第10話 群れさせた後の「ツケ」や、いかに?

 山崎指導員もまた、何とも言えないやりきれなさを味わっていた。

 彼の同僚である尾沢康男指導員は、O大学に進んだ元児童のZ君や定時制高校4年時の途中で「退所」した同じくG君などの件もあり、中高生男子の担当については、すっかり自信を無くしてしまった。

 そのため、山崎指導員が中高生男子の担当を全面的に受持つようになった。

 大槻園長と彼とは職業観において相容れないものを持合わせていたものの、中高生男子の担当は、彼にとっては「天職」のような要素さえあった。酒席などでの中傷的な言動も幾分あったとはいえ、その罵倒の主の大槻園長も、その点の彼の能力については大いに買っていた。


 よつ葉園の中高生男子児童については1980年代後半以降、実にのびのびとした生活を送れるようになった。

 大学進学者も数年に一人のペースで出てきた。

 かつての養護施設を知っている者ならば、これが「施設」なのかと思うほどになったその場所で、中高生男子を導いていたのが、山崎良三指導員であった。

 彼はやがて「児童指導員」という名の役職の職員としての「仕事」の概念を変え、目の前にいる中高生の男の子たちを見守る「大人の一人」として、自家用車で約15分かけて自宅からよつ葉園という「職場」に通い、彼らの「生活」と「成長」を見守り続けた。

 職員として勤めてさえいれば、猫も杓子も「先生」と、子どもらはもとより大人にまで呼んでもらえるその地で、彼はほとんどの中高生男子から「先生」と呼ばれることはなく、「山さん」と、まるで刑事ドラマの主人公のようなあだ名で気軽に呼ばれていた。彼もまた、そのような状況を歓迎していた。

 その頃のよつ葉園では、かつて宮木少年がいた時代の「悪弊」は、かなり払しょくされていた。


 だが、今こうして幼少期を過ごした街で行き倒れになった宮木正男という20代半ばの青年にとって、そんなことは目先の気休めにも、ましてや将来の指針を決める何かにさえもならない。

 宮木正男のこれから先。確かに「心配」ではあるが、児童指導員としても、山崎良三個人としても、これ以上、彼に対する責任は負いようもない。


 山崎良三指導員の同僚でO文理大学を卒業後よつ葉園に新卒で就職した尾沢康男児童指導員は、この10年来、よつ葉園にいる子どもたちの姿を見て「希薄な人間関係」と、ことあるごとに述べていた。

 彼には、青春をテーマに銘打って森田健作や村野武則らが主演する高等学校を舞台にしたテレビドラマのような、良くも悪くも人と人がぶつかり合う人間関係の中でこそみんなが仲間として自己を高め合っていく中で個々の人間性が高まり、そして社会性も磨かれていくものだという思いがあった。

 そこからくる彼の言動は、子どもたちを群れさせて保母が適当に「管理」して日々を過ごさせるという従来の手法とも相性は悪くなく、それをものの見事に「補完」する役目さえも果たした。


 彼は幼少期より剣道をしていた。

 よつ葉園が津島町にあった頃の集会室には、剣道の練習ができるだけの空間はなかった。幸か不幸か、彼が大学を出て児童指導員として就職したころには、すでに移転問題が持ち上がっていた。

 尾沢青年は、将来の幹部職員として設計段階で大槻和男主任指導員から意見を求められた。尾沢指導員はその時迷わず、せめて剣道の練習ができるだけの空間が欲しいと主張した。彼が学生時代剣道をしていたことを知っていた大槻指導員は、尾沢青年の思いを汲んで、そこを十二分に意識して集会室の設計に意見を述べた。

 よつ葉園が郊外の丘の上に移転して間もなく、彼は管理棟の2階の集会室を使って、子どもたちに週3回、小学生の子どもたちを募り、剣道を教えはじめた。彼のライフワークである剣道は、移転先で子どもたちを束ねる手段となるかに見えた。

 尾沢氏はやがて、住んでいた職員住宅を離れてよつ葉園のある丘の下に家を買い、そこに妻子とともに移り、そこからよつ葉園という職場に通い始めた。

 その頃から彼は、よつ葉園のある小学校区のスポーツ少年団で剣道を指導するようになった。

 よつ葉園の子も何人かは来たが、みんなこぞって来ることはなかった。


 宮木正男少年も、剣道を少しはかじった。

 だが、それがものになるほどの結果を招くことはなかった。

 そしてそれは、尾沢指導員が移転を機に取入れようとした剣道だけではなく、毎年夏(昭和50年代半ばまでは11月中旬に行われていた。それが8月にまで前倒しになったのは、中3生の高校進学が養護施設においても一般化してきたことが理由である)に行っていた養護施設対抗ソフトボール大会にしてもそう。施設(職員)側が子どもたちの「ためを思って」与えようとしたツールのほとんどは、どれもみな、おおむね同じような結果に終わっている。

 それは宮木正男だけではなく、他の子にとっても同じだった。


 養護施設という場所で、子どもたちを退屈させまいと、何かを考え付いては子どもたちを集めて何やら遊ばせたり何かやらせたりしてみようという当時の試みは、当時の入所児童であった子どもたちに、何かを残せたのだろうか?

 それらは、今の彼らの人生や彼らの家族にとって、プラスであれマイナスであれ、何かの財産となっているのだろうか?

 確かに元園児と元職員、あるいは職員同士、ひょっとすると元児童同士が結婚したという例もないわけではないが、全般的に見れば、そこで何か一生のつながりができたという話は、第三者が思うほど、多くはないのも厳然たる現実。


 いかに美辞麗句を標榜し、なにがしかの手をつくそうとも、所詮は希薄な人間関係の中で、宮木正男青年は生きていくことができなかったのである。

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