第20話 三章 二話

「……いやそれ、全く笑える話じゃないですからね?」トウマは、上司の態度のせいで痛むこめかみを押さえて顔をしかめた。


「そうね、実際に動くのは貴方たちだものね」上等な革張りの椅子に背を預けながら、シルヴィは猫のように体を伸ばした。体のあちこちをほぐすたびにぺきぺきと音がする。

「それで貴方の弟子の娘、なんてお名前だったかしら」

「サクヤですよ。いい加減覚えてください」

「そんなこと言わないで。なんて言ったって、あの弟子を取らないことで有名な黒曜のトウマのようやくの弟子よ? 私も嬉しいのよ」シルヴィは目を細めて声を弾ませた。


「それは良いんですがね、何のために自分を呼んだのか、そろそろ話してもらえないですか?」

 トウマは話題を変えることにした。三ヶ月前に引き取った弟子のサクヤの事を、もう何人もの同僚や友人に茶化されていた。いい加減飽き飽きだった。


「そうそう、忘れそうになったわ」シルヴィは姿勢を正し、トウマをまっすぐと見た。親しみやすい明るい女性から、特殊作戦群を率いる女狂戦士へとその雰囲気をがらりと変える。

「黒曜の竜騎士トウマ、貴方には帝国南方のラトプナムに向かってもらいます。今この地を守護する二つの部族の関係が、過去に類を見ないほどに悪くなっている。貴方の役目はその仲裁です」


 トウマは自身の仕事内容を理解した。そして自分が仲裁に入る必要があるのかと疑問を口にした。

「確かラトプナムにも竜騎士が常駐していたはず。自分よりもその土地の事をよく知る者に任せた方がいいと思いますが」

 シルヴィの顔が、幾分困ったような表情になった。

「それができればいいのだけれど、その彼も一度仲裁を試みて失敗。しかも今は南の更に南で、蛮族連中の制圧に出張っていて動けないのよ」


 ならば自分よりもこのような事案が得意そうな国の渉外部にでも任せれば良い。トウマがそう口に出そうとしたが、シルヴィは矢継ぎ早に話しているので、口をはさむ余地がない。そしてシルヴィは最後にとんでもない事を言った。

「他の竜騎士も国内の渉外部もみんな、こんな面倒ごとはやりたくないって、口を揃えて拒否したから、最終的にうちに話が回って来たの。組織されて日が浅いと、貧乏くじばかりね」シルヴィの口からため息が漏れる。彼女も半ば雑用係と化している特殊作戦群の司令官として楽ではない日々を送っているのだ。

そんな上司の苦労を察したトウマは、反論を考える事をやめた。




          ※

 



帝国南部ラトプナム 天候 晴れ



 天高く昇り地上を照らす太陽と雲の少ない青い空を背にしながら、アルコルとミザールは人が滅多にこない空き地で二人だけの時間を過ごしていた。


 甘い吐息がミザールの口から漏れる。アルコルはそれを自身の頬で感じながら、彼女のウェーブのかかった黒い長髪を右手で愛おしそうにすいた。

 お返しというようにミザールがアルコルの非対称に盛り上がった左肩を、その筋肉をなぞるように撫でる。

 二人の浅黒く日焼けした身体は火照っていた。それは熱い気候のせいでなく、彼ら自身の内から湧き上がる情熱によるものだった。


 アルコルが、ミザールの無駄な脂肪がそぎ落とされた、くびれた腰に左手をまわし、更に引き寄せる。そして、耳元でひと月分の熱情を込めて囁いた。

「綺麗だ。ここを離れていた間、ずっとこうしてやりたいと思っていた。ああ、ミザール」アルコルは離したくないというように、抱きしめる腕の力をさらに強める。


 アルコルの芯の通った低い声がミザールの心を浮つかせる。彼が腰に手をまわしていなければ、全身に力が入らずに、地べたに座り込んでいたかもしれない。それほど彼の声が、匂いが、そのすべてが彼女には魅力的だった。ミザールはその身をアルコルに預け、彼の顔に、自身の顔を近づけた。


 ミザールは目を閉じて待った。しかし、望んでいたことが起こらない。不思議に思い目を開けて、アルコルの顔をその琥珀のような瞳でのぞき込み、アルコルの翡翠のような瞳と視線が交わった。

「どうしたの?」

「いや」アルコルは満足するまでミザールの顔を見つめた。そして、ふたりの唇が重なった。むさぼるように互いの存在を感じ合う。


 ミザールの身体がふわりと浮き上がる。アルコルが腰を抱えて持ち上げたのだ。そのまま二人は壁際へと移動する。ミザールは両足でアルコルの胴体をホールドした。二人の身体がより密着する。互いの心臓の音が聞こえるような気がした。呼吸が荒くなる。アルコルがミザールの身に顔をうずめる。呼吸が更に荒くなる。


「やるぞ」アルコルは有無を言わせない口調で言った。ミザールはそれに対して頷きながら「来て」と一言で答える。そして、二人の待ち望んだ瞬間は、訪れなかった。


 空き地のすぐ近くの路地の方から、アルコルを呼ぶ声がした。

「なんだよ! クソ!」ミザールを抱えたまま、アルコルは思わず毒づいた。

「はあ、いつもこんな感じよね。私たちって」ミザールは軽やかにアルコルの手から離れると、身だしなみを整えながら言った。口ぶりは軽かったが、その表情はとても残念そうだった。


「なあ、」アルコルは諦めきれずにミザールに無言で続きをしようと訴える。ミザールは、その表情を見て、まるで大きな子供みたいだと思った。

「だめよ。あなたも私も、いつも自由にとはいかない。わかっているでしょ?」ミザールは、つま先立ちでアルコルの顎に口づけした。


 不意を突かれたアルコルの鼓動が速くなる。やはりこのまま彼女との時間を過ごそうか、という誘惑に駆られたが、なんとかその荒ぶる本能を押さえる。

「また後で」耳元でそっと囁くと、ミザールは足早にその場を去った。


 後には、半ば呆けた状態となったアルコルだけが残される。右手が自然と口づけされた左顎に向かう。彼女の柔らかくも張りのある唇の感覚が、まだ残っている気がした。


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