第36夜
しばらくすると、刀身を引きずっているのか。床と鉄の擦れる甲高い音を出しながら、男の歩く足音が徐々に近づくと、やがて教室の前をそのまま通り過ぎていく。
つむぐは息を吐き出すと、そこでようやく一旦気を落ち着かせることができた。まだ息が荒く、心臓の音が早鐘のようにうるさく鼓動をしているが、ひとまずはしのげたことをつむぐは安堵した。そしてふと額の汗を拭った時に、つむぐはその手が妙に濡れていることに気が付いた。ぬるりと、それは汗や水といった類ではなくどちらかと言えば、油のようなべっとりとした触感がある。
つむぐはポケットから携帯電話を取り出すと、明かりを隠しならが自身の手を照らした。
「なっ、なんで」
つむぐは自身の手を見つめながら、愕然とした。
暗闇に映し出されたその手は真っ赤に染まりながら、手から赤い滴がしたたり落ちていたからだ。つむぐは自身の体を思わす確認する仕草をするが、すぐにふと思い出しのだ。あの男から漂っていた異臭と、何かが滴る水滴の音を、そうあの異臭は血の匂いだったのだ。そして男の脇を抜け床を転がった時に、床に滴った血が付着していたのだ。
つむぐは動揺すると、焦りながら血に染まった手を必死に服で拭う。それと同時につむぐは口元まできた吐き気を手で抑え込んだ。
「あいつは……」
つむぐはそう呟くと、苦虫を噛み潰したような顔すると、苛立たしげに壁を叩いていた。誰かを殺していた、その考えが頭をよぎると、つむぐは心に怒りだけが湧いていた。以前に訪れた事件の現場のようなことを、あの男は繰り返しいている。
つむぐは肺の空気をゆっくりと吐き出すと、拳を握りしめた。
その瞬間、教室のなかに男の声が響いた。
「みみ、み、見つけた」
男はどこから現れたのか、壁を背にしたつむぐの脇に立ちながらそう呟くと、その刃を振り下ろしていたのだ。
つむぐは咄嗟にその場から飛び引くと、鼻先を刀身が掠める。しかし咄嗟に避けたとはいっても男は間近に迫り、再び切り付けられれば避けようがない。
つむぐは尻餅をついた状態で下から男を見上げると、睨み付けた。男は変わらずに不気味な笑みを浮かべながら、その刃を振り上げると、その笑みを獲物をいたぶる獣のように無邪気で邪悪なそれに変えるとその刃を楽しげに振り下ろした。
その瞬間、つむぐは覚悟を決めると目を閉じていた。しかし一向に待ったとしても、振り下ろされたはずの刃がつむぐを切ることはなく。変わりに金属と金属がぶつかり合う、鈍く響いた音がするとつむぐは、そこでゆっくりと瞼を開いた。
そこにはコルトを手にしたカンリカが間に入ると、つむぐに振り下ろされた刃を防いでいた。鈍色に光る鋭い刀身が、コルトとせめぎ合いながら小刻みに動いている。
「コルト、カンリカ。よかった無事だったのか」
つむぐは絶妙なタイミングで現れた二人に驚くと、無事でいたことに心から安堵した。
「いやいや、それはこっちのセリフだよ」
カンリカは必死に刀身を防ぎながら、力の入った声でつむぐに答えた。やがてタイミングを計りのコルトを使って刀身を横に滑らせると、そのままの勢いで隙のできた男を回し蹴りで蹴り飛ばした。
男は一瞬苦しげな声を上げると、蹴られた反動のまま教室の端へと転がりながら飛ばされていく。
カンリカはその姿を見届けると、つむぐの手を掴むと強引に立たせて教室を飛び出した。
「ありがとう、助かったよ」
つむぐは手を引かれながらカンリカに感謝すると、後ろを振り返った。男はまだ教室からは出てきてはいないようで、その姿は見えない。
「本当にずいぶんと探したよ。突然消えちゃうんだもん、もうコルトはつむぐくんを探すって大騒ぎするし」
『うるさいぞ、無駄口をたたいている暇があるのなら、さっさと走れ』
コルトの顔を見ることはできないが、その口調は照れ臭いのか、恥ずかしさを隠しながら普段よりも早口に捲し立てる。
つむぐはそんな普段聞き慣れない口調に、こんな状況だというのに微笑むと「ああ、そうするよ」と返事を返した。
カンリカをつむぐを引っ張りながら階段を駆け上がると、屋上への扉をこれまた強引に蹴り飛ばして開け放つと、すぐさまに扉を抑え込んだ。
「とりあえずは、ここまで来れば一安心かな」
もう逃げ場もない屋上で、カンリカは普段通りの笑みを浮かべると、額の汗を拭った。
『まったく、一人で急にいなくなったかと思えば、おまえは何をやってるんだ』
すぐさまにカンリカの手から離れたコルトが、人の形になるとつむぐに駆け寄った。
「悪い、なんか気が付いたら二人がいなかった」
「それはこっちだ。まんまとあいつの張った罠に引っかかりおって、一人で先に行こうとするからそういうことになる。ああいった類の連中と戦うには、つむぐは魔法使いとして対峙しなければ殺されるだけだぞ」
コルトは苛立ち気に言い放ちながら、つむぐの体をあちこちと触りながら怪我をしていないか確認をすると、すっと離れた。
「わかってるよ。だから僕も逃げ回ってたわけだし」
つむぐは申し訳なさそうな顔をすると「ごめん」と、一言呟いた。
「一人で無茶なことを、もう、しないでくれ」
そう言ったコルトの顔は俯いてつむぐからは見ることはできない。しかしかすかに震えた声が、どれだけコルトはつむぐのことを思っているのか。それがつむぐに伝わるには充分だった。
「ごめん」
つむぐはもう一度そう言うと、コルトの頭に手を置くと、優しくなでた。
「そのお二人さん。いいところ悪いんだけど、これからどうするか考えた方がいいと思うんだけどな」
カンリカはどこか困った顔をすると、そのまま真剣な眼差しでつむぐを見つめた。
「もう女の子に、心配をさせちゃ駄目だよ。君までいなくなったら、本当にどうしようかと思ったよ」
そう言って優しく微笑んだカンリカの瞳は悲しげで、いなくなってしまった友人のことを思い出しているだろうか。後悔をしているような、どこか儚くも見える。
「大丈夫だよ。僕はいなくなったりはしないよ」
「そっか……」
カンリカの目を細めると、そう呟いた。その言葉を信用するとまでは言わなかったが、つむぐはその言葉に「ああ、約束だ」と付け足した。
「それで、これからどうしようか?」
次の瞬間にはカンリカはいつもの調子に戻ると、つむぐに問い掛けた。
「もちろん、やることは一つだ。あいつをぶっ飛ばす」
「ぶっ飛ばすのいいけど、方法はあるの」
「ないわけではない。方法ならあるぞ、おまえはつむぐが何者が忘れたのか」
不安気にするカンリカの言葉にコルトは割って入ると、つむぐに右手を差し出した。
「こいつは、魔法使いだ」
まっすぐにコルトがつむぐの瞳を見つめる。
「ああ、そうだな」
つむぐはそう言うと、ゆっくりとコルトの差し出された手を握りしめた。
つむぐの姿が魔法使いのそれになると、つむぐはその右手に持ったコルトをゆっくりとカンリカ抑え込む扉へと向ける。
「ちょっ、危ないって」
カンリカは思わず驚くと、声を上げた。
「大丈夫、まだ弾は入れてないよ」
「それでも、銃口を動物や人に向けちゃ駄目だって」
「エアガンじゃないんだから」
つむぐは真面目に話すカンリカに苦笑いをすると、扉に向けたコルトを下した。
「カンリカ、きっと僕の、コルトならあいつを仕留められる。でも生憎と撃てる弾は今のところ一発しかないんだ。だからこれは確実に当てなきゃならない」
「扉を出てきたところを即座に撃つっていうのは、これって避けようがないんじゃない」
「いやそれじゃ不十分だ。それだと後ろに跳び引かれたら隠れられるし、あいつが素直にその扉から出てくるとも限らない」
つむぐは先程の教室で男が、自分に気が付かれることなく、すぐ脇に立たれたことを考えていた。少なくとも扉の開いた音もしなれば、歩く音も気配され感じることができなかっったのだ。何らかの方法があるには違いない。
「じゃあ、私があいつの気を引いておくから、その間に撃てばいいよ。今さっきやりあったけど、あいつの動きはそう早いものじゃないし。何とか隙は作れると思う」
「あいつはどう動くかがわからないんだぞ。それに危険だ」
カンリカはそんなつむぐの心配をした顔に「大丈夫」と答えると、
「その代わりに、外さないでよ」
そう言ってはにかむと扉に向き直した。
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