第29話 三章 十一話

 自分には年の離れた姉が一人いた。

 両親は一番古い記憶の時点で既に他界しており、姉は街の食堂で働きながら自分を育ててくれた。歳を取ってから振り返り、姉はいつも、弟である自分の事を優先してくれていた事に気づく。


 何時だって自身の事は二の次で、同年代は十代の春を謳歌していたというのに、姉はその一切に興味を示さなかった。いや、もしかしたら弟に遠慮して、必死に己を律していたのかもしれない。そう考えられる程に、姉には自分の時間というものがなかった。

 いつも、いつでも笑顔だった。今でもあの大きくつぶらな眼を思い出す。優しく頭を撫でてくれた手を思い出す。


 義兄が出来たのは、自分が十二歳になった頃だっただろうか。義兄は獅子の一族の戦士だった。

 食堂にやってきた義兄になる前の彼は、一目見るなり姉に惚れてしまったらしい。

 あの頃は互いの部族の関係もあまり悪くはなかった。互いを憎い相手ではなく好敵手と認識していた。自分だってそうだ。


 姉は最初、義兄のアプローチを断り続けた。弟がいるから、世話をしなくてはいけないからと。だが、義兄はめげなかった。毎日足しげく食堂に通い、その度に姉にどつかれていたのを覚えている。二人にとって、それがコミュニケーションだったのだろう。


 ほどなくして二人は結婚した。姉の幸せそうな顔を見ると、自分まで嬉しくなった。それからは、三人での生活だ。あの時間は間違いなく、自分の人生においての絶頂期だった。

 双方の一部の人間からは眉をひそめられたが、気にしなかった。



 だがそれも長くは続かない。あの洪水、ワジが全てを流した。本来なら自分はあの時死ぬはずだった。だが生きている。姉と義兄が自分を救ってくれたのだ。

 本当なら感謝するべきなのだろう。しかし残された者は堪ったものではない。子ども一人、どうやって生きていけと言うのだ。


「祟りだ」どこぞの老人が言った戯れ言が今も耳に残る。祟り? 何故、どうして?

 まさか隼の一族と獅子の一族の人間が交わろうとしたから神の怒りを買ったと、連中はそう言うつもりなのだろうか。


 ふざけるな。

 どろりとした感情が胸に広がる。やがて、家族を失った悲しみが勝手な事ばかりを言う他人への怒りに覆いつくされた。

 長い年月を経て、自分自身の年齢が姉や両親のそれを超えた今でも、この怒りは燻り続けている。伝統がどうのと言ってはいるが、それとて自分の罪悪感や憤りを、どこかにぶつけて発散させるための方便に過ぎないのかもしれない。


 なんども考えてしまう。何度も、なんども、あの時、あの瞬間に戻れるなら、姉と義兄を救えたなら、自分はこの命を捨てても良い。そう思わずにいられなかった。


「ならば喜ぶべきだ。その時は近い」

 なんだ、誰だ。威厳と慈愛を兼ね備えた厳かな声が響く。

「この地に危機が迫っている。備えるのだ! 時間はない。急げ、今こそ獅子と隼が手を取り合うとき!」

 声は徐々に消えていく。そして身体がふわりと浮き上がるのを感じた。視界が白く染まり、意識が遠のいていく。それは、どこか心地よく、心の片隅に溜まった澱を溶かすような温かさがあった。



「…い、おい! アイマン、しっかりしろ!」

 アイマンは指輪を手のひらに置いたまま、棒立ちになっていた。日焼けしてこわばった頬を一筋の涙が伝う。「どうした。指輪は、」

「ああ、無事だ」アイマンは、手のひらの中でいまだ淡い紅色の光を放つ指輪を見つめる。先ほどの白昼夢のような記憶のフラッシュバックは、この小さな宝飾品が引き起こしたのだと、直感で理解できた。

直後、指輪は光量を強めた。そして、まるで意思を持っているかのようにアイマンの手をすり抜けて、ものすごい速度で窓に向かって飛んでいく。ガラスを突き破り、公文書館よりも高い場所に位置する病院の方角へと紅い尾を引きながら消えていった。


「追いかけよう。向こうは病院がある。あれが何を起こすか、わかったものじゃない」今は目の前の問題に対処することが先決だと判断して、オームが言った。表情は平静を装っているが、その胸中は一言で表せば混乱だった。


 アイマンがよろよろと足を踏み出した。奇妙な現象を体験した彼の精神は、日常を求めた。見慣れた街並み、人々の姿や声、風、匂い、なんでも良い。早くしなければ、自分がいる場所が現実であると確かめなければ、精神が異常をきたしてしまいそうだった。





 意識が戻った時、まず感じたのは冷たさだった。硬い石の地面に体を横たえているのだとミザールは理解した。目の前に迫ってくる紅い光球が、覚えている限りで最後の出来後だ。何があったのかと、ミザールはゆっくりと目を開けた。最初に見えたのは、自分の顔を覗き込み、心配そうな表情をしているアルコルの顔だった。

 ミザールが目を開けた事に気づくと、アルコルの表情がぱっと明るくなる。ミザールが手を突き出して彼の胸に手を突きつけなければ、壊れるほどに抱きしめられていただろう。


「何があったの」ゆっくりと体を起こしてミザールはアルコルに訊ねた。体の節々が痛む。そっと後頭部に触れると僅かに腫れているのがわかった。胸の中心がやけに熱を持っている。

「紅い球が飛んできて、何というか、胸に入っていった」自分でも何を言っているのかわからないような態度で、アルコルはミザールの胸、二つの乳房の真ん中を指さした。

 ミザールは恐る恐る自分の胸に触れる。確かに何かがある。温かな熱を持ち、硬く、すべすべとしている。ミザールは唾を飲み込むと、意を決して服を喉元まで捲り上げた。

「…は? なにこれ」胸の中心には、深く青い色をした、五センチ四方の楕円形のラピスラズリが埋め込まれていた。



「そこの二人!」慌ただしい足音を響かせて、オームが走ってきた。その背後にはアイマンもいる。

「…なんだ、ミザールか。それに君は、アイマンの部下のアルコルか?」

 オームの怪訝な表情に、アルコルは顔を背けた。獅子と隼、それぞれの部族の人間が恋人関係になることは、あまり歓迎されていないことだからだ。アルコルは目を泳がせて、口を堅く結ぶ。問いただされれば、打ち明けなくてはならない。

 だが、オームはアルコルを追求することはしなかった。今はそれよりも重要な事がある。

「このあたりで紅い球が飛んでいるのを見ていないか」

 アイマンが、地面に座る二人に詰問する。額には脂汗が浮かんでおり、呼吸が荒い。

「それならここに…」アイマンの指さした方を見て、オームとアイマン、二人の口から困惑の声が漏れた。

「何があったのかは分かりません。気づいたらこんな事になっていて」ミザールが震えた声で言う。


「そ、そうなのか。それなら、そうだな」オームは口元を抑えながら、対応を考え始めた。「病院?」「手術で取れるのか? それ」「ペンチか何かで引き剝がすか」「これ、体の中に根を張ってるような感覚があるんですけど」ああでもないこうでもないと四人が頭を悩ませていると、アイマンの通信機がけたたましい呼び出し音を上げた。アイマンは顔色を変えて、通信機の応答のスイッチを入れた。


「こちらトウマ、トウマだ! 聞こえるか!」通信機からトウマの荒々しい声が聞こえてくる。

「聞こえている。どうしたのですか? 何を慌てて…」

「敵だ! ラトプナムの南西にある村に武装勢力が拠点を築いている。奴らの目的は…」通信機にノイズが走る。うまく聞き取れない。銃声や獣のような獰猛な唸り声が聞こえる。

「トウマ、何があった! 答えろ、トウマ!」短時間の不協和音の後、再びトウマの声が聞こえた。

「奴らの目的はあの指輪だ! あれを使って、あんたたちを‼……」

 爆発音が聞こえてきた。通信機のスピーカーが割れた耳障りな音を発する。それきり、トウマからの連絡は途絶えた。


「何が起こっているんだ」アイマンは歯嚙みしながらつぶやく。「一体、何が起きているんだ!」



 

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