第35夜
コルトに呼びかけても返事はなく、カンリカに至っても携帯電話といった連絡手段を持ち合わせてはいない。大声で怒鳴ったところで、かすか返事さえも聞こえはしない。
つむぐは携帯電話をポケットから取り出すと、時刻を確認した。時刻はちょうど後数分もすれば、午前二時になる。何気なくそこで電波状態を確認すると、そこで電波が圏外になっていることに気が付いた。
「マジかよ」
つむぐは思わず声を出すと、肩を落とした。
しかしそこでつむぐがその視線を携帯電話から上げて階段の踊り場を見上げると、かすかにだがそこで人影が動く姿をつむぐは気が付いた。
つむぐはすぐに携帯電話をポケットにしまい込むと、階段を駆け上がった。二階へと上がり、廊下の左右を確認するがそこには人影はなく、誰の姿もない。つむぐは廊下の先を睨みつけると、眉間に皺を寄せた。
「おい、誰かいるのか」
つむぐは誰もいない廊下に声を出すが、特に変わったことはない。つむぐは深呼吸をすると、一旦冷戦さを取り戻して足を進めた。
普段から通い慣れ、ほとんどの平日を学校で過ごしているというのに、つむぐはまるで今いるこの校舎がどこか別の場所に思えた。歩く廊下も壁も、そして教室さえもどこか違う場所を自分は歩いているのではないだろうか。つむぐは廊下の先に広がる暗闇を見つめながら、そんな錯覚を起こしていた。
しばらくしてもつむぐは、コルトとカンリカに会えないでいた。周囲に目を凝らしながら歩みを進めていると、やがてその先の暗闇から自分の足音に混じって別の足音が響いているのに気が付いた。始めはコルトかカンリカとも思ったが、つむぐはすぐにその思考を止めた。
何故なら、どう考えてもその足音が二人の足音ではなかったからだ。二人にしてはその足音は重く、そして何よりその足音に混じって滴る水音と、鼻を衝く異臭がその先から漂ってきたからだった。
踵を返して廊下を戻るべきか、自身へと一歩一歩と近づく足音に聞き耳をたてながら、ゆっくりと歩みを進めていた。時間はない、もう少しすれば相手の姿が見える。
つむぐは、喉を鳴らすと、暗闇を睨み付けた。おそらくもう相手も自分に気が付いてる、そもそもここに来た理由からして逃げるわけにはいかない。コルトやカンリカにしても、このまま引き返したところで会える保証もないのだ。
つむぐはコルトがいないことで不安もあったが、カンリカの友人のことや、事件のことが頭によぎると、もう戻る理由は見つからなくなっていた。
「ああ、匂いがする」
やがてそいつはの声は、暗闇から囁くように響いた。まるで正気のない、どこか感情が欠落したかのような嫌な声だった。
そして異臭と、足音が大きくなるにつれて、そいつは姿を現した。
「ああ、間違いない。あれの匂いだ、あれはどこにある」
薄汚れ所々が擦り切れた黒いレインコートに、目深に被った黒いカウボーイハットの下には汚らしく伸びた無精髭が口元が動かすごとにかすかに動いていた。黄ばんだシャツには染みができ、下は靴もズボンも真黒な全身黒ずくめの男がそこで足を止めた。
「おまえが、ここ最近の事件の犯人か」
つむぐは以前にカンリカに聞いた男の風貌から、すぐにこいつが目当ての人物だということを理解していた。
「魔法使いか。あれは、あれは死んだはずだ。どうしておまえが持っている、何故おまえからは、あれの匂いと同じ匂いがするんだ」
男はつむぐの声が聞こえていないのか、急に頭を抱えて叫びだした。
「ああ、ああ、あれがあのお方を殺した。あれが私達の希望を奪った、何故だ。あのお方は誰よりもお強い方であったのに、ああ……」
男は叫び声を上げながら体を捩じらせると、急に思い出したかのようにぴたりと体の動きを止めると、そのままの姿勢で首を曲げるとつむぐに視線を向けた。
つむぐは思わず、一歩下がるとその顔を見つめた。
目深に被った帽子からは見えないでいたが、その眼球のあるはずの場所は窪み、光を通すことのない闇が眼球のないそこに、深い闇の瞳を作っていた。
「おまえも、あれと同じ匂いがする。ああ、憎い憎いな」
男は先程のように叫ぶわけではなく、ただその口の端を吊り上げると不気味で不吉な笑みを浮かべる。喜んでいるのか、それともただ狂っているだけなのか、ただ歪んでしまっているその男は笑い声を上げた。
つむぐは一歩下がった姿勢のままで体を硬直させると、目の前の異常な男を見つめたまま動けないでいた。
「おまえは、何を言っているんだ」
つむぐは緊張とした面持ちで、かろうじて声を絞り出すと目を細めた。誰かと勘違いをしているのか、それともただ正気ではないのか。どちらにしろ、危険な相手には違いないことをつむぐはひしひしと感じていた。黒犬と遭遇した時とは、比べ物ならないぐらいの狂気にも似た殺意を相手は間違いなく、今つむぐへと向けているのだ。
「やっと見つけた、やっと見つけたよ、魔法使い。さあ殺そう、さあ殺し合おう。おまえからは、あれと同じ匂いがするよ」
そう言うと男は狂ったように声を張り上げて笑いながら、つむぐとの距離をただ一直線に進みながら縮めてくる。
「ふざけるな。そんなわけのわからない理由で殺されるなんて、御免こうむる」
つむぐは一直線に突き進んで来る相手に、自ら突っ込むような形で正面へと走りこんだ。
眼球のない瞳がつむぐを空虚に見つめながら、男はどこから取り出したのかその懐からステッキを取り出すと、その隠された刀身を鞘から引き出した。頬がまるで裂けたかのような不気味な笑みを浮かべる。
「死ね、死ね」
男は狂ったように笑いながら、細いその刀身を、つむぐへの喉元へと向けて突き出した。
「単純なんだよ、あんた」
つむぐはただ馬鹿正直に狙ってくる相手の刃を、喉元にわずかなところで横に避けてかわすと、そのまま転がりながら男の脇をすり抜けた。かすかに切れたのか、喉元に痛みを感じるが、つむぐは即座に起き上がるとそのまま全力で男とは反対側へと走り出した。
しかしすぐ後ろから男が何かを叫びながら、迫ってきている。いくら全力で走ったとしても時間の問題であることには違いない。つむぐは、先に見える二つの校舎を繋ぐ渡り廊下を渡ると、向こう側にある校舎へと走りこんだ。
そして脇にある階段を駆け上がると、そのまま三階へと向かう。校舎としては最上階に当たるそこでコルト達に会えなければ、今のつむぐには男と戦う術はない。つむぐは息を切らせながら廊下を走ると、ある程度進んだところで教室の一室へと転がり込んだ。
教室の隅へと身を隠すと、つむぐは乱れた息を抑えながら、身動きをしないよう身をかがめて廊下側の方をじっと見つめた。
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