていた。
「それで宗教団体ってのはどう繋がるんだ?」
「焦りなさるな。雪村、まずは樋口さんを実験台に初の語りおろしを今ここで行わせていただきます!」
□ □ □ □ □
河本信彦さんという方がおりまして、これは本当だと証明するために実名なわけですので、いずれお会いしていただきますが、この信彦さん、お姉さんがいまして。実の血の繋がった姉です。姫子さんという名前です。
この姉弟、大変に仲が良くてですね。というのも、子供のときにご両親が宗教にハマって失踪してしまったという過去がありまして。この宗教というのが、先に話した『神塔の会』なんです。正式には名前は無いらしいんですが、教祖というか預言者みたいな人がいて、その周囲に人が集まったということなんだとか。
この教団にハマったきっかけはわからないそうなんですが、ご両親が二人共ハマり込んだのに、どうやら子供には宗教に関わらせなかったらしいんですね。なんでも車に乗って田舎に行き、そこで何か教祖さんから言葉をもらったらしいんですが、それだけだったとか。
お姉さんと信彦さんはそこまで歳が離れていないそうなんですが、このとき、お姉さんは分別がついている頃で、信彦さんはよくものがわかっていないくらい小さかったので、どうやらお姉さんだけが言われたことを覚えていたらしいんです。そこで信彦さん、後になってお姉さんに何を言われたのか聞いたところ、将来自分がどうなるか予言のようなものを語られたってことなんです。
「この子らは神の子だ。姉には光の要素が強い。いずれ神のうちにあることになる。弟も大切にするといい。こちらの子は、姉の次になるだろう」
そんな言葉だったらしいんですね。特に“神のうちにある”と“姉の次になる”って言葉の意味がわからなかったけど、それだけによく覚えていたそうなんです。もちろん我々にも意味はわからないんですが。
それより、その後からご両親が家を留守がちになり、代わりに親切なおばさんが家に来て家事をやってくれたって言うんですね。宗教的に怪しいところがあるわけでなく、普通の親切なおばさんだったっていうんですけど、おかしいですよね。確実に教団と関係がある。でも、宗教的なことは一切なかった。ただそれから両親がいなくなった。フェードアウトするような形で。だんだん一日置きに外出するようになり、やがて不在の期間が長くなり、最後にはまったく姿を見せなくなった。
両親がいなくなった頃には反抗期だったっていうんですかね、中学くらいだったそうで、知らないおばさんが世話をしてくれていることには違和感がなくなっていたってことです。おばさんは相当大事にしてくれたそうなんですよ。当然、信彦さんは荒れた時期もあったそうなんですけど、殴ってしまっても平伏していたっていうんですね。まるで王族にでも仕えるかのようだったって。
荒れても手応えもなく、勉強もどんどんできなくなっていく。それで信彦さん、さすがに途中で好き勝手やっててもどうにもならないって気づいた。そこで救いだったのがお姉さんの姫子さんだった。このお姉さんがしっかりした人で、穏やかで信彦さんの親代わりになった。信彦さんも高校の頃になると、すでに働いているお姉さんに楽をさせることが人生の目標になったっていうんです。
工業高校を出て、けっこう競争率の高い企業に入って、やがて家を借りられるくらい収入のある定職についた。そこでずっと前から考えていたお姉さんと一緒に逃げる計画を実行に移すことになったんです。
とにかくこの不自然な環境から出たかった。それまでも生活には支障はなかったんですが、なにしろわけがわからなかった。おばさん以外にも様々な人が信彦さんたちを育てるのに協力していたらしいんです。学校に通うための手続きをしてくる係とか、必要な金を持ってくる係、果ては荒れていた時期、信彦さんと敵対していた不良を叩きのめす係までいたらしい。信彦に手を出すとヤクザが出てくるって噂になってわかったそうなんですが。
彼らに共通していたのが、自分自身のことを絶対に話さないということなんです。どこから来て、どこに帰っていくのかわからない。もしかしたら自分の時間というのがないロボットみたいなものだったんじゃないかって信彦さんは感じていた。
勝手に転職して、別の県で家を借り、お姉さんとそちらに移り住んだ。幸い、うまくいったようで、教団からの追跡はなかったし、周囲を誰かが嗅ぎ回るようなこともなかった。しばらくは普通に暮らせた。子供時代からしばらくぶりに自由というものを感じたってことです。でも、幸せは長く続かなかった。
あるとき、信彦さんが二階の窓から外を見た瞬間、なにか妙なものが動いていることに気づいた。ガラスについている虫かな、と思ったんですが、違う。どうやら遠くになにかがいる。
人間の目って遠近感が意外にわかるもので、どうやらはるか遠くにあるむしろ大きなものだって気づいた。遠くて霞んでいるから近くの小さい虫みたいだと思ってしまったんですね。あまり大きい建物とかない地域だったのではっきりと断言できないんですが、ビルみたいなサイズのコバエを遠くから見た感じだったとか。
見間違えだろうと思ったので、そのときは放っておいた。もちろん外に出てそちらを確認したんですが、いつもの風景で、窓から見たようなものは存在しなかったってこともあります。ただ、しばらくして無視するわけにもいかなくなった。
その窓から見たときだけ妙なそれが見えるって気づいたんです。
コバエみたいな瞬間瞬間にブレる動きです。あの癇に障るツッツッってあれ。ただその場からあまり動かずに揺らめいている感じなんですね。
スマホで写真を撮ってみたり、双眼鏡を持ち出したりしてみたんですが、どうもその窓から肉眼で見たときだけ見える。ガラス窓になにかあるのかと窓を開けても見えたってことなんです。そうこうしていると、信彦さんのしていることにお姉さんが気づいた。
すると、きゃぁあああ! って悲鳴をあげた。信彦さんは驚きますよね。なにも言わないうちからお姉さんは知っていたらしい。
「もう窓から外を見ちゃいけない」
そう言って、ブラインドを買ってきて、降ろしたまま接着剤で動かなくしちゃった。
わけもわからず、あれはなんなんだって聞く信彦さんに、お姉さんは気になることを言ったんです。
「すごく大きいあれ、だんだん近づいてくるでしょう? でも、あれがなにかはわかっちゃいけない気がする。わかっちゃったらおしまいな気がする」
信彦さん、嫌な予感がしたけど、見ないに越したことはないので、ブラインドをそのままにしておいた。いつか窓から以外でもあれが見えるようになっちゃったら嫌だな、って思いながら。
ところが、嫌な予感は別の形で現実になっちゃうんです。それからしばらく後、なんとお姉さんの姫子さんがブラインドを持ち上げた格好のまま外を見ていた。裏切られたみたいに感じたけど、それよりお姉さんの様子がおかしい。
「わかった……わかっちゃった……大きい……すごく近くて遠くて、こんなにも怖い……」
そんなことを言って、狂っちゃってた。
信彦さん、見ちゃいけないと思いつつも、反射的に窓の外を見た。
そこに見えたのは、蠢くあれが遥か遠くで不快にツッツッとしている光景だった。近づいてくる様子なんてなかった。最初に発見したときのままだった。
もちろんお姉さんを病院に連れて行った。でも、その途上でお姉さん、逃げ出してしまい、それから行方がわからないってことなんです。
□ □ □ □ □
「『くねくね』アレンジってところか。だけど教団に育てられた子ってのが本当なら、相当に興味深いな」
悪くない。もしこれが本当ならさらに面白いことになりそうだ。
「雪村もお姉さんが狂った部分はありがちかとも思いましたが、キモはこの信彦さんが実在して会うこともできるってことなんですよ。もちろんこの話の公開の許可もいただいてますし、噂になってお姉さんを見つけたいって思ってるそうで」
雪村はショートケーキを食べ終え、満足気に紅茶をすすって言った。やはり、この語りには自身があるらしい。
「現在進行系の話ってことなら配信よりはステージにかけた方が面白そうだ。夏のイベントにかけられるよう手配しよう。ただ『くねくね』っぽさだけアレンジしたほうがいいか」
『くねくね』は、田舎に帰省した兄弟が遠くの田畑の中に人の形をしているが白くくねくねと蠢くものを発見するのだが、それを双眼鏡で見た兄だけが「わからないほうがいい……」と言い残して狂ってしまう、という創作怪談だ。怪談ライブに来るような客は大っぴらにパクリを非難するようなことはないが、その怪談師を静かに軽蔑し離れていく。有名怪談と似たようなタイプのものを語るときはオリジナルの心霊的な解釈を加えるのが作法だ。「あの事件の霊がここにも現れました。理由はこれこれだったのではないでしょうか?」とやるわけだ。
「心得ておりますよ。それより、河本信彦さんに会いますよね?」
「もちろん手配してくれ」
手配料として喫茶店の払いよりも大きい額を雪村の前に置く。ニヤリとしながらポケットに現金をねじ込んで、雪村は言う。
「それにしても樋口さん、宗教ネタお好きですよね。狂気部分がたとえ嘘だったとしても、宗教とお姉さんの失踪は本当っぽいですからね、ご期待ください」
「ああ、こっちでも調べる。待ってるよ」
雪村と別れて新宿の事務所に戻る。『MOST』なる名のオカルトサイト運営と記事のライティングが俺の目下の仕事だ。『MOST』とは『Magic of the Occult Science and Technology』の略なのだが、実態は大したものじゃない。単なるオカルト系WEBニュースだ。それでも業界(というものがあるのなら)大手で、それなりに忙しくやっていた。
なんら凝った調度のない白い床の殺風景なフロアに入ると、やたら大きなくせにポリカーボネート製という奇っ怪な椅子に座った社長が俺を呼び止めた。
奇っ怪な椅子がお気に入りの社長は、もちろん奇人だ。兵藤晴海という名の大柄な中年で、顔の造作がすべて大きく、歯を剥き出して笑ったように固定された横長の口の上で、見開かれた目と突き出した鼻が暑苦しく自己を主張している。服装はヤクザにしても個性的なパステルカラーのストライプが入った麻のスーツで、下から鯉の柄のアロハシャツの襟が突き出されている。いつもは客にまとわりつくブティックの店員だって彼が入ってきたら声をかけるのを躊躇するだろう。
「遅かったな。いつもの相棒が待ってるぜ」
晴海ちゃんは親指でパーテーションで区切られただけの会議室を示した。
「ネタを仕入れてたんですよ。どっちの意味でも金になりそうです」
“どっちの意味でも”に含みをもたせると、晴海ちゃんは元々剥き出されたような歯をさらに剥き出して笑顔を作った。新たな集金ルートを作った俺は、晴海ちゃんのお気に入りだった。大変なお気に入りだ。ヤクザめいた人物には好かれておくに限る。好かれすぎなければ、だが。
パーテーションのユニットである薄い扉を開けて、長机とキャスター付きの事務椅子が数脚だけの会議室に入ると、俺の呼び出しに応じて待っていた小泉伊月が読んでいた本から顔を上げずに「ああ」だか「おお」だけうめいた。挨拶のつもりらしい。
「新しいネタが入ったぜ」
俺が言うと、伊月はまだ顔を上げずに答える。
「聞いていたよ。壁が薄すぎる」
「話は外でにするか?」
「いいよ。社長しかいないのは確認した」
伊月はうんざりしたように言った。別に俺や晴海ちゃんが不快なことをしたわけじゃない。伊月はこの世の全てにうんざりしているのだ。黙っていれば美青年で通るが、常時気落ちしたような態度と厭世的な言葉が女性を遠ざけていた。どう見ても痩せっぽちの眼鏡書生という雰囲気で、トラッドなシャツとスラックスを好んで選んでいるのがさらに古風さを際立たせていた。これで自意識が強く悩める青年を気取っているようなタイプなら矯正のしようもあるが、伊月は自然体でこれなのだった。遊んでいるときでも心の底から楽しんだことなどないだろう。小学生の頃からの腐れ縁でなければ付き合いきれないようなところがある。
「新しい宗教だ。なかなかに危険な臭いがするぞ」
俺は伊月の前にスマホを置いて、録音していたアルジャーノン雪村による渾身の語りを流した。
伊月は聞いているのかいないのかわからぬ表情だったが、途中で本を閉じたところを見ると興味を惹かれたのだろう。
「確かに気になるね。狂気の部分はもう少し掘ってみないとわからないけれど」
聞き終わって伊月はそう評した。俺も同意だった。
「雪村から聞いた限りでは、団体は動画サイトを中心に教義を語る活動が中心らしい。そんなところはイマドキのスピリチュアル系にも近いが、信者を動員したりする資金力があるとすれば、古くから活動している可能性はある」
「まだ仕入れたばかりの情報なのだろう? 推測するよりは調べていこう。『神塔の会』というのが団体名だって?」
「団体名というよりは動画サイトの登録名がそうなっている。いかにも宗教という感じが強い名前なのがイマドキじゃあないがな」
「そういうものの方が危険度が高いケースは多いね」
伊月はブリッジに指を当てて眼鏡を直し、自分のスマホで『神塔の会』を検索する。それほどメジャーではないのか、教団自身の関連サイトしか引っかからないが、それでも、すべて確認するのは手間だと感じる数の検索結果が出てきたはずだ。
「神道系新興宗教の末席にでも収まってるのかと思ったけれど、即座に流派が断定できるようなものじゃないみたいだね」
言葉から伊月がハマりはじめたのを感じる。子供のときから変わらない。普段はすべてに興味がないような態度でいるくせに、納得できないことや疑問点があるとそれにこだわり続ける。
今でも覚えているが、小学生の時分、伊月が友人と口論になった。校庭にあるアリの巣はすべて繋がっている、とそいつが言い出したのだ。どうしてそんなことを思ったのか知らないが、放っておくと校庭が沈下していく、とまで主張していた。伊月はもちろんこれに反対した。だが相手も後に引かず議論は平行線となった。
そこまでならよくある喧嘩だったが、伊月は翌日になってそいつを校庭に呼び出した。取っ組み合いでもするのかと思って仲間たちとついていったら、伊月はなんとキャンプ用のコンロと鍋を用意して待っていた。もちろん仲直りの食事なわけがなかった。伊月は「巣がどうなってるか確認しようじゃないか」と言って、ホームセンターで買ったらしい鉛のインゴットを鍋で煮込みはじめたのだ。
そこからはご想像の通りとなった。巣は三キロくらいある溶けた鉛をすべて飲み込み、その深さを証明した。だが、巣が繋がっているかどうかは掘ってみなければわからない。その場の友人総出で校庭掘りがはじまり、やがて異変に気づいた教師もやってきた。怒られるかと思いきや、目ざとく理科に熱心な教師を見つけた伊月が事の次第を説明、この教師も理科室に発掘された鉛を寄贈することを条件に校庭堀りに加わった。
結局、日が暮れる頃に巣は全貌を現し、アリの大量死という犠牲の下、校庭全域がアリに支配されているという妄想は立ち消えとなった。もっともそれを主張したヤツはその主張自体をまるっきり忘れていたというオチはあるのだが。
このように徹底的にやるという性質は彼の本性なのだが、それでも今のように心底から世を儚んだところは少年期にはなかった。最近では彼の表情からうんざりしたような雰囲気が消えるのは怪しげな宗教を追いかけているときだけだ。
「やっぱり神道系じゃないのか?」
俺は聞いた。
「いいや。調べてみないとわからないけど、ざっと見る限りでは最近のスピリチュアル系の教義だね。とはいえ、スピリチュアル系は神社にも行けば、風水も気にする。弥勒信仰も入っている臭いがある。なんにせよこれからだよ」
「細かいことはお前に任せる。この怪談、ステージにかけても大丈夫だと思うか?」
伊月の態度からこの件については長くなることが確定した。俺はじっくりと俺の仕事を進めることにする。
「今回の語りでは団体名を出さずに話しているから、この感じでやってくれれば大丈夫だろうね。団体の方から文句を言ってきたら、むしろ“釣れた”といえるだろう。君らがオカルト・ジャーナリズムとして団体と揉めるのは歓迎だ。僕が前に出ない限り」
「うまくやるさ。信者の二三人もインタビューしてみせる」
調査にGOが出れば俺の上司は晴海ちゃんでなく伊月になる。報酬も彼を通して支払われることになる。元々は税金のはずだが。
伊月は、国立大学から官僚への道を歩み、法務省へ入った。遊び呆けて三流私立大学ですらほぼ通わなかった俺とはえらい違いだが、道は違えど二人共に子供のときからの誓いを果たしたといっていい。伊月は志願して公安調査庁の調査官になり、俺はオカルト・ライターとしてのキャリアを積み上げている。
“公調”と通称で呼んでいる者など公務員にしかいないが、この公調は歴史的大事件になった有名宗教団体の一連のテロを通じてにわかに有名になった諜報機関だ。平たく言えば国内の危険団体を調べる政府側のスパイということになる。
スパイ組織だけあって調査官の名簿が公開されているようなことはないが、同じような集団である公安警察や自衛隊の秘密機関に比べれば諜報機関と呼びたくないほど緩い集団であるのは間違いない。公調は破防法を危険団体に適用するという伝家の宝刀を持っているが、宗教団体を指定団体としたことはついぞない。盗聴や尾行などのグレーな活動はもちろん、逮捕や強制捜査の権限も制限されており、可能なことは団体内部に協力者を作り、金を渡して活動情報を話してもらう程度だ。さらに構成員も少なく、情報の精度も低いことから、公安警察などでは庁舎の所在地から“九段”という隠語で呼ばれることすらある。「九段情報じゃあ怪しいねぇ」というわけだ。おかげで内閣が変わるたび取り潰すかどうかが議論になる。
それでも伊月は公安調査庁を選んだ。宗教団体、あるいはそれに類したカルト的集団を調べるためだ。それが可能なのは公調しかない。主要監視団体である政治結社やテロ後に分裂した宗教団体を追うのでなく、新たな新興宗教を追跡することができるのは。
「教義も気になるけれど、問題は人さらいが本当かどうかってことだね。不幸を望むようで不謹慎だが、彼らが本当に犯罪行為をやっている邪教だといいな。そうじゃあないと僕の熱意も空回りというものだよ」
これから楽しくなると言わんばかりに伊月は俺に笑いかけた。
生きがいなのはわかるがえらく不穏なことを言っているには違いない。
「お前の熱意はわかるが、ヤバけりゃヤバいほど嬉しいってのは悪い癖だ」
俺はもはや届かぬとわかっている忠告をした。
形式だけ伊月はうなずいた。
「知っているけれど、もううつつを抜かせることはこれしかないんだよ。連中のズレた真理を読み解き、その真理とやらを崩壊させていく過程に楽しさがある」
ゆったりとした顔でいるが、伊月を取り巻く空気が彼の熱量で歪んでいるように見える。
「それはうつつを抜かすのでなく、血迷っているっていうんだ」
俺はぼやく。
「血迷っているときが楽しいでも間違ってはいないよ。ひとつ異端の教義を読み解くと真理に近づく。否定神学にも一定の効用はあるんだ。それじゃあないものだけが真理だってことさ。そして僕たちには真理が必要だ」
“僕たち”に含みがある。
そうだ。俺も当事者だ。
不意に降ってきたような事件が俺たちを変えた。
あれがなんだったのか?
俺たちはそれを知ることを真理と呼ぶしかないのだ。一度きりとはいえ、奇跡と呼ぶに値するものを目前で見てしまったからには。
「それより金を落としてやってくれよ。税金を吸い上げるのも真理に次ぐ快楽だからな」
諜報機関の機密費という俗っぽいネタに触れ、この狭い会議室に漂う不穏な気配を払おうとしたが、雰囲気を変えるには至らなかった。
「金額はこの宗教がどれだけ血を吸ったかによるよ。誰だって代償を払わなければ本当のことはわからないものさ」
アリの巣に鉛を流し込んだとき、隠された真実を知りたいという動機以外に、アリを大量に殺すのが面白いという気持ちはなかったか? いや、面白がっていたのはむしろ俺の方で、伊月は真実に拘泥していただけなのか。
「じゃあやろうか。あいつらに代償を払わせるか、俺たちが払うために」
どちらにせよ行動するしかないのだ。伊月に地獄まで付き合う決意はずっと前にしていたのだから。
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