群青夏の香(グンジョウカノコウ)

arenn

誰の足音も聞こえない渡り廊下。


窓からわずかにさす西日の鋭さに、目をふさぐ。

ひぐらし蝉が泣き止んだと同時に、雨が降ってきた。

夕立。

蒸した空を覆うように、水の壁が立ちはだかる。


傘を忘れた自分に呆れながら、ざあざあ降る雨を昇降口から眺めていた。

それから10分経った。雨の様子は変わらない。

夕飯の支度に支障がでる、そう思い、雨の中に飛び込んだ。

水が染み込んでくる気配を感じる。

生ぬるい水が髪を伝って頬をなでてゆくのを、気にも止めずに早歩きで帰路を進む。

誰も見ていなくてよかった。

徒歩で10分、走れば5,6分で家に着くはず。

細く長い下り坂を、一心不乱に走る。

往来の車の水しぶきで靴の中まで浸水してくる。鞄の中の教科書類だけは濡れないように予備で持っていたセーターで包んだが、心もとない。

横断歩道の信号の表示は、赤だった。

ぼんやりとその色を見つめる。

息を整えようと、深呼吸した。

夏が終われば

受験が待っている。

国立大学に免除特待生としていけたなら…

青。

走れ。

いや、私は行かなければならない。

薄暗い道のなかの石段を登って我が家へ急いだ。


明くる日、学校に入る門の前に数人が立ち尽くしていた。

私は目を背けた。

そのなかの一人が私の肩を掴んで押した。

一歩だけ後退する。

無言でその人を睨み付けた。

なにやら、昨日の傘をささずに帰ったことを目撃していたようで、

口を揃えて、各人が笑いながらからかってくる。

目撃されてしまった結果はどうでもいい。

着席のタイミングが遅くなる。

遅刻だけは避けたかった。

この人たちはそれを意図的に邪魔しにきているのだ。

どうしたものか、としばらくは黙っていたが教室までに

間に合う時間が残り少なくなってきた。

強行突破しかないか…


思案の最中、後ろからなにか飛んできた!

足!

思わず頭を押さえて、低姿勢になり身構える。

目の前の邪魔者の群れが瞬く間に蹴散らされたのだった。

「行くぞ」

何者かが黒髪をなびかせ、私の手首を握った。

二人で一気に階段を駆け上がり、教室に飛び込んだ。

ちょうどチャイムが鳴った。

「ありがとうございました」

お礼を言っているそばから、彼は歩きだし、先に席についてしまった。

私は後ろのほうの席なので、彼を素通りする格好で座った。

窓の外がざわついている声がする気がしたが、授業に集中しなければ…

たしか彼は川野という名前だったろうか。

1時間目が終わったら、声をかけてみよう。

「昼休みに図書室きていただけますか」

彼の席の側に立ち、なるべく小声で問いかけた。

彼はのけぞって私の目を見つめた。少し目が充血しているようで赤らんでいる。

しばらく無表情だった。

どちらとも言わずに、机に突っ伏して寝てしまった。

まだ1時間めだというのに。

同じクラスになってから、存在は知っていたにも関わらず

彼のことはなにも知らないのだった。

前半の授業を終え、昼食を早めに済ませて3階奥の図書室に向かった。

どうしても、気になって仕方ない。

図書室の重い木製の扉を開けた。

ここの空間だけは静寂で、勉強をしていたり本を読んだり、ぼんやりしたり個々の時間が流れていて、時が止まっているようで、心地よい。

周囲を見渡してみても、彼の姿はなかった。

どこかの棚の間かと、覗きこみながらゆっくり歩いた。

【哲学】の棚のところにたどり着いた。

彼は棚と棚の間の壁にもたれかかり、両腕を組んで僕を待っていた、と言わんばかりに僕をまっすぐ見た。

一番奥の棚だから、少しくらいは小声で話をしても問題なさそうだ。

「なぜ生きるかを知っているか?」

彼が問う。

「ほとんど、あらゆる「いかに生きる」に耐えること」

私は答えた。

彼は不敵な笑みを浮かべて、音を立てずに手をたたく素振りをした。

「さすがだな」

「そういうあなたも、意外に博識なんですね」

「不良が勉強できないとでも?」

彼はいじわるな表情をして、私を困らせようと顔を近づけてくる。

私の眼鏡を長い指でぐいと押し上げた。

ふっと笑ってしまった。

私よりも彼のほうが小柄で、背が低いがゆえに上目遣いのようでもあり子犬みたいだな、と。

「なに笑ってんだよ」

「いえ」

ふう、と息をはきだした。

「それで……どうして私を庇ってくださったのですか? 私は付きまとわれ、時には暴力を。時には金銭を要求される身です。ご存じですか? あなたは中学の出身が違うからあの人たちを知らないはずでは?」

窓から風がふわっと流れてくる。

じわりと汗が首もとに垂れる。窓際の蒸し暑さよ。

彼の黒髪がさらさらと揺れる。風のさわやかさよ。

どこまでも深い黒の瞳の色が、しっかりと私を捉えているのが見える。

午後の色に染まったまぶしい光。

「そんな話をしに来たのかよ」

彼は顔を更に近づけてきた。

「西山ぁ、おまえ、わかんねぇのかよ」

ふいに後頭部の髪をわしわしと撫でられて、とっさに手を振り払って後退りしてしまった。

私は汗で汚れているというのに。

ああ、なんてことを。

「す、すみません。反射的にこわくて……」

彼は頭をぽりぽりと掻いた。

「時期にわかる。それまでおまえは下僕って呼ぶぞ。そうすりゃ、誰も手出しできないだろ」

まったく理解できなかった。

これはまた新しい恐喝の一種なのだろうか。

またあやしげな人に見つかってしまったのか。


時間は転がるように過ぎていった。

夏休みでも学校は教室を解放している。

家では集中できない学生のために、空調のきく静かな大きな講堂を用意してくれているのだ。

私も家ではなにかと気をとられるため、同じ時間に通学して、そして時間になると帰宅する。

川野さんも毎日ではないが、いつも一目につかないよう後ろの扉から入って、前から見えにくい柱の影で、自主的に勉強しているのだった。

あの日、助けてもらって以来、あまり言葉は交わしていない。彼を避けているわけではないのだが、どうしても授業や移動で忙しくしていると雑談まで余力がないために、疎遠になっているだけのこと。

他のクラスメートに川野さんについて聞いてみると、以前から不良学生たちに絡まれていて、その度に喧嘩沙汰になって会議にかけられていると噂になっているという。ただ、客観的に事例をきくとどうやら不良が弱い生徒を虐めている場面が多く、また私のときも同様で、背負わなくていい枷を自ら科しているように思えた。

本当に悪いのは川野さんという訳でない、という結論を私はだした。

学習時間にわざわざ隠れているのは、やはり余計な争いに巻き込まれたくないのだろう。そう思い、夕方まで知らないふりをして、私も勉強に集中した。

チャイムが鳴る。

教室にいる人たちは、音が鳴ると同時に片付けはじめ、それぞれに部屋から出ていく。

夏の特別教室だから、とても静かな環境で

有意義に過ごせる。

モラトリアムも悪くないものだ。

教室の後ろを振り返る。

川野さんも片付けをしていたのが、チラリと見えた。

私はあえて階段上になっている教室を昇り、柱の奥を覗いた。

「お疲れ様です」

川野さんは少し驚いた表情をした。

「おお、なんだ」

あまりにも素の表情を見せたので、ふっと笑ってしまった。

「せっかくだから、一緒に帰りませんか」

徐々に教室から人がいなくなっていく。

そして二人だけになった。

「俺、お前と同じ高校を志望にしてる」

突然、ハッキリとした声で告げた。

「内申点と素行公表されたらギリギリだけど、テストならなんとか追い付けるかと思って。バイトも減らしてんだ」

川野さんの顔がみるみるうちに赤くなる。

私もつられて顔からほてってくる。

「お前と同じ組になってから、ずっと気になってたんだ。他の組の弱い生徒も助けたりしてたけど、お前だけはアイツらに手を出されるのが妙に腹立ってきて……つい足が出てしまったのは、まずかったなと思うけどもよ」

目を見つめあって、数分たったような感覚。

涼しいはずの部屋にも関わらず汗が止まらない。

私はちらりと腕時計をみた。

「わりい、引き止めちまったな。早く帰ろう」

「はい、参りましょう」

「敬語やめろ。同級生だろ、俺ら」

「はい」

耳を真っ赤にして、彼は私を押しのけるようにして、慌てて部屋を出た。

そのあとを追いかけるように、私も小走りして教室をあとにした。

あっという間に姿が見えなくなってしまって、昇降口前に立って呆然としていた。すると夕焼けを背に川野さんが自転車に乗って現れた。

「西山、チャリの後ろに乗れ」

川野さんは今までに見たことがないほど、笑顔になっている。

青がわずかに残る星の光が弾けている空から黒の瞳に光が零れおちてキラリキラリと反射する。

「はい!」

【絶対に2人乗りしてはならない】を解除する。

私はすこし悪いことをする。

それでもしてみたかった!

自転車の後ろに乗って、長い下り坂をこの人と共にゆけるなら。

「しっかり掴まれよ! ブレーキなしでいくぞ西山!」

流星の速さで走り出す。

汗で滲んだシャツの背中をぎゅっと両手で抱え込む。

夏、まだ終わらないでほしい。





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