第30話 三章 十二話

 灼熱の大地だった砂漠は、昼間と打って変わって極寒の地へと変化していた。数多の星々と青白い月だけが、この凍てつく砂の地を見下ろしている。風によって綺麗に均された砂に、小さな足跡が点々と続いていた。


 トウマはそれを追って、慎重にかつ素早く指輪を奪って逃走したバグを追跡する。バグとの距離は軽く六百メートルほど開いているが、幸いな事に風は無風に近く、足跡はくっきりと砂地に刻まれている。周囲一帯に遮蔽物はない。追跡は容易だった。それよりも、この過酷な環境がいつ終わるのか分からないことが問題だった。


 人の姿から竜へと姿を変えてしまえば楽だった。灼熱も極寒も物ともせず、数日飲み食いせずとも問題がない。それに、自分は透明になることができる。ある程度なら相手から姿を消すことも可能だ。だがそれはできなかった。襲撃してきたバグは指輪を狙っていた。明らかに目的を持っての行動だ。通常とは異なる動きをするバグに、トウマは嫌な感覚を覚えた。それはつい最近にも、彼が自身の弟子を見出した帝国の端に位置する村で起こった事件の時にも感じたものだった。


 トウマは不吉な予感を頭から追い出して、砂が風で寄せられた小山に足を掛ける。足に装着された白銀の装甲は、足場の不安定な砂漠を難なく踏破する。トウマの健脚と両手両足の鎧があれば超えられぬ所はない。

 小山を乗り越えると、バグの足跡が三百メートル先にある中規模の村に向かって続いていた。

 トウマは目をこらす。夜だというのに、村に明かりは灯っていない。嫌な雰囲気だった。身を起こすと、小山の斜面に背をつけゆっくりと村に向けて下る。わずかに風が出てきた。それに乗って嫌な臭いがトウマの鼻腔を刺激する。それは様々な人間の体臭が混ざり合った汗の臭いだった。それは様々な年齢と男女の血の臭いだった。臭気は村に近づくほどに強くなっていく。トウマは一嗅ぎした瞬間にそれが何の臭いなのか理解できた。争いの臭い、殺人の臭い、恐怖の臭いだ。





 指輪を自身の口の中に抱えながら、バグは目的の村までひた走った。足が普段よりも鈍い。視界にノイズが走り、脳にあたる器官が不明なエラーが存在すると必死に警告する。だがバグは止まらない。自分自身のエラーの原因に対して処置を行う機能も命令も与えられていなかったからだ。指輪が熱く感じた。口内が徐々に溶けていく。回路がいくつかショートして、黒紫の体の内部で小爆発が起こる。しかし止まらない。

 村に足を踏み入れた。その時点で、バグの身体のあちこちはボロボロになっていた。身体中から湯気が立ち上り、関節が悲鳴を上げる。目的地である村のはずれの空き地まであと僅かの距離だ。七十メートル、五十メートル、三十、二十、零。目的地にたどり着いたバグは、糸が切れたように横に倒れた。呼吸は荒く、各部は完全に破壊され動くことは叶わない。





 トウマは付近の建物の陰から、バグの様子を伺っていた。バグの苦しそうな喘ぎ声が聞こえてきそうだ。辺りには人の気配はない。指輪を回収するならば今が好機。そのはずだった。

 バグが倒れている僅か五十メートル先の空き地に、テニスコートサイズの四角いへこみがあった。トウマはへこみのある部分の空間に、奇妙な歪みがあることに気付いた。じっと目を凝らしていると、空間が割れた。その隙間から光が漏れる。そして、巨大な蓋が音を立てて開く。蓋が完全に地面に接着すると、大型の貨物室が姿を現した。続けて貨物室から複数の人影が駆け足で降りてくる。斥候らしき黒い装束に身を包んだライフルを構えた兵士たちは、周囲を予断なく警戒しながら、倒れているバグに近づく。その光景を、トウマは息を殺して、食い入るように観察した。


 兵士の一人が倒れてピクリとも動かないバグを、つま先で何度か突く。兵士は安全を確かめてから背後の仲間たちに向かって頷き、腰のポーチからナイフを取り出して、バグの口を切り裂き、露出した口腔内に恐る恐る手を突っ込んだ。肉をかき回すぐちゃぐちゃという音が聞こえてくる。

「あった!」兵士は目的の物を見つけ出したらしく、慌てて腕をバグの口から引き抜いた。兵士は周囲に見せつけるように左手を高々と掲げた。月明りに反射して、てかてかと光る黒い液体に塗れた厚いグローブの親指と人差し指に摘ままれたラピスラズリの指輪がそこにはあった。

 その瞬間、兵士の左手が燃えた。同様にバグの死骸からも炎が上がる。炎は青白く、バグの死骸を瞬く間に燃やし尽くす。皮膚は溶け、骨格も残らない。あるのは炭のように黒くなり、肉の腐ったような悪臭を周囲にまき散らす、バグと同サイズ程度のゲル状の何かだけだ。

 兵士が叫びながら腕を振り回し、急いでグローブを腕からはぎ取った。グローブが砂に落下する。火勢は強さを増す。グローブは跡形もない。指輪だけがそこに落ちている。


 指輪を囲んで兵士たちがどよめく。お前が拾え、いやお前が拾えと、兵士たちは互いに指輪の回収の役目を押し付けあった。それは無理もないことだ。最初に無警戒に指輪を手に取った仲間が、左手を抑えながら地面にしゃがみ込んでいる。左手はグローブを取った時には時すでに遅く、骨が見えるほどにまで酷い火傷を負っている。そんな姿を見てしまっているのだから、やりたい者などいるはずもない。


「何事か!」虚空に出現している貨物室から、二次性徴期前の少年とも少女ともつかないような甲高い声が聞こえた。


 その声の主の顔は背後の光で影がかかり見えなかったが、身長からしてかなり小柄なようだった。その服装は、過酷な砂漠でも、物々しい武装グループの中でも違和感のある、良家の子息のような、白いシャツに黒い短パン、黒い靴だった。


 トウマには、甲高い声の人物が子供なのではないかと思えた。なぜ子供がこんな所にいて、あのような恰好でいるのか、兵士たちとはどのような関係なのか、疑問は尽きないが、今はそれが一番妥当な予想だ。〈だが、こんな予想に意味はないな。情報が少なすぎる〉トウマは気配を殺して、隠れていた場所から兵士たちの近くの物陰へと移動した。


「申し訳ありません。指輪を回収しようとしたのですが、突然に火が出て、その、兵士が一人負傷しました」

 兵士から子細を聞くと、子供らしき人物は侍らせていた長身痩躯で黒い上下セパレートタイプの装束を身に着けた二人の部下の片方に指輪の回収を命令した。

 部下は命令を了承も拒否もせず、無言で動き出した。それを追うように子供らしき人物も移動する。

 貨物室付近から人が離れ、空白が生じる。侵入するには容易な状態を見逃さず。トウマは貨物室へと走った。音を立てず身を低く動くトウマに気付く者はいなかった。


 部下は背中を丸めて両腕を垂らしながら指輪に近づくと、両膝を地面について腕を指輪に伸ばした。黒々とした大きな手が指輪を周囲の砂ごと掴む。立ち上がるが早いか瞬く間に青白い炎が黒い手を包む。しかし、部下は動じた様子もなく主人の方へと戻っていく。指輪を確保する瞬間を部下の背中越しに見ていた兵士たちは、驚きと恐怖に顔を引きつらせ蜘蛛の子を散らすように道を開けた。青白い火の灯る腕を自身の顔の高さに掲げた部下の顔が火に照らされる。その顔は黄土色で笑っているような、泣いているような表情の張り付いた、深いしわの刻まれた翁の仮面だった。


「いい子だ。よくやった」子供らしき人物は満足そうに言うと、振り返りその場の全員に命令した。

「目標は確保した。全員、船に戻れ!」

 小柄な体からは想像もできないような威厳たっぷりの号令に、兵士たちは素早く行動した。その場の全員が貨物室へと戻っていく。一連の動きは素早く、あとにはバグだったものだけが残った。



 貨物室の内部は鋼鉄製で広く、二か所に上部への階段があり、さらには物資の移動に使用すると思しき大型エレベーターが一基備えられていた。窓はなく、暗い廊下を照らすのは薄暗い電灯だけだ。

 血の通わない鉄の内臓を進みながら、トウマは周囲に人の気配がないか探る。高度な技術により組み立てられた事が読み取れる滑らかな壁に触れて、目を閉じた。人が慌ただしく動き回る音、得体の知れない機械の駆動音が振動となって、トウマに伝わってくる。

〈とにかく上を目指すか。いざとなれば〉いざとなれば、変身してこの空間を突き破って逃げればいい。そんな計画性の欠片もない作戦を胸に、トウマは付近の階段に足を掛けた。数歩上がると、上から人の声と足音が聞こえた。咄嗟に身を低くして気配を殺し、聞き耳を立てる。


「あいつ大丈夫かな? 腕を切り落とすって聞いたぞ」兵士は緊張感なく言った。

「おれ、あいつの近くにいたけど本当に酷い状態だったな。可哀そうに。あんな小さい指輪のせいであんな事になるなんてな」二人目の兵士が震えるような声色で応える。

「そう、その指輪の事だけど、あれはなんなんだ? さっき通った変な機械ばかりの部屋に置いてあったが、そんなに重要なのかよ」一人目の兵士があくびをしながら疑問を口にする。

「知るもんか。でも、指揮官がいつも以上に気合入れているんだ、それだけの物なんだろ」二人目の兵士は興味もなさそうに言った。そして先を急ぐように相手を急かすと、来た方とは逆の方へと早歩きで去っていった。


 二人の兵士が去ってからきっかり一分待って、トウマは階段を上りきり、左右を確認した。現在の地点は一本の簡素な廊下らしい。兵士たちが来たのはトウマから見て左側の通路のようだ。三メートル先の突き当たりから右側に通路が伸びているのが見えた。

 曲がり角から顔を出して敵がいないことを確認すると、先に進んだ。数分もしないうちに兵士たちが話していたらしき部屋を見つけた。扉には《エネルギー抽出室》と書かれた金属板が打ち付けられている。トウマはドアノブに手を掛けた。力をさほど込めたわけでもないのに驚くほどすんなりと扉は開く。人一人がギリギリ通れる程度まで扉を開けると、その隙間に体を滑り込ませて、後ろ手で静かに扉を閉めた。中は外と同様に人気がない。


 部屋の中には更に別の部屋があった。ガラス張りの壁の向こうで用途不明の機械が立ち並び、その機械群に囲まれた中心部にはトウマの腰辺りの高さの台座が鎮座している。台座の上部には透明なドームが備えられ、その中にはあの奪われた指輪が機械に固定されていた。

 トウマは指輪に近づくために目の前の精密扉のハンドルを回して扉を引き開けた。空気の抜ける音がして扉がゆっくりとその口を開けた。


 扉が十分に開いたと判断したトウマはハンドルから手を放そうとした。その時、扉の向こうから黒く大きな腕が伸びた。腕はトウマの右手首を掴み、強い力で部屋の中に引き込んだ。トウマは突然の出来事に受け身をとることも出来ず、硬い床に投げ出された。肺から空気が逃げ出す。全身に痛みが走る。しかし腕の主の姿だけは目に焼き付けようと、何とか目を見開いた。そこにいたのは、長身瘦躯に上下セパレートの黒いアーマーを身に着け、にやついたような、泣いているような不気味な翁面の男だった。男はトウマを見つめたまま、手首を掴んだ手に力を込めトウマの手首をへし折った。骨の折れる激痛から、本能的にトウマの口から苦悶の悲鳴が漏れる。


 その様子を見て、男は不思議そうに倒れているトウマの顔を覗き込んで首を傾げた。トウマは息を吸い込み、掴まれた腕を支点にして体を無理やり回転させ、左足で男の顔面に蹴りを入れた。だが男は微動だにしない。男は無造作に足を払い、掴んだ腕を離した。右の拳をトウマの顔に叩きこむ。咄嗟に左腕で庇う。前腕の骨が悲鳴を上げた。黒い腕がトウマの首に伸び、万力のような力で締め付ける。両腕が使い物にならなくなったこの状況ではなすすべがない。脳への酸素供給が遮断され、その意識は瞬く間に遠のいていく。警告しなければと思った。しかし打つ手がない。トウマは声にならない声で悪態をつきながら意識を失った。


 翁面の男は、意識を失った侵入者の服の襟を掴み引きずりながら部屋を出た。力の抜けたトウマの体が通路のあちこちに引っ掛かりぶつかり痣を作るが、男は気にしなかった。主の前に侵入者を引き立てる。与えられている命令はそれだけだ。

 歩みを進めるごとに男の仮面にひびが入り、その傷が広がっていく。仮面が限界を迎え床に落ち、同時に塵となって消える。男は気にせずに右手を挙げた。その手のひらに新品の翁面が現れる。男は、道すがらの部屋の扉にはめ込まれたガラスに顔を向けた。ガラスに映る自分の顔を見ながら、仮面を顔に近づける。


 ガラスの向こう側から兵士が顔を出す。兵士は仕事をさぼるために、偶々その部屋にいたようだ。兵士は男の顔を直視してしまった。それは不幸と言うほかない。間が悪かったが為に、彼はこの先、一生消えることのないトラウマを背負うことになってしまったのだから。

 兵士の顔が恐怖に歪む。その瞳には、闇より深く、夜より暗い虚空が映っていた。

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