真夜中のピアノ

常盤木雀

真夜中

「うーん。もうこんな時間だ……」


 今日は、午後の講義もバイトもない日だった。だから時間はたくさんあったはずなのに、目標を達成できないまま、23時を迎えようとしている。

 大学生になって一人暮らしを始めたら、自由が増えた。もともとやるべきことを後回しにしがちだった私は、制するものがなくなって、より悪くように思う。朝起きずに怒られることもなければ、昨夜は随分遅くまで起きていたみたいだねと言われることもない。私はそれでも自分を律する強い心は持っていなかった。


 同意してくれる人もいると信じているが、私は追い詰められた方が良い結果を出せる。というよりも、それ以外の時には凡庸なことしかできないのかもしれない。小学校の漢字の書き取りの宿題でさえ、時間に追われて取り組んだ方が短時間できれいな字を書き、のんびり取り組めばいかにも眠そうな字が並ぶのだ。

 この自分の性質を理解しているという理由に、私は物事を後回しにしがちなのである。


 言い訳じみたことを考えている間にも、時間は過ぎていく。

 私が今やるべきことは、来週が締め切りの小説を書き進めることだ。毎日数百字書けば間に合う、数千字書けば間に合う、と考えている間に、残り日数はぎりぎりになってしまった。

 小説を書くのは私の趣味だ。仕事ではない。いつかは仕事にしたいと思っているが。だから、無理して間に合わせる必要もないと分かっている。しかし、締め切りに間に合わせようと集中しなければ進まないのが実情だ。趣味のはずなのに不思議だと自分でも思う。

 とにかく、今日のノルマを終わらせなければ、締め切りに間に合う可能性がゼロになってしまう。


 大学入学時に購入したノートパソコンに向かっていると、ふと、ピアノの音が聞こえた。

 ドレミファソラシド。ドシラソファミレド。

 音感などないが、そうだと思う。

 音のもとは、隣の部屋のようだった。ピアノが持ち込めるような部屋ではないから、きっと電子キーボードか何かなのだろう。時折もたつく感じが交ざりながら、音が動いていく。

 きっと隣の住人も、真夜中の方が集中できるタイプなのだろう。そう思うと親近感が湧いた。


 ドレミファソラシドが止み、音楽が始まった。聞いたことのない旋律が、煙のように漂ってくる。

 部屋に暗闇が立ち込めた気がした。電灯はついているし、パソコンの画面も明るい。それにもかかわらず、良く晴れた夜空のような、湿り気のない闇が見えた。

 光の粒が降りてきて、舞い始める。響きをもったピアノの音に合わせて、ふわりゆらりと遊んでいる。

 私はなんだか急に書けるような気持ちになって、キーボードに指を滑らせた。



○ ○ ○



 夢中になってキーボードを叩いていた。気付いた時には朝で、ピアノの音は止んでいた。

 小説は、思いのほか書き進められた。かつてないほどの集中力で、次から次へと展開が頭に浮かび、言葉を連ねることができた。あのピアノのおかげではないかと思う。


 大学へ行くために家を出る。

 振り返ってみると、私の隣の部屋は雨戸が閉まっていた。防音のためだろうか。



○ ○ ○



 大学のレポートをこなしていたら、深夜になってしまった。


 夕方帰宅すると、廊下に大家さんと知らない人がいた。挨拶すると、入居希望で部屋を見に来たのだと教えてくれた。

 二人は隣の部屋に入っていった。隣の部屋は空室だったらしい。


 昨夜のピアノは何だったのだろうか。私は空室から聞こえるピアノを聞いていたのだろうか。

 そんなことを考えると、レポートはなかなか終わらなかった。

 早く今日分の小説を書いて、昨日の分も寝なくてはならない。おそらく昨夜のピアノは幻聴だったのだろう。気にしなくても良いはずだ。



 気のせいでなければ、また、ピアノの音が聞こえ出す。

 柔らかく優しい音は私を包む。私は誘われるままにまたキーボードに触れた。



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