第6話 高田正三警部補の回想

 高田警部補の通っていた中学校の学区にも、養護施設があった。そこの子どもたちに何人か友人がいたし、今も付合いのある者もいる。

 彼らはその施設のことを、まったく悪く言っていなかった。しっかりした運営がなされていた養護施設で、地元住民からも大いに理解されていた。

 何より、まだ戦災孤児がいた頃の話。

 施設の子どもたちだけでなく、一般家庭で育った自分の家にしても、それほど豊かではなかった。

 テレビにしても、うちにはなかった。テレビを観るとなれば、近所の知合いのもとに行っていた。そこで、プロ野球の中継などを見ていた。

 もちろん、白黒テレビだった。

 あの「天覧試合」が行われた1959年6月25日の巨人対阪神戦も、その家で見せてもらった。杉浦忠の日本シリーズ4連勝も、大洋ホエールズの日本一も。

 その頃の正三少年は、中学生だった。


 あの養護施設には、何と、その頃からテレビがあった。

 地元の議員有志が金を出し合って、白黒テレビを1台、質流れのものを仕入れて寄贈した。仲の良い同級生で、その施設にいた少年がいた。彼は、そのテレビでプロ野球や歌番組などを時々見ていた。

 1959年の皇太子成婚、そして紅白歌合戦と、何か大きなイベントがあるたびに、その養護施設は、地元の人たちにもテレビを開放していた。別にそれで商売をしたわけでもないが、観に来た人たちが、10円なり20円なりを、施設にお礼だと言っては「寄付」していた。

 そうして集まった金をうまく活用して、その施設は、園舎の改築費に充てるなど、様々な工夫をしていた。

 彼が一番仲の良かった施設出身の同級生は高校卒業後就職したが、その後事業を興し、出身の施設にテレビを何台も「寄贈」した。

 彼は確かに、立派な社会人になった。

 だが、当時のことを思い出すにつけ、あの養護施設でテレビを観るということは、一家の「団らん」などとは程遠いものだなという印象を持った。


 テレビはその後大量生産されるようになり、各家庭へと入り込んでいった。

 チャンネル争いという家庭内の「いさかい」はあちこちで見られたが、たくさんの人が集まってテレビを観るという光景は、段々と廃れていった。彼が結婚し子どもが生まれた頃には、すでに自宅にカラーテレビがあった。自分は別にテレビをじっくりと観ることはなかったが、子どもたちが見ている番組を通して、世の中の状況をうかがい知れたことには、それなりの意義もあった。

 とはいえ、宮木青年が生きてきた時代、正確に言えば1970~80年代という時期は、彼が養護施設で過ごしたというきらいはあるにせよ、社会全体としては自分たちの少年時代ほど貧しくはなかったはず。そこで彼は、養護施設にいた頃、どんなテレビ番組を見ていたかを尋ねてみようと思った。

 郊外の丘の上に1981年春全面移転したよつ葉園では、寮ごとにテレビが置かれて、すべてカラーテレビになっていた。さすがにのべつ観るようではいけないということで、寮ごとに毎週、毎日、どの時間帯にどのチャンネルの何の番組を観るかを決めて、それに従って各寮でテレビを観ていた。


「中学生の頃は、テレビの歌番組をよう視た。あれをもとにして、クリスマス会とか、やったのは覚えとる。楽しかったけど・・・」

 青年の言葉の語尾に、中年刑事は妙な薄ら寒さのようなものを感じた。日本海側の街とはいえ、昼間にはまだ暖房を掛けねばならないほどの時期でもないはずなのに。


「楽しかった? それで、どうなんや・・・」

「終わったら、それまでじゃ・・・」

「そうか・・・」

 ますます生気をなくしていくような青年の言葉に、高田警部補は、そうとしか言い返せなかった。


 テレビは、子どもたちを群れさせて管理するには、絶好のツールというわけか。高田警部補は、ふとそんなことを思った。いまだにあの手の場所には、自分たちの思うような、あちこちの家庭で日々展開している「一家団らん」とは程遠い、刑務所の娯楽のような光景が展開されていたのか・・・。

 そんな環境で育って、果たして、まともに社会に適合できるのだろうか?

 この青年が今こんな状況に置かれている最大の責任は、養護施設、いや、彼の育ったよつ葉園という一施設の個々の職員の児童に対する対応などではなく、日本の児童福祉の貧弱さ、お粗末さにあるのではないか。

 もっと言えば、その背景にある思想の次元の高さ、と言っても低い方から見たほうが早いのが相場だろうが、そこらに大きな原因があるのではないか?


 今、電話の向こうにいる山崎さんという児童指導員なる職責の職員にしても、よつ葉園にいる子どもたちの面倒を一生見ることなどできない。

 学校の教師と同じで、所詮は、子どもたちが施設を「退所」してしまうか、あるいは、彼がその仕事を辞めてしまうか、そのどちらかが成立したその時点で、彼(彼女)らはお互いタダの人同士。

 これが親兄弟、あるいは身内ならまだしも、所詮は全くの赤の他人である。

 予想通りとはいえ、高田氏は、いささかの寂しさも感じていた。


 少し署内で宮木青年と話した後、高田警部補は、彼を豊岡市の社会福祉事務所に連れて行き、彼の処置を引継いでもらった。後に福祉事務所の担当者に聞けば、彼は、大阪までの旅費を借り(といっても、返ってくる当てのない金なのだが)、それで、改めて父の居場所へと向かったという。


 養護施設ちゅうとこは、しかし何や、えらい、冷たいところやなぁ・・・。


 中年警察官は、一通りの仕事を終え、そうつぶやいた。

 そうでも口に出さないとやっていられない感情が、彼の心の中にしっかりたまっていたから。そうとしか言いようがない。


 その後宮木青年がどうなったのかは、高田警部補には一切不明のままだった。

 彼が豊岡を訪れた翌年の、春までは・・・。

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