第37話 三章 十九話

 病室の扉をノックしようとした時、アルコルは僅かに振動を感じた。幸いにも揺れはすぐに収まり、アルコルは改めて扉をノックした。周囲には細心の注意を払う。見舞う相手が相手のため、知り合いなどに見られる事は避ける必要があった。

 部屋の中から返事は聞こえない。だが気配は確かにある。獅子の一族や隼の一族が現在病院を利用していないことは調べ済みだった。

 アルコルは一瞬待ってから、病室の扉をゆっくり引き開けた。扉から一直線に病室の中が見える。

 彼女は確かに病室にいた。窓際に立ち、背中を丸めている。

「ミザール? 具合はどうだ」只ならぬ気配を感じたアイマンは、恐る恐る部屋へと足を踏み入れる。彼の目にはどことなくミザールが光っているように見えた。


 ミザールがゆっくりと振り向く。その顔は困惑と焦りの混ざった表情をしていた。

「だいじょうぶ、なのか?」アルコルがミザールに近づく。その視線は彼女の顔ではなく胸の真ん中に注がれる。ミザールの胸に埋め込まれたあの楕円形をした大きなラピスラズリが、服の上からもわかるほどに青白く輝いているのだ。

「来て」彼女は駆け寄り、アルコルの手首を掴む。

「いったいどこに?」

「いいから。時間がないの」そう言うと、ミザールはアルコルの手を引き、病室から飛び出した。途中何度か看護師や警備員に呼び止められたが、ミザールは相手にせず歩みを進める。そうして病院から堂々と脱走し、彼女は迷うことなく公文書館の方向に歩き続けた。


「まて、待ってくれ。どこに行こうとしているんだ。いい加減に教えてくれ!」

 引かれるままに足を動かしていたアルコルは立ち止まり、彼女の手を振り払い説明を求めた。

「ええ、そうね。説明するわ。でもここじゃダメなの。こっちに来て」ミザールが先を促す。

 公文書館の陰に隠れて日頃は注目されることのない小さな空き地、それが目的の場所だった。空き地は縦横六メートル程度、周囲の花壇がなければもっと広いと思われる。そしてその中央には背の低い石碑がポツンと立っていた。


「ここか、ここなのか? こんな所が一体何だっていうんだ」アルコルは両手を広げて、この場所をよく見てみろというようにその場を回った。

「でも、確かにここなの。ここだって言っているの」

「だから誰が!」

「この石がよ!」ミザールは病院にいた時から着たままだった前開きの病衣の胸元をはだけさせて、自分の胸をさらけ出した。

 それを見たアルコルが言葉を失う。ミザールの胸に半ば埋もれたラピスラズリが、強い輝きを放っていたからだ。

「急にこれが光りだして、頭の中に声が響き始めたの。街を救え、みんなを救え、方法はこの場所の下にあるって。わけがわからない。頭がどうにかなりそうなの!」

 ミザールはその美しい黒髪をかきむしりながらヒステリックに叫んだ。

 恋人の取り乱した態度を目の当たりにして、アルコルがたじろぐ。彼の中のイメージと現在のミザールとの乖離が著しかったためだ。

「すまない、ミザール。話を聞くから落ち着いてくれ。ほら、深呼吸をして、吸って、吐いて、また吸って、そうだ。少しは落ち着いたか?」アルコルがミザールの両肩に手を置いて彼女を落ち着かせた。ミザールの荒かった呼吸がわずかに穏やかになる。

「ごめんなさい。こんな話をしても、おかしくなったと思われるんじゃないかって、そう思うと不安で」ミザールは目に浮かんだ涙を拭う。

「そんなこと思うわけない。それで、その石はなんて言ったんだ? ゆっくりでいいから話してくれ」

「ええ、さっきも言ったけど、私が病室にいたとき、石が光りだしたの。そしたら声が頭に直接聞こえてきて、それでもうすぐ街が攻撃されると教えられた。その声は何ていうか、敵じゃないというか信じても良い。そう思える声だったの。それからは私パニックで、あなたの姿を見てから無我夢中でここまで来たの。ここなら、その攻撃から街を守ることができるって」

 ミザールの言葉を聞き、アルコルは首をかしげる。

「でもどうやって。こんな小さな場所がなんだって言うんだ。ここには水路と花壇。それに小さな石碑だけだ」


 ミザールは、ハッとしたような顔をした。

「そう、それよ。石碑に必要なことが書いているって、そう言っていた」

「石碑、これの事か。こんな腰のあたりまでしかない、文字も掠れて読めないものが? いや、まだ読めるのがあるな」そう言って、アルコルは石碑の中心部分に刻まれた文言を指でなぞった。その文字列は、動植物などをデフォルメした絵で表される。今は教科書にしか載っていないレベルの古い言語だ。アルコルはそれを二つの部族が仕えていた伝説の王国の時代に使われていた言葉だと判断した。

 そして彼は石碑に残された古代の記録を読み取る為に、できるだけ目を凝らした。

 石碑の大部分は長い年月を経て掠れほぼ風化してしまっており、何が書かれているのかを推測することすら難しい。だが中心の部分は違う。そこだけは前後の文章に比べ、より深く刻まれているようだった。


「読めるの?」

「これでも考古学の学位はとっているんでね」

「なら、何がわかったか教えてよ」ミザールも石碑に顔を近づけ、アルコルを急かす。それをアルコルは身振りで制した。

「〝上の如く、下も然り〟か」アルコルが首を捻る。刻まれた言葉の意味は判然としない。この言葉は、哲学的あるいは宗教的な意味合いで古くから幅広く使われている慣用句のようなものだった。

「意味は?」ミザールが尋ねる。

「さあ。この言葉はその場所や状況によってさまざまな意味があるからな。これだけじゃ何も解らない」

「上にあれば下にもある」ミザールが空を見上げた。視界に広がる空は、厚い灰色の雲に徐々に覆われてきていた。その時、ミザールにあるアイデアが浮かんだ。

「上は空、ならこの下にも」

 それは直感による行動だった。


 ミザールが石碑に両手をつく。深く息を吐き、全体重をかけて石碑を下に押した。ゆっくりと確実に石碑は地面に沈み込んでいった。そして、石碑の背後の地面が揺れたかと思うと、いかなる仕掛けかは定かではないが、地下へと続く古い石階段が姿を現した。

「驚いた。まさかこんな事が本当にあるなんて。引き返して報告した方が良いんじゃないのか?」アルコルが提案する。だが本気だったわけではない。ここまで来てミザールが立ち止まるとは到底思えなかった。

「早く行きましょう」ミザールは階段を一歩踏み出す。そこで右肩をアルコルに掴まれた。

「落ち着けよ。なにがあるかわからないんだから、せめてもう少しましな服を探してくれ。下に向かうのはそれからだ」

 ミザールは一度階段から外に戻り、近くの水路に流れる水に自身の体を映して、客観的に観察をしてみた。薄い青色をした薄手の病衣は砂埃で汚れており、はじめから丈が微妙に合っていなかった乱れた病衣を着たその姿は、ボロを纏った物乞いか何かのようにしか見えなかった。

「これは確かにまずいわね。でも、ああ、ううん。わかった。着替えてくる」はやる気持ちを抑えられないミザールはその言葉を無視しようとしたが、アルコルが頑として譲らなかったため、渋々それに従った。





 アイマンは急ぎながら歩いていた。ついさっきまで部下や防衛隊の兵士たちに一通りの指示を出しおわり、ようやく落ち着いたところだった。しかしそれもつかの間、議場まで来るようにと命令があった。休む暇も拒否権も彼にはない。アイマンは渋々ながらもすぐに議場まで向かった。戦士を束ねる者に、休息などない。彼は一族の戦士団の司令官として、皆の模範とならなければならないのだ。それは彼自身が選んだ道でもあった。


〈今日はずっと急いでいる気がするな〉雨はとっくに止んでいたが、じめじめと蒸した空気はいまだに居座り、アイマンの身体に纏わりついていた。彼はそれを不快に思いつつも、足に絡まる湿気の強い空気をかき分けるようにしながら、一歩また一歩と足を踏み出していた。

 歩くことを少しでも止めてしまえば、その瞬間に自分は何もかもを放り出してどこかに行ってしまう。そんな確信がアイマンにはあった。

 雨はいつも、彼にあの大雨の日を思い出させた。溺れていた自分を命と引き換えに救ってくれた姉夫婦。アイマンは、もはや老齢といえる年になっても彼らの死が受け入れられなかった。それではいけないと何度も忘れようとしたが、そのたびに記憶は濃く浮かびあがり、強く歪んでいった。そしてそれは、彼の理想の実現をいつも邪魔していた。


 アイマンは議場に到着した。衛兵が彼の姿を認め、閉ざされていた巨大な扉の片側を押し開けた。人一人が充分に通り抜けられるほどの隙間ができ、アイマンはそこに体を滑り込ませて中へと入った。

 背後で扉が閉まる音を聞きながらアイマンは議場内を見渡した。物々しい雰囲気が議場を支配している。


「おお、アイマン殿。待っていましたぞ」大名がアイマンの名を呼んだ。声色は穏やかなものだったが、議場の最奥に設置された大名専用の席に座った彼はやけにそわそわとしており、表情は緊張で硬かった。

「遅れて申し訳ありません。隼の一族、アイマン。只今到着いたしました」アイマンは背筋を伸ばして敬礼する。

「問題はない。さあ、席へ。すぐに会議を始めましょう」

 大名に促され、アイマンはいつもの席へと着いた。彼以外にも、部族内の幹部級メンバーたちや長老たちが招集されている。それは向かいに陣取る獅子の一族も同様だった。それ以外には、一族以外の志願市民たちで構成されている防衛隊の司令官も出席している。滅多にない光景だ。アイマンは驚きを隠せなかった。


「これより会議を行う」

 大名の言葉を皮切りに、まず防衛隊の司令官が発言した。

「さて、皆様すでにご存じとは思いますが、今から二時間前、ラトプナム南側がバグによって襲撃されました」

 防衛隊司令官が合図をすると、室内に光を提供していた窓のすべてに暗幕が下り、天井の真ん中からぶら下がっていた丸く磨き上げられたクリスタルが輝き、ホログラムが議場の中空に表示された。


「こちらは、襲撃時に現場に設置されていた監視装置が撮影していたものです。爆発でところどころ破損が目立ちますが、事態を理解してもらうには一番良いと思い提出させていただきました」

 映像が再生される。壁を上り、兵士を殺害し、群れをなして胸壁を闊歩する黒い四つ足の怪物がそこには映っている。

 胸壁を守っていた兵士たちの姿が現れた。隊列を組んで銃で攻撃している。突然の襲撃にも怯むことなく対応しているようだった。

「なんだ?」誰かが呟いた。

 映像内のバグは点滅していた。黒い体色が明滅を繰り返す。それは次第に間隔を狭めていく。この後に起きる出来事をアイマンは知っていた。

 耳を塞ぎたくなるような爆発音が室内に響いた。誰もが顔をしかめ、呻いている。それは突然の大音量のせいだけでなく、バグ自体が爆弾となって長年ラトプナムを守っていた壁を吹き飛んだという認め難い事実を直視できないせいだった。

 爆発を最後に映像はノイズがかかり、以降の記録が再生されることなく、クリスタルの機能は停止された。

 暗幕が巻き上げられ、再び議場内に光が差し込む。外がまだ曇っているせいで、室内は先ほどよりはましとはいえ薄暗い。すぐに照明の松明が焚かれ、ようやく室内の隅々に光が満ちた。


「映像は以上です」防衛隊司令官は静まり返った議場内を見渡して言った。

 少しして、獅子の一族の長老の一人が疑問を口にした。

「何が起きたのかはわかった。それで、防衛隊はこのおぞましい化け物が接近するまで気付かなかったのかね?」しわくちゃの老人は握った杖に顎を置いた状態で、防衛隊司令官を睨みつけた。老人は防衛隊の事を好ましく思っておらず。事あるごとに彼らに対して過剰に非難することが多かった。

「外壁部には奴らが接近してきたことを示すような足跡等の痕跡はありませんでした。おそらくは、先日の夜の襲撃時に何某かの方法で身を潜めていたのだと思われます。夜の内に調査させましたが見落としていたようです。申し訳ありません」司令官は謝罪のため、深々と頭を下げた。その態度が余計に老人を憤慨させた。

「よくもそんな恥ずかしげもなく自分たちの不手際を離すことができるな。お前にはプライドというものがないのか」老人は口の端に泡を作りながら非難を続ける。それを見かねた別の長老が止めに入る。


「そうですよ、ご老人。このような場で、そんな態度は宜しくない」

 その場の全員が困惑した。今聞こえた声は、その場の誰のものとも異なる声だったからだ。それは少年のような甲高い声にノイズやエコーがかかった奇妙な声だった。

 全員が声の主を探した。しかし姿は見当たらない。アイマンにオーム。幹部たちの護衛を務める衛兵たちが、すぐに襲撃者の可能性を考えて警戒を始める。

「おやおや、大の大人が揃いも揃ってなんて間抜けな姿だろう」謎の声は尚も議場内の人々をあざ笑う。そして、どこからともなく背の高い影が彼らの前に姿を現した。

「皆様、ごきげんよう」そう言って、不気味な翁面を被った人物は笑った。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る