第31夜

 辺りはすっかりと薄暗くなってしまっていた。妙に明るいところが逆に静かな町を不気味に浮かび上がらせ、生暖かい風が頬をかすかに撫でると、つむぐは夏だというのに背筋に寒気を走らせた。不思議とこういった状況の方が恐怖心を掻き立てられるものらしく。人気もなく、音もなく、ただ自分の足音だけが単調に耳に響くのは、どこか圧迫感を感じさせる。

つむぐは鞄のなかのコルトを確認すると、早足で帰路へと着いていた。

『何だ、もしかして怖いのか?』

 そんなつむぐの心を察したのか、コルトが小馬鹿にした様子で、つむぐに声を掛けた。

「いや、何だかな。怖いというよりは、何だか不気味でさ」

『それを人は恐怖しているというんだぞ。君は他の人間と比べればもうとっくに化物のような力を持っているし、そんな連中だって目にしているのだろ』

「それはそれ、これはこれだ。嫌なものは、嫌なんだからしょうがないだろ」

『暗闇を恐れる魔法使いなど、聞いたことがないがな。どれ、横に並んで手でも握ってやるか』

「ほっとけ」

 つむぐはむっとしながら、足を進める。

 しかし坂の途中で、つむぐはその足を止めた。誰かに見られている、その視線を感じて思わずその足を止めのたのだ。

『止まるな……』

 コルトもそれに気が付いたのか、つむぐにそう言うと口を閉じる。

 つむぐはその言葉に息を飲み込むと、ゆっくりと再び歩き出した。辺りを窺いながら足を進めるが、どこから見られているのかがわからない。

「何か、ひどく嫌な感じがするけど。いったい何なんだ」

『何かがいるのだろうな。しかしテント暮らしのあの女とは、まったく違う。明らかに殺意がある』

 コルトはひどく冷静に状況を判断しながら、つむぐと話している。

 しかしその冷静なコルトとは裏腹に、つむぐは落ち着かない様子で焦りが見える。まっすぐな殺意、そんなものに晒されたことのないつむぐには、それだけで頭を混乱させるのには充分だったからだ。

 そして時間にして数分、そんな時間ですら長く感じる程の感覚を味わうと、つむぐある一点で視線を止めた。その視線の先には、黒い影がまっすぐにつむぐを見つめていたのだ。よく目を凝らして見ると、それは大型犬よりも一回り大きな狼のような姿で、唸りながら鋭い牙を見せつけている。その瞳には光がなく、まるで曇ったガラス玉のような鈍った輝きからは、つむぐが先程から感じている殺意だけが込められていた。

 つむぐは後ずさった。その一歩の後退、その一握りの恐れがつむぐの思考を鈍らせていた。逃げ場は、助かる手立ては、戦って勝てるのか、そんな考えが頭に浮かんでは次々に入れ替わり消えていく。

 しかし次の瞬間に、その思考も停止する。

 つむぐはからしてはほとんどあっという間だった。目の前にいたはずの黒犬がかすかに動いたように思えたその瞬間、その姿は視界から消え失せ、気が付いた時にはもう眼前へと迫っていたのだ。

 避けれなければ命がない。つむぐの体は喉元に迫る黒犬の牙を避けるために、反射的に体を逸らせながら捻らせた。黒犬の牙はかすかに喉元をかすらせるが、それでもその勢いのままに体はバランスを崩した。

「くそっ、くそっ!」

 つむぐの上に跨るように組み伏せた黒犬は、つむぐの肉とその骨を噛み砕くためにその歯を鳴らしながら、何度もつむぐに襲い掛かる。それでもつむぐは、何とか左腕で犬の首元を掴みながら、その牙を何とか防いでいた。しかしそれも時間の問題で、少しでも気を抜けば命がないことはつむぐもわかっていた。

「除け!」

 つむぐが必至になりながら、黒犬との攻防をしていると、ふと声がする。途端につむぐの目の前にいた黒犬が視界から消えた。つむぐが顔を横に向けると、黒犬が道を転がりながらボールのように弾んでいく姿がある。

「つむぐ、無事か」

 つむぐが声のする方を見上げると、コルトが心配そうな顔をして見つめていた。

「ああ、助かったよ。いや、本気で死ぬかと思った」

「生きてて何よりだ。そら、次が来るぞ」

 コルトが視線を移すと、そこには立ち上がって大きな唸り声を上げる黒犬が、コルトとつむぐに睨みを効かせながら今にも飛びかかろうとしている。

 つむぐはその場を立ち上がると、少しふらついた足をしながら、目の前の黒犬を睨み返した。息が上がり体中に擦り傷や痛みがあるが、不思議なものでさっきまで混濁していた思考がすっきりとしている。始まってしまった命が奪われるかもしれないということに対して、つむぐは純粋にただ生き抜くことだけを考えていた。

「コルト、家に帰ったら晩御飯だ」

「ああ、美味い物を頼む」

 コルトはどこか楽しげに微笑んだ。そしてそのまま光の粒子になると、片手を突き出したつむぐの手に収束をすると、一丁の拳銃へと姿を変える。

『ちょうどいい、今日の訓練は実践だ』

 コルトの愉快そうな声が響く。

つむぐの姿は魔法使いのそれに変わり、その銃口を目の前の黒犬に向かってゆっくりと向けた。

 銃口を向けられた黒犬は、姿の変わったつむぐを更に睨み付けると、雄叫びのような声を上げて後ろへと後退する。しかしその黒い眼光はつむぐを捉え、隙あらば喉元を食いちぎらんと睨みを効かせていた。

『つむぐ、弾倉に弾を込めろ』

 コルトは黒犬が後退したことを確認すると、つむぐへと声を掛けた。

「弾って、これってそのまま撃てば、こう魔法的な何かが出るんじゃないのか」

 つむぐは黒犬に睨みを効かせたまま、実際にコルトを撃った経験がないために、思わず聞き返した。

『弾丸がなれれば意味がない、だから弾を込めろ』

「どうやって?」

『ただ込めればいい、やり方はおまえが知っているはずだ』

 コルトは簡単にそれだけを言うと、口を閉じた。

 つむぐは困った顔をするが、その視線の先の黒犬は決して引き下がることはしない。つむぐは覚悟を決めると、右手のコルトへと意識を集中させた。

 ないなら作ればいいと、つむぐは直感的にそう感じていた。大きさは、材質は、匂いは、形状は、つむぐの頭のなかではこの場に必要な、ただ一発の弾丸が形を成していく。それはやがて現実味を帯びながら、徐々にその現実感を増していく。

 それと同時に、つむぐはまるで締め付けられるような頭痛と、激しい耳鳴りが頭のなかで響き渡る。それは一種の罪悪感に近いものっだったのかもしれない。それは表に出してはならないと、自身の心が否定という形で反発をしているのだ。

 しかしその刹那、自身の心の内にあるそれは、その一線を越えた。重く、固く、そして冷たい。何よりも虚実で、何よりも真実味があり、そしてどんな物よりも無垢で純粋なその力の象徴は、ただ一発の弾丸となって現れた。

「これだ……」

 つむぐの右手に握られたコルトが淡い光を放つと、その弾倉に弾丸が装填される。つむぐは不思議とまるで使い慣れているかのように撃鉄を起こすと、流れるような動作で、その照準を黒犬へと定めた。

「避けるなよ」

 つむぐはそう呟くと、静かにその引き金を引いた。

 乾いた音だった。それは何ら魔法的なことはなく、魔方陣も七色の光もなく、ただ乾いたそれでいて辺りに響く轟音と火花を散らせながら、コルトはその弾丸を放った。

 つむぐの腕は反動で跳ね上がり、その銃身からは、弾丸と同様に黒い煙が揺らめきながら放電をするように細かな光を放ちながら立ち上る。

 放たれた弾丸は一直線に進むと、黒犬へと吸い込まれるようにその額を撃ち抜いた。黒犬はまるで泥水のように溶け始めると、次の瞬間には灰となり風に消える。

 つむぐはしばらく呆けた顔で立ち尽くすと、やがて思い出したようにコルトをホルスターへと収めた。すると、つむぐの姿が元の格好へと戻る。

「上出来だ」

 コルトはつむぐの横に立つと、ねぎらうように声を掛けた。

「ああ、そうだな」

 つむぐはどうしてだろうか。どこか複雑な顔をすると、ぎこちない笑みで浮かべた。そして次の瞬間つむぐは膝をつくと、そのまま前のめりに倒れ込んだ。まるでフルマラソンでも走ったかのような疲労感と、何よりもひどい脱力感に襲われるとつむぐはかろうじて顔をコルトへと向けた。

「ほれ、帰るぞ。今の音で人が集まってくるかもしれん」

「ごめん、動けないかも。何か体が全然言うことをきいてくれないみたい」

「それはそうかもな。今のつむぐの力では弾丸一発を作るのが限界だな」

「待った、たしか記憶が定かなら、弾倉って六発だよな」

「そうだな」

 コルトは当たり前だろというかのように、頷く。

「無理だろ……」

 つむぐは一言そう呟くと、意識は暗闇へと落ちていった。

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