さくらのふみ

第1話

浅き春。

午前零時。


ほとんどの家がその明かりを消し、点いているものと言えば、道端のガス灯程度。

行き交う人もほとんどいない、静かな、ただ、静かな世界。

月は無く、星の瞬きに音があるなら、それすら聞こえそうな空の下に、一人の青年が表れた。

絣の着物に袴。

学生帽。

丸い眼鏡の奥の瞳はまだ少年の幼さを残している。

石畳の上に下駄を吐いた足を置くと、思いのほか大きな音が出て、彼は目を見開くと、辺りをきょろきょろと見回した。

そして、胸に手をあてて、ほ、と、小さく白い息を吐くと、下駄を脱いで両手に持ち、裸足で駆け出した。

自身の影をガス灯の明かりの中に残しながら、彼は進行方向とは逆に流れるそれを振り切るように走り抜ける。

やがて、石畳が切れ、土の道になっても、彼は裸足のままで走り続けた。

土と草の道なき道を彼はひた走る。

顔を上げ、他には目もくれず目指すその先に、大きな一本の桜の木があった。

花はまだ五分咲きと言ったところで、辺りに人の気配はない。

彼は肩で息をしながら、そっとその桜の木のうろに手を伸ばした。

右へ左へと動いていた手が何かに触れてぴたりと止まった。

ゆっくりと引き出された彼の指先には、折りたたまれ、結ばれた紙が大事そうに挟まれていた。

指先から手のひらへ、その紙を移したとき、彼は何かに気づいて顔を寄せた。

深く息を吸うと、彼の頬に仄かに紅が差す。

彼はそれを大事そうに懐にしまい、下駄を履いて町への道を戻り始めた。

ゆっくり、ゆっくりとした足取りで、時々立ち止まり、胸に手を当てて、ほんのりと笑う。

そうして、最初のガス灯を見つけると、彼は小走りにその光の中に入った。

そっと胸の内から紙を取り出し、震える手で結び目を解く。

ゆっくりとその中身を確認し、


彼は、


その手紙を胸に抱いて天を仰ぎ、大きく大きく息を吐いた。


頬は紅潮し、今にも叫びださんばかりの破顔。

その頭上を、流れ星が一つ、美しく尾を引いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さくらのふみ @reimitsuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ